中甚兵衛の嫡子・九兵衛(くへえ)は、宝暦10年(1760年)年の8月5日、74歳で他界しました。
父が亡くなって30年後のことでした。
まだ、世継ぎの甚太郎は8歳。晩年、庄屋業務を親族の中太兵衛(なか・たへえ)らに頼むと共に、息子の後見や家の存続を強く願って、親族や家来(奉公人)などに多くの書置きを残しています。
中九兵衛が生れたのは、貞享(じょうきょう)4年(1687年)。
父・49歳、母30歳の時で、女の子2人に続く、待望の男の子の誕生でした。
しかしながら、前年に、大和川付け替えを良しとしない、河村瑞賢(かわむら・ずいけん)の淀川・大和川の改修工事が終了したため、新年早々、大和川付け替え計画は完全に棚上げとなったことを知らされます。
30年にわたり運動を続けてきた甚兵衛の落胆ぶりは、想像に難くないですが、逆に、瑞賢の工事内容では河内の低湿地帯の洪水がなくならないことを確信している甚兵衛にとっては、ここで諦めるわけには行かず、更なる改修工事の訴えを続けねばならないという強い想いがありました。
こうした時期の嫡子誕生は、甚兵衛に計り知れない大きな力を与えたに違いありません。
のち、瑞賢の2度目の改修工事直後の大水害で、漸く幕府の施策が付け替えに傾きました。
甚兵衛は何度も呼び出され、その具申の緻密さから、農民の身ながら、普請御用を仰せつかりました。
18歳に成長していた九兵衛も、父を助けて参画しています。
付け替え後、甚兵衛が剃髪したため、九兵衛が今米村の庄屋に就きました。
また、甚兵衛の娘婿の「河内屋五郎平」(のち三郎平と改名)と共に、新開池跡に「中新田」、吉田川跡に「川中新田」を開発しました。
中新田の一部を譲渡した資金で「箕輪新田」の過半を得、その庄屋をも務めた時期もありました。
こうした、付け替えの実施から、新田開発に至る経緯や、父親の苦労なども、事細かく書き残しています。
大和川付け替えの普請奉行に、「大久保甚兵衛」という人がいて、工事終了後も大坂町奉行に就いたため、甚兵衛は、工事中は「甚助」と改名、終了後も甚兵衛の名を復活したり、息子に継がせたりはしませんでした。
また、昨日紹介した、菩提寺である「西光寺」の本堂修復や撞鐘堂再建にも力を注ぎました。
「吉原村西光寺の儀、先祖位牌寺にて、乗久大切に思し召し候(そうろう)」と書き残しています。
「乗久(じょうきゅう)」とは、甚兵衛の法名。九兵衛のそれは、「乗円(じょうえん)」です。
この「中九兵衛」以降、代々「九兵衛」を襲名し、その名の今米村庄屋は5人を数えます。
「九兵衛」のあとに、それぞれ順に「重豊・重正・重孝・重信・重安」の名を持っています。
明治になって「兵衛」が使えませんでしたが、私の代で「九兵衛」を復活しました。
甚兵衛から数えて、10代目になります。
大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の8月5日の頁も、中九兵衛重豊の命日として記しています。