「大阪あそ歩」。難波りんごさんのガイドによる「阿倍野コース」レポートの、3回目。
大阪市阿倍野区松虫通3丁目2番地の「聖天山公園」の西側の小道を南へ、「聖天山」山頂を目指します。
この道と左手が、本レポートの対象である「阿倍野区」、右手は「西成区」です。
公園を出てすぐの高い所に、「ぼけ封じ地蔵尊」なるものがありました。
丁度いいと、お参りしたかったのですが、先客(?)もあり、ツアーのため諦めました。
聖天山の山頂は、「正円寺」の境内にあるとか。
まもなく、その敷地の北端に達しました。何故か、お寺なのに鳥居のある登り口があります。
石柱には、円正寺の本尊「大聖歓喜天」は「是より南へ三丁(約330m)」とあります。
敷地は鉄柵で囲われていて、「大聖歓喜天尊」と白地で抜かれた赤い幟(のぼり)が並んでいます。
今回は、ここからではなく、更に南にある登り口から、円正寺に向かうことになりました。
道を進むと、小高い石垣の上に鉄柵が続きます。
そこから、石碑が垣間見られ、写真を撮ろうとしましたが、高くて携帯を持つ手を入れることが出来ず、隙間に出来るだけ近づけて、何とか写せました。
一つは、「兼好法師隠棲庵(いんせいあん)址」。
もう一つには、「兼好の 午睡さますな 蝉しぐれ」という、「燦浪」と言う人の句が刻まれていました。
「吉田兼好(よしだ・けんこう)」が、俗世間を避けて静かに暮した所のようですが、詳しいことは、のちほど難波さんから教わります。
「聖天山正円寺」とありますが、山号は「聖天山」ではなく、「海照山(かいしょうざん)」。
西方に、海を見渡せることからのようです。キラキラと輝く海に照らされていたのでしょう。
ここにも、お寺なのに、比較的新しい鳥居があります。
この石段を登ると視界が開け、やっとお寺らしく、撞鐘堂や山門が見えました。
ところが、境内に入ると、またもや・・・・
「歓喜天」の鳥居に、阿吽(あうん)の狛犬(こまいぬ)までいて、まるっきり神社です。
本尊が、商売の神とされる「大聖歓喜天」、いわゆる「聖天さん」・・・だから?
「神仏同体説」「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」・・・歴史で習ったものの、中身を覚えていません。
本堂を見ると、やはり、お寺の雰囲気です。
難波さんの向うの人々、何かを見つめています。近づいてみましょう。
何とここが、聖天山の山頂でした。標高は14m。
「天保山=4.5m」を初め、大阪市の三大古墳と言われてきた「「御勝山(岡山)=14m」・「帝塚山=20m」・「茶臼山=26m」と共に、「大阪五低山」と言われているそうです。
人工の天保山以外、古墳のようですが、最近では、茶臼山は和気清麻呂の開削工事で上町台地の堀土を積み上げたものとの見方が強くなっています。
それはともかくとして、ともかくも聖天山山頂に立ち、「登山畢(ひつ)」、即ち登山を終えたとする、「登山証明書」を授かりました。
聖天さんとしては本尊が日本最大、聖天山全体が古墳であると書かれています。
< 聖天さん >
正円寺の境内の南門から、「松虫通(まつむしどおり)」の方へ出ます。
「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて・・・」
お馴染の「徒然草(つれづれぐさ)」の一説が刻まれた石碑の前で、難波さんの説明がありました。
「正円寺」がこの地に再建されたのは、元禄年間。その360年ほど前、「徒然草」を綴った10年後くらいから 「吉田兼好(兼好法師)」が、この地に隠棲していたそうです。
法師は、文武両道に秀でた南北朝時代の武将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」に絶大の期待を寄せていましたが、1338年に阿倍野の合戦で戦死したことに失意、この地に移りすんで、藁(わら)を打ち、ムシロを織る日々を送ったと伝わっています。
また、傍らには、この辺りが桜の名所だったことも、合わせて詠んだ句碑もあります。
「兼好も むしろ織りけり 花ざかり」
作者は「服部嵐雪(はっとり・らんせつ)」。兼好の文才に心酔していたとされる、江戸前期の俳人です。
風光明媚の地に、歴史を刻んできた「兼好の庵~円正寺」を学んで、「聖天山」を後に、次に向かいます。
流域歳時記④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の10月6日の頁は、奈良の大和川の支流の一つ、曽我川の畔に、蘇我馬子(そがのうまこ)が創建したと伝わる神社の例祭日と、捉えています。