中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記-紫陽花03



 1704年(元禄17年)の大和川付け替え工事で、助役に任命された姫路藩主・本多忠国(ほんだ・ただくに)は370名を超える家来を現地に派遣しました。現場監督や測量などに従事する人たちです。

 その内、57名の家臣の名が伝わっています。次の写真はその書き出しの部分です。


中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記-姫路藩家来


 工事開始後、1ヵ月も経たない内に、本多忠国が亡くなり家臣は引き揚げましたので、工事そのものにはあまり貢献出来ませんでしたが、その後の工事の進捗に大きな土産を残しました。

 川下の海辺から付け替え地点までの、新流路の水準測量の大半を終えていたのです。

 

 出来る限り集落を避け、南から流れ来る東除川や西除川との合流がスムーズに行える位置を探し、また、瓜破台(うりわりだい)や浅香山(あさかやま)での川底掘削量、平地での堤防の盛り土量などを決めるなど、「水盛」(みずもり)という水準測量で、一直線ではない最善と見られる流路が、現実のものとして見えてきました。


 これにより、新たに任命された岸和田藩主・明石藩主・三田藩主や、幕府筋によって、工区分担・並行普請を可能にし、工事のスピードを大幅に上げることが出来たのです。


 城郭建築などで培われた姫路藩士の高い測量技術が、江戸前期の大和川付け替え工事を成功させる大きな要因の一つになったと言えるでしょう。



中 九兵衛のブログ 大和川流域歳時記-地形勾配図

 

 この図は瓜破台付近の地形図。(画面をクリックすると大きくなります。)

 点は1町(109m)毎の地表の杭。3本線の内、下の左下がりの線が川底予定線。それより上に出ている黄色い部分は掘削が必要。その他の部分はその上の平行線の高さの堤防の造成が必要となります。

 一番上の線は、付け替え地点での古大和川の標高水位を示しています。

  


 6月3日は「測量の日。昭和24(1949)年の6月3日に測量法が施行されたことを記念して、平成元(1989)年に定められました。