中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


 「延喜式」神名帳の「摂津国住吉郡」に載る神社で、社名に「須牟地(すむち)」を含むものとしては、9・10日に訪れた「中臣須牟地神社」、「神須牟地神社」と、「須牟地曽根神社」の3社があります。

 また、古くから「須牟地」に「住道」を当てることもあります。読み方は同じ「すむち」です。

 以下、社名を「中臣社」・「神社(かみしゃ)」・「曽根社」と略したいと思います。


 現在の鎮座地は、「中臣社」は大阪市東住吉区住道矢田(すんじやた)2。「神社」は同住吉区長居西2。そして「曽根社」は大和川を越えた堺市北区蔵前町(くらまえちょう)です。


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 明治~江戸期まで、現在の鎮座地を遡ってみます。

 「中臣社」は、河内国丹北郡住道(すんじ)村で、矢田部(やたべ)村の東にあり、北の村境を東西に「八尾街道(やおかいどう)」が通っていました。

 「神社」は、摂津国住吉郡寺岡(てらおか)村で、住吉大社からの道が村落の南に通じていました。

 「曽根社」は、河内国八上(やかみ)郡南花田(みなみはなだ)村の枝郷で「蔵之前」と呼ばれました。村の北側を「長尾街道」が東西に走り、「蔵之前」はそれに面していました。


 こうして見ると、住吉郡は「神社」だけですが、大和川という境界も勿論ない古代には、この辺り一帯は、住吉郡に属していたと思われます。事実、明治の初めまでは、旧堺町の真ん中まで住吉郡でした。

 また、住道村は古代住吉郡住道郷の地であったことも「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に見えます。

 勿論、神社自体が遷座を繰り返したかもしれませんが、国や郡の境界も度々変更されているようです。


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 古代、この地に関連する道路、勿論、難波と大和を結ぶ幹線道路ですが、難波宮から真っすぐ南に走る「難波大道(なにわだいどう)」と、それに交差する東西道として、住吉津から八尾方面への「磯歯津路(しはつのみち)」と、堺の花田口辺りから柏原方面への「大津道(おおつのみち)」がありました。

 時代と共に道路の位置も変化していますが、「磯歯津路」は「八尾街道」や「長居公園通」として、「大津道」は「長尾街道」として現代まで踏襲されています。

 「難波大道」は「長居公園」の中央東寄りを突き切っていました。


 従って、幹線道路で言えば、「磯歯津路」に近い位置に「中臣社」と「神社」。「大津道」には「曽根社」があったものと考えられます。「難波大道」から見れば、大和寄りにあったのは「中臣社」だけで、難波・住吉両方から大和に向かう際に立ち寄れる位置にあったとも言えます。


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 また、住吉区の「遠里小野(おりおの)遺跡」から「住吉榎津(すみのえのえなつ)」付近のものみられる港湾施設の遺構が見つかっています。そこには大阪湾に注ぐ「狭間川(はざまがわ)」が流れていました。

 それを遡れば、大津道の「曽根社」近くにたどりついたのではないのでしょうか。


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 いずれにしても、3社は住吉付近の港や住吉大社に通じる幹線道路近く。しかも「須牟地」に「住道」を当てることから住吉から大和へ通じる「道の神」ではないかとする説があります。

 更に、それは自然発生的なものではなく、朝廷が新羅などからの来朝者の接客用に祀ったものとも言われています。


 接客用となれば、「神社」の由緒書にあった「酒造・医薬の祖神」が俄然、現実味を帯びてきます。


 「延喜式」にも、「新羅の客が来朝した時、稲を住道社に集めて神酒を醸造し、難波館で給した。饗応役として中臣一人を遣わした」とか、「須牟地の神酒を賜って穢(けが)れを祓わない者は日本人になれない」旨の記載もあるようです。


 使者あるいは大和に住みつく人が、大和への道のりでも、神酒を賜う儀式を行ったのかもしれません。


 「須牟地」の字の意味するところは分かりませんが、3社が創建された経緯は、こんなところでしょうか。

 異説もあるかもしれませんが・・・・。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の7月11日の頁は、毎年この日から始まる「杭全(くまた)神社」の「平野(ひらの)郷夏まつり」を話題にしています。