中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 これが、何処の地図か、お分かりでしょうか?


 310年近く前の「大阪府」の一部です。

 東に「生駒(いこま)山地。西は「上町(うえまち)台地」付近まで。

 北の「淀川」から、南は現在の「大和川」付近までが、描かれています。

 縮尺が正確でなく、多少の誇張部分もありますが、大阪平野には川や池の水で一杯です。

 もう少し、縮尺の精度を上げて、西の海「大阪湾」辺りまで広げてみましょう。


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 今の「大和川」も点線で示していますが、右下の「石川」合流後のピンク色が「古大和川」。緑が池で、「深野(ふこうの)池」と「新開(しんひらき)池」及び、「依網(よさみ)池」が描かれています。

 その北端に「大坂城」がある「上町台地」の東側の、川や池の多くの水は、ただ一ヵ所、「淀川」に合流しないと海に入れない(水が吐けない)ことが、分かります。

 当然、大雨が降れば、大阪平野の洪水は避けられません。


 そこで、声が挙がったのが、大和川を淀川と切り離して、直接海に流そうという計画でした。

 農民主導のこの願いは、幕府が認めるまで半世紀近くを要しました。

 そして、ピンク色の石川合流後の「古大和川」と緑色の池が、新しい「大和川」の開削で姿を消し、「新田(しんでん)」として生まれ変わりました。

 これが、1704年に行なわれた「大和川の付け替え」です。


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 この運動に奔走し、幕臣と共に工事の指揮をとったのが、「中甚兵衛(なか・じんべえ)」でした。

 1639年に、「河内国河内郡今米(いまごめ)村」(現在の東大阪市今米)の庄屋の家に生まれています。

 最初に江戸に嘆願したのが19歳、工事が行なわれた時は66歳。

 当時としては極めて稀な92歳で、享保15年(1730年)の今日・9月20日に亡くなりました。


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 「 南北大河を切り離し 大和川を九十度 方向転換せにゃ駄目と 緻密な計画練り上げた・・・

 ~『ジュニア版・甚兵衛と大和川』22頁より 」

 本の読者が、こんな若き日の甚兵衛の姿を想像して描いてくれました。


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 本のついでに余談になりますが、平成16(2004)年に「大和川付け替え300年」に迎えた際に、『北から西への改流(かいりゅう)・300年 甚兵衛と大和川』という本を出しました。

 この「甚兵衛と大和川」の文字は、「甚兵衛」と「大和川」は、中甚兵衛自筆の違う文書(もんじょ)からとって大きさを合わせたもので、「と」のみ、私が書きました。

 また、マークの方は、甚兵衛が着用した陣羽織の内側の裾に書かれている「水」の文字を、「甚兵衛」の「J」と「3」に分けて、300年記念を表現したオリジナルです。


 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の9月20日の頁も、「中甚兵衛、九十二歳で他界 《乗久忌》」と題し、京都東山のお墓について記しています。