中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 文久2年(1862年)の閏8月15日。

 京の五条橋東升屋何某の宿を早朝に出た、中九兵衛重信と河澄作兵衛常房の二人は、眼鏡橋を渡って「大谷本廟」「西大谷墓地」を参り、東山の「鳥辺野」を巡ったのち、東西の本願寺を詣でています。


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 重信の歌の題材にもなった「眼鏡橋」とは、「大谷本廟」の総門に至る、正面入口の「皓月池(こうげついけ)」に架かる橋で、正式には「円通橋(えんつうきょう)」と呼ばれています。

 重信らが訪れた6年前、安政3年(1856年)架橋の、長さ40m・幅6mの石橋です。

 木が生い茂る池の横から見ないと、眼鏡橋とは気付きませんが・・・。


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 総門前の石灯篭には、「元文四己未(つちのと・ひつじ)年三月」とあります。西暦では1739年。

 中甚兵衛の亡くなった、享保15年(1730年)の9年後になります。


 「大谷本廟」は、浄土真宗の宗祖「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」の御廟所ですが、この地に廟堂が移転され、「大谷」と称するようになったのは、慶長8年(1603年)のことと言われています。

 親鸞は、1263年に往生。現在の本廟の御荼毘所(おだびしょ)で火葬されましたが、ここより北方の「知恩院(ちおんいん)」のある近くに廟堂が建てられ、その地を「大谷」と呼んでいました。


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 本廟北側の石垣や塀に沿う道は、「鳥辺山道(とりべさんどう)」と呼ばれています。

 写真は春のお彼岸のものですが、墓参りに行く人、済ませて帰る人で一杯になります。

 この道の左側に、わが家の墓石を作った「大槻石材店」が見えます。

 また、本廟北門前の「山口花店」は、明治の頃まで墓の管理を請け負い、毎月決まった日に花を添え、年に1回、今米(いまごめ)の家に集金に来ていたそうです。


 重信・常房が歌に織り込んだ「鳥辺野(とりべの)」は、「阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)」とも呼ばれる鳥辺山の西方に広がる山麓一帯を指しますが、北は「清水寺(きよみずでら)」の南の「西大谷」の辺りから、南は「今熊野観音寺」の北の「鳥辺野陵」に至る、墳墓地の総称としても使われています。


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 これが、昭和60(1985)年の上石立て替え前の写真です。

 上石を動かしての納骨方式で、昭和56年の姉、58年の父の納骨の際に表面が欠けました。

 また、「中甚兵衛墓所」の石柱と花立ては、昭和になってのものであることは、13日に述べた通りです。


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 重信がお参りした墓石が、これであったかどうか気になるところですが、どうやら、この上石はこの時から数年以内に、重信が立て替えたもののようです。

 写真では分かりずらいので、拓本で確認します。


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      (右側面)                (正面)


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            (背面)                      (左側面)


 左側面には、「乗久(じょうきゅう)」の命日である「享保十五庚戌(かのえ・いぬ)年九月廿日」の日付のあとに、中甚兵衛の娘と見られる「妙喜」から始まって、3人1行で9名、続いて背面に、同じく15名の、計24の法名が列記されていました。

 その最後の「乗覚」が、その年7月に亡くなり、それを偲んで詣でた九兵衛重信の長男「甚太郎」なのです。


 重信自身は、その6年後の慶応4年(1868)年に他界しますが、自身の法名「乗宝」が、右側面に見られます。甚兵衛以降、代々生前中に法名を得ているようなので、再建者として刻んだものと考えられます。

 もう一人の「教信」は、他家に養子に出たものの、歌などを通して親交の厚い、実兄かもしれません。
 

 恐らく、これが江戸末期の再建。昭和末期は再々建になるものと思われます。

 現在の上石の、左側面には甚兵衛の命日、背面には「昭和六十年五月再建」とあるだけで、旧石の24の法名は略しています。

 尚、「過去帳」と、吉原の「西光寺」・今米の「清証寺」・天満の「定専坊」の記録から、甚兵衛の父以降、昭和の終りまで、56の法名を確認しています。


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 重信・常房の二人は、「秋の日の空も定かならざれば・・」と、急いで帰路につきました。

 五条から「高瀬舟」で伏見に向かいます。

 「初紅葉」や「秋の夕暮れ」を歌いながら進むうち、竹田の里では醍醐の嶺より出る名高い「十五夜の月」も目にすることが出来ました。

 伏見よりの「三十石船」でも、月を愛でる内、夜が更けていきました。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月14~16日の頁でも、1862年に重信と常房をが詠んだ歌を交えながら、2泊3日の墓詣の様子を綴っています。