日比野京介は非正規雇用の派遣社員として働いてもう10年になる。

収入が安定しないながらも、いまどき珍しい風呂なしのボロアパートで寝起きして、

携帯をいじりながらも今日の糧を得る為に

派遣会社に電話をして、その日の仕事を探す。


僅かながらも、自分で稼いで暮らしていけるのは健康だからこそやっていけるんだな と思う。

親に感謝するのは、健康な身体に生んでくれた事だけだ。


特別に勉強がよく出来る方でもなく。

弁が立つわけでもない気の弱い京介は、競争社会から 自然にドロップアウトしていった。

最初から、その日暮らしを望んでたわけじゃないけど。

自分から多くのものを望まなくて、身を小さく小さくして生きていくとただこうなってしまった というだけで、

最初からこうなりたくてなっているわけでもない。


まともに働くって事を考えないわけでもないけど。

今は正規雇用なんて まともに勉強して、まともに生きてる人間だって中々難しいご時世だ。

学も無けりゃ、資格も無い。俺なんか、どうしようもない。

ただ こうやってその日暮らしで働くだけで精一杯だ。

近所の豆腐屋のおばちゃんによくおからを貰いに行くけど、

「今の子は 正規雇用で雇ってくれるところも少ないらしいし。ちゃんと働ける時代じゃないからねぇ。」と 

いつも多めにおからをくれる。

「おばちゃん、ありがとう。給料はいったら絶対にここの豆腐買いに来るからさ。」「はいはい、待ってるよ。」

コンビニにいって廃棄処分になりそうな弁当を貰った事も何度か在る。

自分が外に身を投げ出せば それなりに助けてくれる手はあるもんだし。

ま、多くを望まなければ それなりにだって生きていける。

今の生活はボロアパートで賃貸だけど

家もあるし、まともな男がつく仕事だ ・・とはいえないけど、それなりに働いてるし。

これはこれで まぁいいんじゃないか って思ってる。プライドだけで飯が食えるわけじゃない。

どっちにしろ、食っていく為の仕事は我慢の連続だし。

もし、好きなことを見つけられてやっていたとしても、それを仕事にできる人はごく少数で、誰しもが自分の好きなことを仕事に出来るわけじゃない。好きな仕事を見つけられるだけ 未だ余裕がある方だ。

それに、今からキャリアアップとか言ったってな・・・。一体俺に何が出来るって言うんだ。


俺には3歳下の妹がいる。

勝気な性格で、いつも誰かに取り入るのが上手い。典型的な末っ子気質だ。

名前は紅実(くみ) 5年前に結婚して、子どもは3人もいる。

今は、看護士として働いている。

連絡はたまに向こうからかかってくる位で、俺からは特にかけたことが無い。


連絡が来るたび 妹は亭主の稼ぎが悪い と ずっとこぼしている。

まぁ 亭主も頑張ってないわけじゃないんだ。

ちゃんとした会社でサラリーマンとして働いてるし

「毎月ちゃんと家に金を入れてるだけでも立派じゃないの。」 と 俺が言ったら・・・・


妹は 「結婚もしてないおにぃちゃんにはわかんないわよ!ほんっと・・子どもがいなかったら離婚してるのに。」とか言ってため息までつきやがる。「あーあ 聞くだけ損だな。」俺は 受話器の口を抑えて 小さく呟いた。

しばらく うんうん聞いていたが、あまりにも長いので、妹が饒舌に為ると 電話を耳からはなして、時々 相槌を「うん。」と打つ事にしてる。

聞いていなければ聞いていないで怒るし、聞いてると聞いてるで、ヒートアップする。・・・ややこしい。


俺と妹と、血が繋がってるとは思えないな。この妹の気の強さはなんなんだ・・・。


パートタイマーの看護士として働いている妹の紅実からすると、

亭主の月給とあまり変わらない額を頂いているのに、自分が家事全部を負担している事も不満の1つらしい。


妹の亭主は仕事が終わると、家にまっすぐに帰ってきて ゲームをずっとしてるというな男で。

インドアなタイプで面倒くさがりらしい。

ヘビースモーカーで まぁたまにパチンコをしたり、友達とのみに出かけたりする。

妹はそれにも疑いを抱いて「浮気じゃないのかしら・・・あんた どう思う?」とか聞いてきた事もあったっけ。

「そんな事・・・俺に聞かれてもなぁ・・・。」と モゴモゴ言うと。「頼りないわね!」だと。

なんなんだよ。聞き損だな。まったく。


そこそこ自己愛が強くて、そこそこ真面目で 子どもまでいて 高給取りでもない男が 

浮気どうこうなんて、中々無いだろ。 

そんなの昼のよろめきドラマくらいのもんだろ。

しかも たとえ浮気はあっても あの亭主じゃ 相手を本気にはさせられないだろうな。

 

・・・と 俺は思ったけど。


妹と亭主の場合、

お互いに慣れ合ってしまいすぎて怠惰になっている部分があるから、

そういう外からの刺激なりが、夫婦関係にとってはカンフル剤のような役割を果たしているんだろう。

それがたとえ夫の浮気疑惑であったとしても。気の強い妹にとっては、

ま それでちょっとは亭主を大事にしようと思えたらそれはそれで、良い薬かもしれないな と 思う。


妹は比較的長男の俺より甘やかされて無条件に『もの』を与えられて育っているから、

まぁ・・・無条件でものを与えられない今の状況が 気に食わないのかもしれない。

家庭を持つって事は 中々男にとって大変な決断なんだよな と 思う。

食わせていくだけでも大変なのに、その上 文句まで言われ。

自分の事を見てない やら、愛情が足りない やら、家事を負担しろ やら、姑とうまくいかない やら。子どもの世話をしろ やら。

ありとあらゆる事に細かく気を遣わなければいけないなんて・・・・。


雨露さえ凌げたら良い、今日食べる分の食事を手に入れられたら満足、自分の事しか考えなくても良い、

野良猫の様な俺からしたら 考えられないような生活だ。


嫁を貰うっていうのは、自分にとって都合の良い 与えられるだけの安心できる生活 とは 

程遠いもんなんだな と 妹を見ていたら思う。

義務を実行していても、努力が足りないとか言われるんじゃ、たまったもんじゃない。

・・・・・・・・それって楽をしようとする男の言い訳なのか?

男からしたら そういう事が苦痛にならない嫁がいいとは思うが・・・。

そういうのは 現代では 女性蔑視 やら なんやら に繋がるのかも・・・。中々、口に出して言える事じゃないな。


「自分から生み出そうとしなければ、家族の中であっても健全な関係は築かれていかないものね。

そういうのって日々のちょっとした努力なのよ。」妹は言った。

「へぇ努力ね・・。」電話口で俺は相槌を打つ。

「そうよ。やりすぎても駄目なもんなんだけどさ。」と また でかいため息をついた。

「やりすぎたら、どんどん仕事が増えて、女性側の負担が大きくなるからね。男もある程度は自立して無いと、駄目なのよ。」と言った。


そして恋愛結婚した癖に。

「あぁ~私なら、もっといい男が捕まえられたのになぁ~。」と、妹は本気でずっと言ってる。

電話口で思わず、噴出してしまった。

あぁー・・・片腹痛い。 

「そもそも、紅実がひと目惚れをして、結婚まで持っていったのを忘れてるのか。

もしかして、紅実の脳内では「自分の方が言い寄られた。」 と いう事になってるのか?」

と聞くと

「あっちだって、その気だったんだから!」と 言い出した。「あっちの方よ。私に惚れたのは!それなのに・・・今は・・・私に見向きもしない!」


聞いていくと、自分たちの関係がマンネリ化してきてる と言う。

まぁ 夫婦ってそんなもんだろう と 思うんだけどな。

いつまでもドキドキするとか、そんな事 在り得ないだろう。

毎日落ち着いた生活が在る。それが夫婦ってもんじゃないのか。

父さんと母さんも、そうだったじゃないか。


それにしても 亭主が先に惚れたなんて・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・なんて、都合に良い記憶だ。

そういう前向きさが怖い。女って怖いな。ゾッとする。

まぁ・・・・・それで丸く収まるんだから、それでいいか。俺には関係が無い事だ。


3人子どもがいても、女は

惚れたとかはれたとか、そういうロマンティックさや、

恋愛で作り出した独特の雰囲気が失われる事への拘りがあるらしい。

女は女の部分を捨てないもんなんだな。・・・と思うと。

なおさら、めんどくさい。


「お似合いなのに。」というと。

「何よ!それ!!」と烈火のごとく、怒り出した。


「じゃ・・・じゃ、また。」と慌ててプツンと電話を切る。


俺は 月々きちんと給料を貰って安定した生活をして働いてたら、

順調に結婚して、子どもができて と 考えていたのかな。


いや 単純に、そうはならないだろうな。生活が確立してるから、結婚がどうこうじゃなく。女を養う、家族を持つと言う事が、俺にとっては負担に感じるんだから。


まぁそんな事より、とりあえず、電話して明日お仕事を取らなければ・・・・・。

trurururu・・・・・・電話は中々繋がらない。


「今日の営業はこれで終了しました・・・。」 アナウンスが流れる。


今日も仕事が無い。

こういう日が続いていく事に 日々怯えない訳でもない。

ずっと仕事が無かったらどうしよう。

自分がまるで、社会から ポツンと隔絶されて、取り残された存在のように感じる時が在った。


コンビニに廃棄処分の弁当でも貰いに行こうと家を出て行く途中で、

公園に10代前半の女の子が居た。

ベンチの前で缶ビールを飲んでいる。

「おい・・・10代の飲酒は違法だぞ・・・・。」心の中で呟く意気地の無い俺。

少女の横にはポテトチップスが封を開けて置いてある。

コンビニに行くのに公園を通るのが近道なので、気づかない不利をしながら、前を通る。


「ちょ・・・っと!そこのおじっ・・・・さん!!」・・・・・・。・・・・・どうやら、酔ってるらしい。

「あんたまで あたしが見えないって言うのかぁ~~~っ!」手足をバタバタさせながら、叫んでる。

「私は透明人間じゃなぁああああああああああああああああああああい!」


「・・・。」見ないように、気がつかないようにした方が良い。そう思い、早足で通り抜ける。

コンビニまであと少し、きっと 帰ってくる頃までには 居なくなってるだろう。とりあえず、無視だ。

とりあえず、携帯を出して見る不利をする。


コンビニに行く明るい店内の光が眩しい。ガラスのドアをひょいと開ける。

棚を整理している店員に「廃棄する弁当はないですか?もらえませんか?」と聞いてみる。

「今日は、無いですよ。」冷たい目をして言われる。冷たくは無いのかもしれないが、

なんとなくどこかでは、この生活に負い目を感じているのも確かなのだ。

それが、こういう他人からの目を気にさせるのかもしれない。


はぁ・・・今日は飯抜きだ・・・。「ハラヘッタァ・・・・。」

トボトボと来た道を歩いて帰る。


なんと、さっきの子がベンチでまだ ぶつぶつ言ってる。

違う道を通ろうか・・・このまま知らない不利をして歩こうか、思案していたら。

少女は千鳥足でふらふらしながら近づいてきた。


「おっじさ~ん!また来たの?ねぇねぇ あたしが見える?」

「・・・ぅ・・・。」酒臭い・・・・。言葉に詰まって「・・・・酔ってるのか?」と聞くと


「おぉ今、返事したよね!?私が見えるんだね!」キャキャッと嬉しそうに笑う。


馬鹿にしたような口調で「・・・あんた幽霊なの?見えるとか、見えないってさ。普通は、人に聞かないよ。」京介は言う。


「あっははははは!!」少女はお腹を抱えて笑うと 「そうかもねー。」と頷く。


「ふーん。じゃ、幽霊のお嬢さん。おじさんは帰るからさ。そこどきなさい。」と 言って通ろうとすると。

「ふーん。通るんだ?家に帰るの?」進路妨害をする。

「そうだよ。帰るんだ。」ムッとした顔で避けようとする。

「帰って何するの?」前に立ちふさがる。

「ハイハイ。おやすみ。」と、また強引にその場を立ち去ろうとする。

「あ!じゃあ!化けて出ても良い?私、ゆーれーだもんっ。」と 前に立ちふさがっておどけた顔で言った。

「あのね。・・・おじさん お嬢さんに付き合ってる暇は無いの。貧乏だし、お金も無い。こんなおじさん引っ掛けたっておじょうさんにとって何の価値も無いだろう?」ため息をつきながら言う。

「えんこーなら他を当たって頂戴。おじさん、お金ないんだ。」


「私?お金ならあるよ。」財布を学生かばんから取り出して万札をバラバラ地面に撒く。

「え?」地面にハラハラ落ちていく万札を見つめる。

「援交とか、しないよ。私。」きっとした顔をして見せた少女は次には憎憎しげに言う。「それに お金なんか、要らない。」

「・・・・。」呆然と地面に撒かれた万札を見た。


「何があったか知らないけど・・・・。お金をムダにしちゃ駄目だぞ。」お金を拾い集めると、少女に手渡す。

「いらない。おじさんにあげる。」少女は断固とした表情でそう言った。


「あげるったって・・・・。」戸惑いながら 手の中の万札と、少女の顔を見比べる。


「私はお金なんか要らないもん。」少女は泣いていた。


泣いてる少女を見、お金を見、おろおろする。


キィッッ自転車のブレーキ音が軋んだ。

公園の外に自転車が止まったらしい。

「おい!そこの男!何やってるんだ!」巡回しにきた警察が、慌ててこっちに走ってくるのが見えた。

「うわ・・・おまわりさん・・。どうしよう・・・。」


手に万札を持った男。泣いてる少女。

これは、誰がどう見ても怪しい。

慌ててこの状況を説明しようとする。「あの・・そうじゃないんです。違うんです・・・。」慌てる京介。

「おじさんは警察だけど、何かあった?」少女にいやに優しく声をかける。


少女は、泣きはらした顔で顔を上げた。「・・・・・警察?」

状況を咄嗟に判断した少女が言ったのは 京介を窮地に追い込む一言だった。


「この人!変態なんです!」と言ったのだ。

この状況を他の人が見たら、確かに そう見えるだろう。


警察は険しい顔をして京介を見ると 「じゃ、オニィサン。話を聞こうか。」と言い、結局 2人とも

警察に連れて行かれる事になった。

「ちょちょ・・・ちょっと・・・!!」その間も おたおたする京介。


少女は黙りこくったまんまだった。


とりあえず、少女は警察に何を聞かれても一切話をせず。

未だ若い成りからして、保護者が必要だろうと判断され、保護者が呼ばれることになった。

少女は 親の名前と住所だけは、素直に言ったのだ。


京介は名前、年齢、職業を聞かれ、自分の無実を訴える。

「何もして無いんですよ・・・。ただあの公園を通りがかったら、あそこにいる酒を飲んでる子に絡まれて・・・・。」と おどおどと訴える。

警察は聞く気が在るのか無いのか、

「じゃあ何で女の子は泣いてたんだ?」とか「変態って言ってのは何だ。」と 強引に話をそっちに持っていこうとする。


はぁ・・・ついてない・・・・。まさかこんな事になるなんて・・・。

「俺は派遣社員でその日暮らしです。女の子とどうこうするお金なんかありません。しかも俺はロリコンじゃありませんから・・・・・。俺は自分から世間に恥じるような事は何もしてないですよ。こんなに気が小さいのに、そんな事できるわけが無いです。

コンビニに弁当貰いに行く途中に、そこの女の子がビール飲んで、酔っ払っていてはなしかけてきたんです。

はじめは無視したんですけど、帰りはもう居ないだろうと思って、同じ道を通ったら・・・絡まれて・・・・。

俺だって、貧乏なおっさんに用なんか無いだろって言ったんです。そしたら 私は援助交際なんてするつもりが無いって言い出して、金をばら撒いて、泣き出したんですよ・・・。それを拾って手渡した時に、警察が来たんです。」

警察はイチイチふんふん頷いている。


警察が 少女の親に電話をかけたところ「今日は来れません。」と言ったそうで、

代わりにお手伝いさんが来てくれる事になったそうだ。

「お金持ちのお嬢様・・・ってとこか。親の愛情不足って感じだな。」と 俺が言うと。


泣き腫らした目で「いつも、こうなの。」少女は言った。

「いつも 「私は関係ない」って顔するの。」と泣いた。

酒が回ったら泣き上戸になるクチなのだろうか・・・。末恐ろしいな・・・。

「何が起こっても、知らない。お前は必要ないって 振りするの。」

警察も京介も顔を見合わせて、黙る。

「もっかい聞くけど、お譲ちゃんは学生さんかな?若そうに見えるけど・・・。」警察が聞く。

「私、もう中学生だもん。」

「中学生は、夜中出歩いたりしちゃ、いけないってしってたかな?ビールも違法なんだけどね。」警察が言うと。

「うん・・・。」素直に項垂れる。

「お父さんもお母さんも 今日こそは、もしかして 来てくれるかな って思ったの。私の為に仕事をほっぽり出して来てくれるかなって。」少女が泣きながら 言った。

「さっきの騒ぎは嘘だったって事なのかな?」警察が聞く。

「ごめんなさい・・・・。」少女は泣きだした。


「じゃ 俺は無罪放免って事ですね。」京介は言って、立ち上がった。

「あぁ。良かった、良かったな。」京介の肩を納得させるように、ポンポンと叩くと

「お嬢さんはここに残りなさい。迎えが来るみたいだから。」と少女に言った。

少女は言った「おじさんも此処にいてよ。」


「はい。」5分とかからないうちに迎えに来たお手伝いさんは、

事の成り行きを警察から聞くと、ひたすら俺に頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。大変なご迷惑をかけてしまって・・・・。」

「いえ・・・。まぁ・・・本人が、解ってくれたら。もう、それで。」

「これ少しばかりのお金ですが・・・。ご迷惑料と言う事で・・・。」

白い封筒に入っているのはたぶん金だろう。


「そんな金、要りません。」要らないわけではなかった。俺は明日の職さえ無いというのに。

でも 「ここで俺が受け取ったら、その子がまた大人はそういうもんだ と 思ってしまうかもしれないですよね。

それより、出来る限り寂しい思いをさせないように配慮するのが、親とか周りに居る人の出来る事なんじゃないですかね。親が仕事で忙しくて、いくら儲けていようと。そんな事、子どもには関係ないんですよ。」

この年配のお手伝いさんにいっても、親じゃないんだから仕方が無いと解ってるけど

保護をする側の人間が、金で解決しようなんて考えを許したら、このチュウボウは、ろくなクソがきにならないだろう。


少女の目が 見開かれた。

かまわず、俺は少女に言った。

「でもな、稼ぐって大変な事なんぞ。お父さん頑張って働いてくれてるんだろ?」


「お・・・お父さん?」少女は男の向こう側を見て呟いた。

バタンッ車のドアが開いた。長身でスーツを着た若々しい男性が車から降りると大股で近づいてきた。

「伶果!」小走りで駆け寄って、無言の沈黙が流れた後に「この男か?」と聞く。

「え・・・うん。あの・・・」伶果と呼ばれた少女がしどろもどろになる。


ガターン!大きな音を立てて入り口付近に在る傘立と防火用のバケツと俺は一緒にひっくり返る。


「お父さん・・・!」「旦那様!」 少女とお手伝いさんの2人が叫ぶのは同時だった。


「いたたた・・・・」殴られてひっくり返ったうえから乗りかかり、未だ父は殴ろうとしていた。

「人の娘を!!よくも!!」怒気に満ちた瞳で胸倉を掴んだところで、

少女が「パパ!待って待って!違うの!」と しがみ付く。

「こいつがお前を・・・!!」ぜいぜい言いながら、怒りを帯びた肩や声が震える。

「あの・・・それが、旦那様・・・落ち着いてください・・・。あのそれが・・・事情がちょっとお伝えした時とは、違う様なんです。」お手伝いさんが手招きをして、耳打ちをしながら父親に事情を話してる時。


少女が倒れた京介に駆け寄った。少女は覗き込むように「痛い?」と言った。

「殴られちゃったね。おじさん。痛い?」そっと頬に手が触れる。

「痛いよ、そりゃ。」起き上がりながら むっつりと黙り込む。

「パパがまさか来てくれるなんて、思わなかった。」少女が静かに言う。

「お金持ちの親父さんみたいだな。中々、長身でかっこいいじゃないか。・・・・・・・・・・・・・・・力も強いし。」床に寝転がりながら鼻血を止める。少女はポケットティッシュを取り出すと京介に差し出し、話をする。

「パパはね。CEOで、仕事人間なの。家にもろくに帰れないくらい忙しいの。」少女は肩をすくめる。

「そうか・・・大変なんだな。でも時間が無い中でも、娘の為に駆けつけて、娘の為に怒って、俺が殴られてるの見たろ?ちょっと親父の気持ちがわかったか?」

「うん ちょっとだけね。」そう言って、少し恥ずかしそうな顔をする。

少女は肩をすくめた。「おじさんみたいに優しい人に会うのはじめてかも。殴られても、怒らないの?」

「俺、もう今日の日は災難が起こる日だ って諦めてんの。」だらっと床に倒れる。「鼻血は出るし・・・腹は減ったし・・・。」

「ぷぷ・・・災難だね。本当に。」クスクス少女が笑う。

「人災だよ。」京介は少女を指を刺して言う。

「えんこーしてると思われるわ、警察に捕まるわ、連れて行かれるわ、尋問されるわ、殴られるわ。」少女は指を折り今日の日の災難を数える。

「おい・・・酒飲んだ中学生に絡まれる が ぬけてるぞ。」京介は付け足した。

「ふふふ・・・」少女が声を出して笑う。

「誰のせいだと思ってるんだ。まったく・・・・。」ティッシュを鼻に詰める。

「・・・そういや、母親はどうしたんだ?」

「ママは、妹の看病でさ。病院に、ずっと付きっ切りなの。」

「そっか・・・。親の勝手ってわけじゃなかったんだな。」


「うん。母親も父親も、妹も悪くない。誰も、悪くは無いの。

でもね、強いて言うなら。お金を持ってる不幸ってあるんだよ。お金なんていくらもってても、いくら入ってきても、物質が満たされても。価値なんて同じだよ。『所有』したら孤独に為るだけだもの。

豊かさの中にだって、貧しさはあるんだよ。」少女は言う。

「心の貧しさ・・・・か。誰にも存在を認めてもらえないと感じる孤独っていうのも、貧しさの一部かな。」

「おじさんは心は豊かに見えるな。」

「そうでもないよ。そんな良いもんでもない。日々暮らすのが精一杯なだけですよ。そんな良い事なんかないしね。

君たちのようなお金持ちのヒトタチが、あれもない これもないって、求めすぎなんだと思うよ。」京介は言う。


「そう?でも人に与えられる余裕がある人は 素晴らしい人だって パパはいつも言ってるよ。

それって心も 同じでしょ?他の人はね、通り過ぎても公園に近づこうともしなかったんだ。おじさんは違ったよね。

それにね。私、あの時 蛍みたいに見えたんだ。携帯を覗き込むおじさんが、闇の中に光ってる蛍みたいにね。」少女は清らかに微笑んだ。


「まず、君は。自分にとって都合の良い事を言ってくれる人が、いつも良い人とは限らないから 気をつけなさいね。」少女を指にさしてそう京介が言う。少女は目を丸くする。「ん?」


「ごほん・・・まぁ 俺みたいにへたれの人畜無害な男ばっかじゃないという事です。」

「うん。解った。」素直に頷く少女に、京介は脱力しながら言う。

「俺は貧乏で人の助けが必要だから、人と仲良くするのも、自分の為だって思ってるからね。

他人とは必ずリアルに結びついてるし。独りぼっちだって思う様なことは少ないかもしれない。

貧乏でも、必ず助けてくれる誰かが居るから。

自分の生活をオープンにしてるし、それを周りも知って助けてくれてる。

誰かに頭下げるのも、苦にならないし、プライドなんか持っていない方だと思うからね。

まぁお金を持ってる人と比べたら、ちょっとは生き易いのかもしれないな。

でも俺は気が弱いから、水が清らかなところでしか生きられないからね。濁流だらけの競争社会でのし上がっていく様な、君のタフでかっくいいお父さんとは違うんだよ。」


「それも、そんなに良いもんじゃないと思うけど。

ずる賢く自分の身を守れるようになる事が、働く偉さって事なのかな。物質をたくさん持ってた方が価値が在る人間なのかな?どれだけ嫌な事をしていてもそれで良いの?家族の心が満たされなくても、働いていたらそれで全てが許されるの?」


少女は静かに微笑んだ。


「本当の豊かさって 何なんだろうね。」

年若い少女が

今までに見た孤独な世界への憤りを、京介は垣間見た気がした。


お手伝いさんと話が終わった父親は近づいてきて、項垂れながら京介に頭を下げる。

「申し訳ありませんでした。つい・・・娘の事となるとカッとなってしまって・・・勘違いをしていたみたいで・・・。」お手伝いのおばさんも一緒になって頭を下げる。


「申し訳ございません。私が今まで旦那様に「お嬢さんは心配ない。」とお話していたから、こんな事になったんだと・・・。」平身低頭に頭を下げる。


「・・・痛かったです。」京介は珍しく率直に言う。


「本当に、何とお詫びしていいか・・・・。こんな事が・・・娘の学校に知れたら・・・」少女の父親は額に汗して頭を下げる。


その言葉を制して「殴った時の、気持ちをずっと忘れないで居てください。娘さんは未だ心から、納得できていないみたいですよ。ご家族のことまで、投資と回収としてお考えですか?」京介は言った。目で少女をけしかける。

「ほら、なんかいってやれ。」


「そうだよ。全然、納得して無いよ。ずっーーーーと放って置いて。お金だけたくさんもらっても嬉しくないよ。「この子は大丈夫だ。」って思われる事が、無理させる事もあるんだよ。周りに期待されてる『良い子なだけの私』が本当の私じゃないんだよ。」

「伶果・・・」父親がおろおろする。どうやら娘に弱いタイプのようだ。

「でも、来てくれて ありがとう。嬉しかったよ。」少女は微笑む。

これからもきっと父親は今までと変わらない生活をするだろう。だけど、今は『自分の為だけに』来てくれた。

そういう事への感謝と諦めがこもった一言だと京介は思った。


「そうか・・・お父さんもお母さんも忙しかったからな。ずっと放って置きっぱなしだったから・・・。すまない。」長身の男が少し小さく見えた。おずおずと娘の手をとる。「すまない・・・。」


「俺は独身だし、娘も居ないから 解ってない事もあるし。偉そうにはいえないけど・・・・・。

たった小さな事だけでも 彼女の孤独だった世界は 癒されていくんです。

実際は単純な事なんだとおもうんですよ。

親父さんが難しく考える事は無いんだと思います。」京介は少女の父親に向かって言う。


父親は「この子は伶果は何でも良くできる子だと思っていたから・・・・・私たち側が娘の頑張りや我慢に、甘えすぎていたのかもしれません・・・・。」


お手伝いさんが「旦那様・・・実は万が一の為に用意したお金は受け取っていただけなかったんです。今日はこの方にお詫びもかねて、これから皆さんで食事でもしませんか?」少女の父親に、助け舟を出した。


京介はこの日初めて良い事が起こった と やっと思えた。


家族の中で、父親としての役割 母親としてのの役割 子どもの役割。

すべてが誰かの思うままにいく事は無いだろうし。

全員が満たされている事は稀だろう。


だけど、お互いに我慢をしあいながらも継続をし続けた生活の中で、

満たされる一瞬の素晴らしさがある事を知った。


今日の少女の笑顔こそ 闇の中に光る 蛍のようだと 京介は思った。


































 























































「ひぇ~っぶわっはははは!」電話口でヒステリックに笑う妻

真知を横目にみて 仕事から帰ってきた夫の裕太はため息をついた。

営業の仕事が忙しく 見込んだ程に順調に利益が上がらない事もあって

気持ちが萎えて、うんざりもしていた。

仕事から帰っても 

労わりの言葉も、出迎えも無く、寝転がって電話口で話している真知の様子を見て

散らかってる部屋と、あの妻のヒステリックな笑い声が たまらなく嫌だ と思ったのと 

妻の笑ってる内容がまたうんざりさせられる内容だったのだ。

それは今までの経験則から間違いなかった。

真知は また自分たちの『敵』の話をしているのだ。

自分にとって気に入らない相手。

まだ近所に引越ししたばかりの若い主婦だとか、年若い人、立場が弱い人の事を。

近所の真知と 仲の良い主婦と一緒になって、陰で滅茶苦茶な汚い言葉で罵倒するのが

優しくて、いつも柔和な笑みをたたえているように周りからは見える 真知の『本性』だった。

人の前では いかにも世話好きな良い人といった様子を見せているが 

実は、そうではない事を裕太は知っていた。


真知が『自分が自分である』という事に誇りを持てずにいる事も。

それが、結局はそういう風な行動に走らせている事も。

誰かに・・・また人間の輪の中で『特別な存在』だと認めて、褒められて 

はじめて真知は満足、安心する事も。

それが『真知の幸せ』なのだという事も裕太は知って居た。

真知は、誰かを悪人にしたてあげなければ 

自分のしている事に確信がもてなくて、あまりにも不安だから、

解りやすい『敵』を作ってその人を貶める事で 

真知はようやく自分の正しさや善さを確保するのだという事も裕太は知っていた。

妻がそういう行動をとる全てが

裕太には『女の世界について回るものだ』と捉えていたし、

積極的に自分たちの『家庭の問題』だとは捉えてはいなかったが、

結局は真知に一番必要なのは『愛されているという確かな実感を抱く事だ』と 思っていた。

それは決して間違いではなかった。

真知に必要なのは『自分は必要な存在である』という強い確信なのだ。出来れば夫や、家族にとって。

そうでなければ違う『誰か』にとって。出来るだけ多くの人間にとって。

しかし、それは夫である自分が大きく捉える問題でもなく。

「夫婦になってまでわざわざ言う必要もあるまい。自分は行動で示せば良い。いつか解る時が来る。」


裕太はそう思っていた。


誰かと比較してしか感じられない幸せを妻に味合わせている夫としての自分の不甲斐なさもさることながら。

自分と出会う前の真知の人間形成をするに至ったフクザツな成り行きや環境要因に対して、

それを含めて『責任をとる』という重い考えはあまりなく。

妻のそういった心の琴線に触れ合う言葉を裕太は何一つ持ち合わせていなかった。

今日の糧を今日得る為に働く。裕太の頭の中は ただそれだけだったのだ。


5年前に桧山裕太と真知は職場で出会った。真知は田舎から出てきた娘らしく、まだ慣れぬ都会の中で

裕太に頼るように、あれこれと色んな事を聞いたり、教えてもらって 仕事も少しずつ覚えていき。

周りの人との交流で、自分の世界をも少しずつ広げていった。


「田舎暮らしが嫌になったから、親戚を頼って都会に働きに出てきたんです。」 と 静かに言う真知は

その頃、黒いワンレンの肩までの短い髪に長い前髪をしていてその長い前髪を、

額の上で鬼の角のように1つに結んであげていた。

真知はいつも女の子らしい格好などしていた事が無く。

その頃の真知は田園風景が思い起こされる様な

垢抜けなくて前途に希望がまだたくさんあるかのような純粋そうな瞳をした娘だった。

真知は、もの珍しさから出る 楽しさをいつも身の回りから発散させながら

少しずつ周りの世界に馴染んでいった。

生活には次第に溶け込んでいくが、決して都会ナイズされることはなく。

いつもいかにも自信がなさそうでたよるべもない真知の様子に、

まるで妹のように扱ってきた裕太なのだった。 


そんな裕太には思いもかけないことだったが。

真知は裕太に憧れを抱いていた。

淡い恋心を臆面も無く隠さないでストレートな表現をするようになった真知の振る舞いに

裕太は驚かされ、戸惑った。


裕太は真知のことを『女として』どうこう とは 考えていなかった。

裕太はあくまで 妹の様な存在として 優しく当たり障り無く扱ってきたつもりだったが、

真知の方はこの優しさは『自分だけ』に向けられたものだと感じていた。

そして、自分にだけ向けられていて欲しいと願っていた。


しかし、裕太には彼女がいた。清楚で控えめな女性だった。名は美里という。

裕太の一目ぼれだった。いつも何をするにも、とにかく真面目なだけが取り柄の裕太が

自分から勇気を出して思いを伝え、一度は諦めかけた時に、ようやく相手から返事を貰い実った恋なのだ。

言い寄ってくる女性が居るから と 簡単にその恋を手放すわけにはいかなかった。

裕太は 自分の直情的な思いにだけは嘘偽らざる気持ちを貫いていた。

裕太は自分にとって楽な方向であるとか

八方美人には生きられない類の人間で、ある意味では不器用なのだった。

そこが裕太が競争社会でのし上がっていけない『弱み』でもあったのだが。

特に裕太本人は、自分のこういう部分が相手にとって都合が悪いだとか 都合が良いだとか 

そういうベクトルではものを考えては居なかった。

ただ、誰にとっても誠実にというのが裕太の唯一の取り柄だったし、自分のそういう部分に誇りを抱いていたのだった。たとえそれが誰を傷つける事になったとしても。


朝早くから夜遅く仕事ばっかりに明け暮れて、たまの休みは接待、そうでなければ付き合いのゴルフ。

それもこれも裕太の『仕事にかける誠実さ』から出るものではあったが。

元々、お嬢様育ちだった美里の心は当然の事ながらどんどん裕太から離れていった。

裕太はただでさえ、パッとみただけでは良さが解らないタイプであったし、

仕事をしていてもお金が有り余っているというわけではなかったから。

まだ女として選択肢がたくさん残っている若い美里は 

裕太の『人柄だけで許せる』という域には達していなかった。

それに、2人にはあまりに共有する時間が短すぎたというのも一因ではあるだろう。


破局してこの方 ずっと裕太は 仕事が終わってから酔いに任せる日が多くなった。

しかし、いつも笑うだけで辛い胸のうちを見せる事がない裕太に、真知はひどく心を痛めていた。


真知は少しずつ裕太の心の隙間を埋めていった。

決してそのままでは埋まる事など無いはずだった2人の距離は

意外にも、解りやすい裕太の恋愛の破局という展開で

そして真知のいたわりという確かな方法で埋まっていった。

それは『恋』というのに相応しい過程なのだった。


少しでも相手の為になれば と 尽くすタイプであった真知に 

次第に裕太は『家庭的』だという印象を持つようになった。

ただどうしても『女』という括りで見られないのは、

まだ真知に幼さの名残や、何処か心にひっかかる誰かへの競争意識の様なものが

残っていたからかもしれなかった。

真知も裕太もお互いが必要だという意識は芽生え始めたにせよ。

裕太は失うことへの恐怖から再び 大きな一歩を踏み出せずに居た。

真知は真知でそういった裕太の様子を敏感に感じ取り、

前の彼女の存在を思い描いては

自分に足りない部分を歯がゆく思い、また強い不安に陥いり、

この恋を手放すまいとしがみつくのだった。


そうして3年が過ぎた。


2人の中はもはや公然の仲だった。結婚しないのはおかしいと周りに言われつつ。

『当然の成り行き』で結婚に至った。

燃えるような情熱から出るなどというものではないにせよ。

落ち着いた雰囲気で何もかも収まるべきところにしっかりと収まっている感じがした。

男性として当然の事だと納得して出した答えだった。

周りからも それとなく「どうなってるのか。」と いわれ続けたのだが、

「結婚して家庭を持ち、ようやくこれでまた新しい基盤が出来るんだ。」

裕太は 真知との出会いで、長い時間をかけて ようやく しっかりした基盤を築こうと思えたのだった。


ただ恋愛に対して、特に直情的な一面を見せる筈だった裕太と

今の淡々としている裕太の違いに

真知は少なからず 不安を覚える事が在った。

言葉で何も、言ってくれない。特別な存在として何かしてくれるわけでもない。

ただ空気のように寄り添っている自分と裕太の間に また美里が現れたら?

裕太が 結論を出さないのは 自分には何か足りないところが在るんじゃないか・・・


いつも『女としての自分』に、『自分が自分である事』についても

常に不安を抱く真知が ようやく しっかりと女主となり、家庭に根を生やし始めたのは

おなかに子どもが出来たのを知ってからだった。

結婚して2年目の秋だった。


その日 裕太と真知は

裕太の収入が思うようにはいらないという事で、夫婦喧嘩をして。 

激昂した裕太は、家を出て3日間帰らなかった。

真知は顔から火が出るような思いで、ほうぼう電話して探し回り、ようやく見つけた時。

夫は夜の建設現場で働いていた。

『家庭を守る』 それはこういう事なんだと。

夫の姿勢から見て取った真知は、それから夫の収入について何も言わなくなった。

2人で家路に帰る途中、真知は脱水症状と眩暈を起こし、病院に運ばれた。

そこで妊娠が判明したのだ。


夏の午前中に生まれてきた子どもは女の子だった。笑顔が可愛くて ぷくぷくした手足が可愛くて

思わず、食べてしまいたくなるような愛らしい子だった。

この子が笑う度に

真知は母親になった喜びに陶酔していた。

名前は愛結と名づけた。愛を結ぶ子。まゆ。


この子自身が夫と自分の確かな血の証のように思えたのだった。

そして 自分自身が生きた確かな証のようにも真知には思えた。

「この子さえ居たら生きていける。」「この子に為に生きていこう。」「この子だけは幸せに育て上げてみせる。」真知は そう強く思った。


そうして真知は 親として自分の分身を育てるようにその子を育て上げた。

恥ずかしくないように、愛されるように。

自分自身が褒められるような何処に出しても『良い子』になるように。


その子はやがて真知の血を受け継いだ子らしく、考え方や発想に至るまで

思春期になるまで母親の枠の外から出ようとはしなかった。


ずっと世間的に良い子、良い所しか見せない 弱音などを吐けないで 

いつも強くいなければならない という辛さを 背負いながらも。


全て母親のいう事は正しく、間違いがない。

そう教え込まれて育っていった。


愛結は誰かを悪とすることで、自分をよりよく見せる方法も自然に母親を見習い、獲得していった。


価値観やものの基準をはかるものさしの全ては 

全て真知のコピーそのものだった。


愛結は ずっと母親を 尊敬していたし、特別な存在だと思っていた。

それは 真知が今まで自分に与えて欲しかった『全て』で 

自分の全能感と母性、特別な存在だという実感を満たすものだった。

「思春期になるまでの私の全ては母親へのプレゼントのような期間だったと思う。」


母、亡き後 自身の 子ども時代の事を振り返って 愛結は そう言った。


「人間は 自分の足で、自分の為に生きてこそ 親孝行だと言えるんだよね。」


一周忌が終わった後、少し酸味の在る梨をかじりながら愛結は言った。


「なしを 『なし』じゃなく 『ありのみ』 っていうのはね。

・・・・・・・・・・・・・・・。



何にも『無し』というのは縁起が悪いからなんだって。パパしってた?」



「うん。ママが昔、そう言ってたな・・・。」


「そう・・・。ママも梨好きだったもんね。」愛結は言った。


「私は『愛を結ぶ子』だった?2人にとって 私はちゃんとした 『ありのみ』だった?」


愛結は父、裕太に今日はじめて そうポツリと聞いたのだった。


霊前に備えている蝋燭の炎が静かに揺らめいた。 




































 















吾妻春一、吾妻詩乃 は 夫婦生活が40年になる。


町工場の経営者・職人である春一は、つましい生活を送って、

豪勢な生活に憧れるでもなく、豊かという名前の下で誰かから搾取する生活を望むでもなく。

たまの休みに夫婦で揃って旅行に行くでもなく。

仕事をただ黙々とし続けて、日々を淡々と過ごしてきた。

3回目のお見合い結婚で結納を交わし、妻を娶り、翌年には子どもが生まれ。

妻と4人の子ども、春一の年老いた両親とで 下町の一軒家に住み、大所帯の生活をしてきた。


家と工場は繋がっていて

そこにはいつも人の熱を感じさせる活気があり、小さい子どもにしろ、若者にしろ、年寄りにしろ。

工場の青年・おじさんたちにしろ。

いつも誰かしら、人が居て、子どもたちはそのお陰なのか、人見知りをしない社交的な子どもに育っていった。


詩乃は子どもを育てるのは 両親の力だけではなく。

外界・社会の力も大きいと考えていた。


無口で朴訥な夫と、私のような内向的な妻だけで、子どもを家に閉じ込めて育ててしまったら。

子どもは外界で受け取れるはずの色んな事を吸収できずに、偏った育ち方をしてたのではないだろうか。

そう詩乃は考えていたのだ。

そういう思いがあるからこそ、春一の仕事する姿に感謝し、大事にしてきた。

吾妻夫婦は 子どもたちには、特別に人より立派になれなどと言った事も無く。

「普通に何処にでもいる人間になったらそれで良い。」と言ってきた。

「偉い人になるのも普通の人として生きていくのも、お前たちの思うようにしたらいい。」


最初から、子どもの可能性を信じていないわけでもなく。見捨てているわけではない。

子どもが背負う事になる社会的な責任の重みを考えたら、

易々と偉い人になれだなどとは、春一には言えなかったのだ。

「お前たちが、生まれてくれただけで親孝行。父さん母さんに笑ってくれただけで、立って歩いてくれただけで充分親孝行。健康で居るだけで親孝行。」子どもにはそう言ってきた。

「親の為に偉い人になるだなどとは考えるな。自分の為に生きろ。」亡くなった祖父の幸国も常々そう言っていた。


詩乃にしても、「特別に学があるわけでもない母親の自分が子どもに何を言うほどの事でもない。」と

過剰な期待をかけることはなかった。愛される子に育って欲しい。

ただそれだけが詩乃の母親としての気持ちだった。

一見、放任主義に見えるような育て方ではあったが。

子どもは大人社会と子ども社会の中で

人間の中でもまれて逞しくそだっていったし、家長が仕事を一生懸命する事で、明日もまたご飯が食べられる。

明日暮らしがよりよくなっていく。そういう希望があった時代だったから。

そういう事だけでも、充分幸せを感じる事が出来たのだ。


春一は、どちらかというと亭主関白で無口な性質で、

いかにも昔の職人気質なのに。

子どもたちがそれでも父親に尊敬の念をもっているのは 

社会的な窓口からみる父親像、母親の窓口から見た父親像、夫像が 

いつもそれなりに尊敬され、それなりに敬われる存在であったから という事もあるだろう。


働き、それで家族を食べさせていく。景気もどんどん上向いている時代で、働けば働くほどお金が儲かる事から。

安易にお金を得られるマネーゲームをする事にステータスを感じている人間も多く。

働き口はいくらでもあったので、出来るだけ重労働が少ない職業へと人々は移行して行った。

しかし吾妻夫妻は、工場で汗水流して働き、糧を得るという 地道な仕事をずっとやり続けていた。


妻、詩乃は春一がたまに言いだす小言にも、特別に逆らうという事も無く。

仕事にも、特に口出しはせず。春一の影のように寄り添い、必要であれば助け。

ある程度は好きなことをさせてくれる。

・・・というような春一にとって都合の良い。内助の功的な存在で出来た妻だった。

熱に浮かされたように惹かれあったわけではないが、春一は妻の詩乃に不満があるわけでは無かった。


子どもたちは4人は皆それぞれ大人になり、一般的な職に就き、家を出て、世帯を持ち、家族を持った。

孫は合計すると5人居る、来年の夏にはまた1人生まれる予定で

三男の嫁は新しい命の誕生とそれに伴う家庭内での変化を、今から楽しみに待っていた。

そうはいっても何処の家族も、それなりに夫婦喧嘩はあるようで、たまに愚痴を聞いたりもするのだが。

それもまた仲が良い証拠だという気構えが吾妻夫婦にはあり。

夫婦の問題にはたいして口を挟まなかった。

たまに長男夫妻が子どもをつれてやって来くるし、

三男のお嫁さんは「元気ですか?」と気にかけて、たまに電話をくれる。


春一は孫にまごまごさせられる祖父という役柄を演じる時、

自分の血がちゃんと受け継がれて形になっているという事実に

改めて自分たちの進んできた道の軌跡のはっきりした形を見るようで 

春一は感慨深い思いで孫を見守るのだった。

実際には、詩乃の方が子守には慣れていて、

なにくれとなく孫の世話を焼いてやるのは詩乃の喜びでもあった。


年老いた春一の両親が次々に亡くなった直後に生まれた長男の子ども。初孫の存在に

詩乃は人が生まれるという事、死ぬという事の不思議さを考えずには居られなかった。


その年に亡くなった春一の父、幸国は生前に「一家に死があり、生があって家が清められる。」とよく言っていた。

それは代々世々に受け継いでいく筈の 

家族の諸々の事柄であるとか、出来事、また精神性を表しているのだろう と 詩乃は考えていた。

見えないものではあるけれど、とても重要な部分で、言葉では伝えられない部分だと 

詩乃は現在に至る時代の流れの中で思っていた。お互いが関わりあって生きていく事、支えあって生きていく事。

不完全な人間だからこそ、そういう事は意味が在るのだ と 詩乃は考えていた。

お互いに迷惑をかけないことを前提として考えて暮らす核家族世帯のことを考えたら、

詩乃は大なり、小なり迷惑をかけられたりかけたりするのが人間社会の一部の真実なのに・・・と 思うと共に。

そういったことを全て排除して、

人との間で生まれる些細な感情や気遣いが解らないような人間に 孫をしたくないものだ と思った。

争う事だけ覚えさせるより、ストレスの多い社会の中を生き抜き、切り抜けていく智恵や

人に対する心の持ち方、気遣いの仕方を この孫たちに遺してやりたい。


詩乃の腕の中で健やかな寝息をたてて眠る。温かな孫の顔を見て詩乃は、そう考えていた。


こんな風な年よりじみた考え方をするようになったのも、自分が年をとってきたからだろうか・・・

そう詩乃は考え、嫁入り道具の大事にしている三面鏡のカバーをめくり、自分の顔を覗き込む。

日差しが眩しく輝いて、うららかな陽光を反射していた。

詩乃は春の陽の中で、

自分の精神的な老いによる焦燥感や、老いの中で誰かにすがりつきたくなるような気持ちを実感して

少し自分で笑った。

現代の子は現代の子として社会も親も育ててくれるものかしら。

過ぎた時代の良さを どうこう言っても仕方が無い事だわ。


そうだ、そうだ。私は気負わなくていい。きっと、思った以上に子どもは強く育ってくれる筈だ。

もう子どもが巣立ってしまった寂しさも相まって、きっと私はそうやって心の隙間を埋めようとしているのかもしれない。むしろ、こうやってそれぞれが元気で居る事は、喜ばしい事なのに。


見守る姿勢を忘れないで居よう。困った時はいつでも手を貸せるようであれば良いんだから。

そう思い直し、三面鏡にかけてある京ちりめんの紫のカバーをそっとかけなおした。


今年に入り、この不況の煽りを受けた経営難で町工場を閉めることになってしまった。

春一は長年勤めてきてくれた従業員たちに

頭を下げながらも、春一自身が途方も無い侘しさを味わっていた。


今まで生計を立てていた工場は春一の収入のみならず、仕事人間だった春一の誇りであり。

家の中にも溢れた工場の喧騒、人が集まる生気に溢れた様子。

そういった『生きていく為の活動』の全てを含んでいたから。

春一にとっては工場の明かりが消えた時に、心まで がらんと音を立てて 消えてしまった様に思った。

男、春一が60歳を迎えるとき、「残りの人生は一体後どれくらいなのか。」考え、何が出来るのか。

何をするべきか。何を遺せるか。

今までの自分の生き方を考え残りの生、やがてくる深い老いと死を また考えるようになった。

鏡で自分の皺が刻まれた顔を見ると自分が老いていることに抵抗を感じ、抗いたい。

そう思わぬでもない。

どんどん失われるであろう生きていくための機能を喪失する前に、男としての価値を証明したい。

そう思わぬでもない。そういった欲望に自分を走らせる事に気が向かぬでもない。

自分が生きた証を何か遺したいそう思わぬでもない。


生と性は比例するというが 

春一は 老いに関して、もっと自分はそのまま、あるがままに受け容れられるものだと思っていた。

「自分の番が来た。」「お呼びが来た。」と言って死んでいった自分の両親たちのように。

枯れ木が朽ちるように亡くなって行った両親を思うたび、

春一は人間として、あぁでありたいと思ったのだが。

諦めという名で全てを終わらせてしまうのは、

今の春一の心境では工場を閉鎖してしまった という自身の不甲斐無さもあいまって、

とても出来ない心境でもあった。


諦めたくない、手放したくないと願うのは工場だけではなく。

春一自身の老いに関してもそうだった。

人間的な欲望は春一にも残っていたのだ。

それは今まで春一が目を閉じてきた人間の本能的な部分だった。

女を抱く事が自分の能力の証明になる などと 今まで思ったことも無い事だったし、

抱いた女の質や量が自分の価値に繋がるなどという

何処かの享楽的な遊び人の様な発想は

春一は生きてきた中で、考えもしない事だったのだが。


こうやって老いに抗おう とか 生きたいとか そういう思いの根源には

やはり自分の生きた証を残したいという生殖本能に繋がっているのかもしれない と 春一は思った。

それは実感としてという強い衝動を伴っては居なかったが、そういう男の本能という概念として

うっすらと春一の思いをかたどっているものであった。


それは男性にしか解り得ない事かもしれない。


女性の子どもを産み育て、

また自分から痛みと共に生まれでた生命を守るという神聖さと それとは まるで全然違う次元なのだ。


所詮、人類は皆 俗物であるから 女性にだって性欲が無いわけではなかろうが。

今更、老境に差し掛かっている老妻と どうこう などと 考えられないし、そういう事が絶えて久しい。

それに、どちらかといえば詩乃はそういう事に関して、あまり貪欲な女ではなかった。生活を維持していく為に在る諸々の事情を優先していたし、それが安定した地盤を築いたという事の証のようにも思えた。


現状、金が有り余っているわけでもない。他の女とどうこうというのも煩わしいし、そういう事は自分の身に余る。

選択肢があるわけじゃない。自分が行動をする事による、リスクは大きい。

それに、春一に欲があっても、そこに辿り付くまでに費やすパワーが もう、ない。


人付き合いがそれほど巧みではない夫婦にとって

社会的な窓口の役割も果たしていた 工場の閉鎖によって 人との交流もなくしてしまった。

今はこの家の空間に夫婦たった2人で過ごすには、ガランとして寂しすぎる。

どんどん世界が萎んでいく様な、人生の晩秋のような背景に

春一は諦めと、少しの焦りを伴って、心を静めに亡き両親の墓参に行く事が多くなった。


風に揺れる桜の花から見える青葉が もうすぐ春の終わりを告げていた。

人として生まれ、人と喧嘩をしたり、恋をしたり、人生の春を そうとは知らぬ間に謳歌していた。後で思い返してみれば、そういう自分の為だけに純粋に力を注げた日々こそが、人生の春だと言えたのだと春一は思った。

子どもという宝に恵まれ、みな無事に大きくなり、彼らが所帯を持って、孫が産まれ、工場の経営もうまくいっていた収穫の多かった秋の実りの様な日々も。


今 まさに 暮れ行くのだ。

線香の煙と香りが 空にふわりとあがる。


まるで、人の魂のようだ と 春一は思った。


何に対しても最初から『失うこと』に、用意がいい人間など居るのだろうか。

どれだけ賢い人であっても、どれだけ偉い人であっても

死ぬまで 人は生きていく為に発生する様々なものや、様々な事に執着する。

睡眠欲、性欲、食欲しかり、衣食住しかり。それらから派生する様々なもの。事。


ただそれが容易ではなかったり、まま為らなくなった時に、人は陰の反応を示すのだろう。

それはものすごく『陽』を渇望してもがいているという事なのかもしれない。


春一の両親は学が無い人であったけど、死ぬまでは ずっと 自分自身にしろ、その他の部分にしろ。

陽の反応を示していた。老いを感じていても「生きたい生きたい。よりよく生きていきたい。」と。

素直に表現し、体現していた。「それは何も恥ずべき事ではない。」 と いう風にありのままの姿で伝えていた。

自分たちでも死ぬまで自分たちを過ごしやすくする為の創意工夫や健康維持に関する努力を欠かさなかった。


そして両親のそういう姿勢は、決して人間の欲望の塊というような感覚ではなく、

春一の中では 健全な姿として焼きついていて、真っ黒く薄汚れたりはしないのであった。


もしかしたら 妻 詩乃が春一に話さなかっただけで、健康だった両親が老いて朽ちていくのを看取るまでは。

健康で闊達だった頃の事を知っている身内からすると 

見ていられないと思う様な、辛さや悲しさも含んでいたのかもしれない。


それを何の文句も言わず。一手に引き受けてくれた妻。

改めて考えると、夫として、いい部分しか見ていなかったのかもしれない。

自分がこうやって老いと迎い合うと、しみじみと妻の存在の大きさを実感して

存在の有り難味を噛み締める。


これからはもっと妻に寄り添える様にならなくては・・・と 思いはするが。

妻は今更・・・という思いも在るかもしれない。


桜の花が一枚頬に落ちる。

散り行く桜に「綺麗だな・・。」と言葉を残しつつ。

静かに、立ち上がる。


自分の踏み出す一歩が

『これからも生きていこう』とする自分の強い意思表明のように思えて、

強く足を前に踏み出した。


ぐっ、地面を踏む足取りが 今日を生きている自分の確かな命を確信させた。

季節は春。人生は晩秋。


今夜は妻と 語ってみるか。桜吹雪の中 春一は家路についた。