6月5日の項で、延宝(えんぽう)年間における古大和川の連続大洪水を採り上げました。
今日は、そのきっかけとなった、古大和川の極めて重要な堤防の崩壊のお話です。
前回掲載した絵図の部分図を見てみます。
古大和川は、二俣で「久宝寺川」(図左側)と「玉櫛川」(図右側)に分流していました。
図の川筋を示す黒い線が本堤防ですが、玉櫛川の入り口付近にある赤い線が、古大和川にとって極めて重要な役目を担っていた「法善寺前二重堤」と呼ばれていたものです。
あの横丁と同じ名前ですが、この沿岸に「法善寺村」があり、それから名付けられたものです。
二俣より下流は、勿論、主流であった久宝寺川の方が川幅が広くなっています。
この分流地点は古くから洪水が多く、東側が決壊した時に復旧不可能な場所が出来たため、堤防をその外に築きました。
すると、増水時の川幅は玉櫛川の入り口の方が広がってしまい、主流の久宝寺川より玉櫛川に流れ込む水量が増えるので、川の真ん中くらいまで張り出すもう一つの堤防を造って、大和川全体の秩序を維持させたのです。
これが、上の赤い線の「法善寺村二重堤」で、それが決壊流失したことを示しています。
延宝2年(1674年)の6月14日のことでした。
2日続きの大雨で、嵩を増した濁流がこの堤を壊滅させたのです。
大坂市中まで達する被害を守るため、左岸側の堤防決壊を死守した結果です。
川筋の狭い玉櫛川とその下流に、濁流がどっと流れ込んだため、35ヵ所もの堤防決壊を引き起こしました。この年は寅年でしたので、「寅年大洪水」と呼ばれました。
この二重堤は復旧すら出来ず、玉櫛川とその下流部の広域大水害は、毎年のように繰り返されました。
『流域歳時記・甚兵衛と大和川~この日何の日』の6月14日の頁にも採り上げています。



