中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記


  今日は、私の誕生日です。

  昭和17(1942)年6月27日、大阪府北河内郡四条畷(しじょうなわて)村大字南野(みなみの)971番地に生まれました。

  父が旧制・四条畷中学で英語を教えていたからで、現在の、四条畷市塚脇町(つかわきちょう)になります。

  
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 去る平成5(1993)年5月25日、山口博先生(昭和27~48年、四条畷高校社会科教諭)に、生家や四条畷神社などをご案内いただいています。当時、「まんだ」編集委員だった酒井昭子さんにもご同行願いました。


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 その時は、家の前の道を隔てた「水路」の改修中だったと記憶しています。


 山口先生は、『四条畷町史』を自費出版されていますし、『畷八十年史』の編集委員でもあった方です。

 当日は、昭和62年刊行の『畷八十年史』を、サイン入りで有難く頂戴しました。


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 新聞紙上で紹介された似顔絵。真ん中が父です。


 平成13(2001)年、鴻池新田会所での講演会をお聞きいただいた小寺太平氏は、旧制・四条畷中学の40期生で、父のことを懐かしく思い出して下さいました。その後も色々とご教示いただいております。


 小寺氏もまた、平成18(2006)年刊行の『畷百年史』に携わられ、お送り下さっています。

 更に、大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』を50冊もお買い上げいただき、母校などのお知り合いの方々にお配り下さいました。


 お二人ともに、厚恩、身に余るものがあります。


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 さて、私は四条畷で生まれましたが、戦争や父の転職などで、住む家は何度か変わります。

 戦火が激しくなって、母の里である現在の東大阪市日下(くさか)に疎開したようです。

 

 そこまでの記憶はありませんが、戦争が終わって、大阪市東成(ひがしなり)区深江中(ふかえなか)4丁目に引っ越した時は、2階があることに大はしゃぎしたことを、鮮明に覚えています。3歳でした。


 深江には、父が経営をまかされた電線工場がありました。

 幼稚園には行かず(なかった?)、小学校に入学。

 深江から市バスや市電で、大阪城近くまで通いました。


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 「追手門学院(おうてもんがくいん)小学部」の冬の制服を着たまま、自宅でのお勉強です。


 小さい頃から、草野球や駆けっこには自信がありました。


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 運動会は裸足だったようです。


 小学校の高学年になって、八尾(やお)市佐堂(さどう)62番地に転居しました。

 古大和川の跡地で、今の末広町です。当時、向かいの家は布施(ふせ)市金岡(かなおか)でした。

 近鉄大阪線の「久宝寺口駅」か「弥刀(みと)駅」からの通学です。


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 小学校時代、母との珍しいツーショットの写真が残っています。

 お盆の今米(いまごめ)への墓参りの道でのものと思われます。

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 追手門学院には、中学部の2年修了まで通いました。

 八尾の自宅の前での写真です。


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 大和川叢書④『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の6月27日の頁は、柏原の国史跡「高井田横穴古墳」の「ゴンドラに乗る人物」などの線刻壁画が、剥落の危機にあると、平成21(2009)年のこの日の新聞1面に報じられ、その後改善工事が行われたことを記しています。