日比野京介は非正規雇用の派遣社員として働いてもう10年になる。
収入が安定しないながらも、いまどき珍しい風呂なしのボロアパートで寝起きして、
携帯をいじりながらも今日の糧を得る為に
派遣会社に電話をして、その日の仕事を探す。
僅かながらも、自分で稼いで暮らしていけるのは健康だからこそやっていけるんだな と思う。
親に感謝するのは、健康な身体に生んでくれた事だけだ。
特別に勉強がよく出来る方でもなく。
弁が立つわけでもない気の弱い京介は、競争社会から 自然にドロップアウトしていった。
最初から、その日暮らしを望んでたわけじゃないけど。
自分から多くのものを望まなくて、身を小さく小さくして生きていくとただこうなってしまった というだけで、
最初からこうなりたくてなっているわけでもない。
まともに働くって事を考えないわけでもないけど。
今は正規雇用なんて まともに勉強して、まともに生きてる人間だって中々難しいご時世だ。
学も無けりゃ、資格も無い。俺なんか、どうしようもない。
ただ こうやってその日暮らしで働くだけで精一杯だ。
近所の豆腐屋のおばちゃんによくおからを貰いに行くけど、
「今の子は 正規雇用で雇ってくれるところも少ないらしいし。ちゃんと働ける時代じゃないからねぇ。」と
いつも多めにおからをくれる。
「おばちゃん、ありがとう。給料はいったら絶対にここの豆腐買いに来るからさ。」「はいはい、待ってるよ。」
コンビニにいって廃棄処分になりそうな弁当を貰った事も何度か在る。
自分が外に身を投げ出せば それなりに助けてくれる手はあるもんだし。
ま、多くを望まなければ それなりにだって生きていける。
今の生活はボロアパートで賃貸だけど
家もあるし、まともな男がつく仕事だ ・・とはいえないけど、それなりに働いてるし。
これはこれで まぁいいんじゃないか って思ってる。プライドだけで飯が食えるわけじゃない。
どっちにしろ、食っていく為の仕事は我慢の連続だし。
もし、好きなことを見つけられてやっていたとしても、それを仕事にできる人はごく少数で、誰しもが自分の好きなことを仕事に出来るわけじゃない。好きな仕事を見つけられるだけ 未だ余裕がある方だ。
それに、今からキャリアアップとか言ったってな・・・。一体俺に何が出来るって言うんだ。
俺には3歳下の妹がいる。
勝気な性格で、いつも誰かに取り入るのが上手い。典型的な末っ子気質だ。
名前は紅実(くみ) 5年前に結婚して、子どもは3人もいる。
今は、看護士として働いている。
連絡はたまに向こうからかかってくる位で、俺からは特にかけたことが無い。
連絡が来るたび 妹は亭主の稼ぎが悪い と ずっとこぼしている。
まぁ 亭主も頑張ってないわけじゃないんだ。
ちゃんとした会社でサラリーマンとして働いてるし
「毎月ちゃんと家に金を入れてるだけでも立派じゃないの。」 と 俺が言ったら・・・・
妹は 「結婚もしてないおにぃちゃんにはわかんないわよ!ほんっと・・子どもがいなかったら離婚してるのに。」とか言ってため息までつきやがる。「あーあ 聞くだけ損だな。」俺は 受話器の口を抑えて 小さく呟いた。
しばらく うんうん聞いていたが、あまりにも長いので、妹が饒舌に為ると 電話を耳からはなして、時々 相槌を「うん。」と打つ事にしてる。
聞いていなければ聞いていないで怒るし、聞いてると聞いてるで、ヒートアップする。・・・ややこしい。
俺と妹と、血が繋がってるとは思えないな。この妹の気の強さはなんなんだ・・・。
パートタイマーの看護士として働いている妹の紅実からすると、
亭主の月給とあまり変わらない額を頂いているのに、自分が家事全部を負担している事も不満の1つらしい。
妹の亭主は仕事が終わると、家にまっすぐに帰ってきて ゲームをずっとしてるというな男で。
インドアなタイプで面倒くさがりらしい。
ヘビースモーカーで まぁたまにパチンコをしたり、友達とのみに出かけたりする。
妹はそれにも疑いを抱いて「浮気じゃないのかしら・・・あんた どう思う?」とか聞いてきた事もあったっけ。
「そんな事・・・俺に聞かれてもなぁ・・・。」と モゴモゴ言うと。「頼りないわね!」だと。
なんなんだよ。聞き損だな。まったく。
そこそこ自己愛が強くて、そこそこ真面目で 子どもまでいて 高給取りでもない男が
浮気どうこうなんて、中々無いだろ。
そんなの昼のよろめきドラマくらいのもんだろ。
しかも たとえ浮気はあっても あの亭主じゃ 相手を本気にはさせられないだろうな。
・・・と 俺は思ったけど。
妹と亭主の場合、
お互いに慣れ合ってしまいすぎて怠惰になっている部分があるから、
そういう外からの刺激なりが、夫婦関係にとってはカンフル剤のような役割を果たしているんだろう。
それがたとえ夫の浮気疑惑であったとしても。気の強い妹にとっては、
ま それでちょっとは亭主を大事にしようと思えたらそれはそれで、良い薬かもしれないな と 思う。
妹は比較的長男の俺より甘やかされて無条件に『もの』を与えられて育っているから、
まぁ・・・無条件でものを与えられない今の状況が 気に食わないのかもしれない。
家庭を持つって事は 中々男にとって大変な決断なんだよな と 思う。
食わせていくだけでも大変なのに、その上 文句まで言われ。
自分の事を見てない やら、愛情が足りない やら、家事を負担しろ やら、姑とうまくいかない やら。子どもの世話をしろ やら。
ありとあらゆる事に細かく気を遣わなければいけないなんて・・・・。
雨露さえ凌げたら良い、今日食べる分の食事を手に入れられたら満足、自分の事しか考えなくても良い、
野良猫の様な俺からしたら 考えられないような生活だ。
嫁を貰うっていうのは、自分にとって都合の良い 与えられるだけの安心できる生活 とは
程遠いもんなんだな と 妹を見ていたら思う。
義務を実行していても、努力が足りないとか言われるんじゃ、たまったもんじゃない。
・・・・・・・・それって楽をしようとする男の言い訳なのか?
男からしたら そういう事が苦痛にならない嫁がいいとは思うが・・・。
そういうのは 現代では 女性蔑視 やら なんやら に繋がるのかも・・・。中々、口に出して言える事じゃないな。
「自分から生み出そうとしなければ、家族の中であっても健全な関係は築かれていかないものね。
そういうのって日々のちょっとした努力なのよ。」妹は言った。
「へぇ努力ね・・。」電話口で俺は相槌を打つ。
「そうよ。やりすぎても駄目なもんなんだけどさ。」と また でかいため息をついた。
「やりすぎたら、どんどん仕事が増えて、女性側の負担が大きくなるからね。男もある程度は自立して無いと、駄目なのよ。」と言った。
そして恋愛結婚した癖に。
「あぁ~私なら、もっといい男が捕まえられたのになぁ~。」と、妹は本気でずっと言ってる。
電話口で思わず、噴出してしまった。
あぁー・・・片腹痛い。
「そもそも、紅実がひと目惚れをして、結婚まで持っていったのを忘れてるのか。
もしかして、紅実の脳内では「自分の方が言い寄られた。」 と いう事になってるのか?」
と聞くと
「あっちだって、その気だったんだから!」と 言い出した。「あっちの方よ。私に惚れたのは!それなのに・・・今は・・・私に見向きもしない!」
聞いていくと、自分たちの関係がマンネリ化してきてる と言う。
まぁ 夫婦ってそんなもんだろう と 思うんだけどな。
いつまでもドキドキするとか、そんな事 在り得ないだろう。
毎日落ち着いた生活が在る。それが夫婦ってもんじゃないのか。
父さんと母さんも、そうだったじゃないか。
それにしても 亭主が先に惚れたなんて・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・なんて、都合に良い記憶だ。
そういう前向きさが怖い。女って怖いな。ゾッとする。
まぁ・・・・・それで丸く収まるんだから、それでいいか。俺には関係が無い事だ。
3人子どもがいても、女は
惚れたとかはれたとか、そういうロマンティックさや、
恋愛で作り出した独特の雰囲気が失われる事への拘りがあるらしい。
女は女の部分を捨てないもんなんだな。・・・と思うと。
なおさら、めんどくさい。
「お似合いなのに。」というと。
「何よ!それ!!」と烈火のごとく、怒り出した。
「じゃ・・・じゃ、また。」と慌ててプツンと電話を切る。
俺は 月々きちんと給料を貰って安定した生活をして働いてたら、
順調に結婚して、子どもができて と 考えていたのかな。
いや 単純に、そうはならないだろうな。生活が確立してるから、結婚がどうこうじゃなく。女を養う、家族を持つと言う事が、俺にとっては負担に感じるんだから。
まぁそんな事より、とりあえず、電話して明日お仕事を取らなければ・・・・・。
trurururu・・・・・・電話は中々繋がらない。
「今日の営業はこれで終了しました・・・。」 アナウンスが流れる。
今日も仕事が無い。
こういう日が続いていく事に 日々怯えない訳でもない。
ずっと仕事が無かったらどうしよう。
自分がまるで、社会から ポツンと隔絶されて、取り残された存在のように感じる時が在った。
コンビニに廃棄処分の弁当でも貰いに行こうと家を出て行く途中で、
公園に10代前半の女の子が居た。
ベンチの前で缶ビールを飲んでいる。
「おい・・・10代の飲酒は違法だぞ・・・・。」心の中で呟く意気地の無い俺。
少女の横にはポテトチップスが封を開けて置いてある。
コンビニに行くのに公園を通るのが近道なので、気づかない不利をしながら、前を通る。
「ちょ・・・っと!そこのおじっ・・・・さん!!」・・・・・・。・・・・・どうやら、酔ってるらしい。
「あんたまで あたしが見えないって言うのかぁ~~~っ!」手足をバタバタさせながら、叫んでる。
「私は透明人間じゃなぁああああああああああああああああああああい!」
「・・・。」見ないように、気がつかないようにした方が良い。そう思い、早足で通り抜ける。
コンビニまであと少し、きっと 帰ってくる頃までには 居なくなってるだろう。とりあえず、無視だ。
とりあえず、携帯を出して見る不利をする。
コンビニに行く明るい店内の光が眩しい。ガラスのドアをひょいと開ける。
棚を整理している店員に「廃棄する弁当はないですか?もらえませんか?」と聞いてみる。
「今日は、無いですよ。」冷たい目をして言われる。冷たくは無いのかもしれないが、
なんとなくどこかでは、この生活に負い目を感じているのも確かなのだ。
それが、こういう他人からの目を気にさせるのかもしれない。
はぁ・・・今日は飯抜きだ・・・。「ハラヘッタァ・・・・。」
トボトボと来た道を歩いて帰る。
なんと、さっきの子がベンチでまだ ぶつぶつ言ってる。
違う道を通ろうか・・・このまま知らない不利をして歩こうか、思案していたら。
少女は千鳥足でふらふらしながら近づいてきた。
「おっじさ~ん!また来たの?ねぇねぇ あたしが見える?」
「・・・ぅ・・・。」酒臭い・・・・。言葉に詰まって「・・・・酔ってるのか?」と聞くと
「おぉ今、返事したよね!?私が見えるんだね!」キャキャッと嬉しそうに笑う。
馬鹿にしたような口調で「・・・あんた幽霊なの?見えるとか、見えないってさ。普通は、人に聞かないよ。」京介は言う。
「あっははははは!!」少女はお腹を抱えて笑うと 「そうかもねー。」と頷く。
「ふーん。じゃ、幽霊のお嬢さん。おじさんは帰るからさ。そこどきなさい。」と 言って通ろうとすると。
「ふーん。通るんだ?家に帰るの?」進路妨害をする。
「そうだよ。帰るんだ。」ムッとした顔で避けようとする。
「帰って何するの?」前に立ちふさがる。
「ハイハイ。おやすみ。」と、また強引にその場を立ち去ろうとする。
「あ!じゃあ!化けて出ても良い?私、ゆーれーだもんっ。」と 前に立ちふさがっておどけた顔で言った。
「あのね。・・・おじさん お嬢さんに付き合ってる暇は無いの。貧乏だし、お金も無い。こんなおじさん引っ掛けたっておじょうさんにとって何の価値も無いだろう?」ため息をつきながら言う。
「えんこーなら他を当たって頂戴。おじさん、お金ないんだ。」
「私?お金ならあるよ。」財布を学生かばんから取り出して万札をバラバラ地面に撒く。
「え?」地面にハラハラ落ちていく万札を見つめる。
「援交とか、しないよ。私。」きっとした顔をして見せた少女は次には憎憎しげに言う。「それに お金なんか、要らない。」
「・・・・。」呆然と地面に撒かれた万札を見た。
「何があったか知らないけど・・・・。お金をムダにしちゃ駄目だぞ。」お金を拾い集めると、少女に手渡す。
「いらない。おじさんにあげる。」少女は断固とした表情でそう言った。
「あげるったって・・・・。」戸惑いながら 手の中の万札と、少女の顔を見比べる。
「私はお金なんか要らないもん。」少女は泣いていた。
泣いてる少女を見、お金を見、おろおろする。
キィッッ自転車のブレーキ音が軋んだ。
公園の外に自転車が止まったらしい。
「おい!そこの男!何やってるんだ!」巡回しにきた警察が、慌ててこっちに走ってくるのが見えた。
「うわ・・・おまわりさん・・。どうしよう・・・。」
手に万札を持った男。泣いてる少女。
これは、誰がどう見ても怪しい。
慌ててこの状況を説明しようとする。「あの・・そうじゃないんです。違うんです・・・。」慌てる京介。
「おじさんは警察だけど、何かあった?」少女にいやに優しく声をかける。
少女は、泣きはらした顔で顔を上げた。「・・・・・警察?」
状況を咄嗟に判断した少女が言ったのは 京介を窮地に追い込む一言だった。
「この人!変態なんです!」と言ったのだ。
この状況を他の人が見たら、確かに そう見えるだろう。
警察は険しい顔をして京介を見ると 「じゃ、オニィサン。話を聞こうか。」と言い、結局 2人とも
警察に連れて行かれる事になった。
「ちょちょ・・・ちょっと・・・!!」その間も おたおたする京介。
少女は黙りこくったまんまだった。
とりあえず、少女は警察に何を聞かれても一切話をせず。
未だ若い成りからして、保護者が必要だろうと判断され、保護者が呼ばれることになった。
少女は 親の名前と住所だけは、素直に言ったのだ。
京介は名前、年齢、職業を聞かれ、自分の無実を訴える。
「何もして無いんですよ・・・。ただあの公園を通りがかったら、あそこにいる酒を飲んでる子に絡まれて・・・・。」と おどおどと訴える。
警察は聞く気が在るのか無いのか、
「じゃあ何で女の子は泣いてたんだ?」とか「変態って言ってのは何だ。」と 強引に話をそっちに持っていこうとする。
はぁ・・・ついてない・・・・。まさかこんな事になるなんて・・・。
「俺は派遣社員でその日暮らしです。女の子とどうこうするお金なんかありません。しかも俺はロリコンじゃありませんから・・・・・。俺は自分から世間に恥じるような事は何もしてないですよ。こんなに気が小さいのに、そんな事できるわけが無いです。
コンビニに弁当貰いに行く途中に、そこの女の子がビール飲んで、酔っ払っていてはなしかけてきたんです。
はじめは無視したんですけど、帰りはもう居ないだろうと思って、同じ道を通ったら・・・絡まれて・・・・。
俺だって、貧乏なおっさんに用なんか無いだろって言ったんです。そしたら 私は援助交際なんてするつもりが無いって言い出して、金をばら撒いて、泣き出したんですよ・・・。それを拾って手渡した時に、警察が来たんです。」
警察はイチイチふんふん頷いている。
警察が 少女の親に電話をかけたところ「今日は来れません。」と言ったそうで、
代わりにお手伝いさんが来てくれる事になったそうだ。
「お金持ちのお嬢様・・・ってとこか。親の愛情不足って感じだな。」と 俺が言うと。
泣き腫らした目で「いつも、こうなの。」少女は言った。
「いつも 「私は関係ない」って顔するの。」と泣いた。
酒が回ったら泣き上戸になるクチなのだろうか・・・。末恐ろしいな・・・。
「何が起こっても、知らない。お前は必要ないって 振りするの。」
警察も京介も顔を見合わせて、黙る。
「もっかい聞くけど、お譲ちゃんは学生さんかな?若そうに見えるけど・・・。」警察が聞く。
「私、もう中学生だもん。」
「中学生は、夜中出歩いたりしちゃ、いけないってしってたかな?ビールも違法なんだけどね。」警察が言うと。
「うん・・・。」素直に項垂れる。
「お父さんもお母さんも 今日こそは、もしかして 来てくれるかな って思ったの。私の為に仕事をほっぽり出して来てくれるかなって。」少女が泣きながら 言った。
「さっきの騒ぎは嘘だったって事なのかな?」警察が聞く。
「ごめんなさい・・・・。」少女は泣きだした。
「じゃ 俺は無罪放免って事ですね。」京介は言って、立ち上がった。
「あぁ。良かった、良かったな。」京介の肩を納得させるように、ポンポンと叩くと
「お嬢さんはここに残りなさい。迎えが来るみたいだから。」と少女に言った。
少女は言った「おじさんも此処にいてよ。」
「はい。」5分とかからないうちに迎えに来たお手伝いさんは、
事の成り行きを警察から聞くと、ひたすら俺に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。大変なご迷惑をかけてしまって・・・・。」
「いえ・・・。まぁ・・・本人が、解ってくれたら。もう、それで。」
「これ少しばかりのお金ですが・・・。ご迷惑料と言う事で・・・。」
白い封筒に入っているのはたぶん金だろう。
「そんな金、要りません。」要らないわけではなかった。俺は明日の職さえ無いというのに。
でも 「ここで俺が受け取ったら、その子がまた大人はそういうもんだ と 思ってしまうかもしれないですよね。
それより、出来る限り寂しい思いをさせないように配慮するのが、親とか周りに居る人の出来る事なんじゃないですかね。親が仕事で忙しくて、いくら儲けていようと。そんな事、子どもには関係ないんですよ。」
この年配のお手伝いさんにいっても、親じゃないんだから仕方が無いと解ってるけど
保護をする側の人間が、金で解決しようなんて考えを許したら、このチュウボウは、ろくなクソがきにならないだろう。
少女の目が 見開かれた。
かまわず、俺は少女に言った。
「でもな、稼ぐって大変な事なんぞ。お父さん頑張って働いてくれてるんだろ?」
「お・・・お父さん?」少女は男の向こう側を見て呟いた。
バタンッ車のドアが開いた。長身でスーツを着た若々しい男性が車から降りると大股で近づいてきた。
「伶果!」小走りで駆け寄って、無言の沈黙が流れた後に「この男か?」と聞く。
「え・・・うん。あの・・・」伶果と呼ばれた少女がしどろもどろになる。
ガターン!大きな音を立てて入り口付近に在る傘立と防火用のバケツと俺は一緒にひっくり返る。
「お父さん・・・!」「旦那様!」 少女とお手伝いさんの2人が叫ぶのは同時だった。
「いたたた・・・・」殴られてひっくり返ったうえから乗りかかり、未だ父は殴ろうとしていた。
「人の娘を!!よくも!!」怒気に満ちた瞳で胸倉を掴んだところで、
少女が「パパ!待って待って!違うの!」と しがみ付く。
「こいつがお前を・・・!!」ぜいぜい言いながら、怒りを帯びた肩や声が震える。
「あの・・・それが、旦那様・・・落ち着いてください・・・。あのそれが・・・事情がちょっとお伝えした時とは、違う様なんです。」お手伝いさんが手招きをして、耳打ちをしながら父親に事情を話してる時。
少女が倒れた京介に駆け寄った。少女は覗き込むように「痛い?」と言った。
「殴られちゃったね。おじさん。痛い?」そっと頬に手が触れる。
「痛いよ、そりゃ。」起き上がりながら むっつりと黙り込む。
「パパがまさか来てくれるなんて、思わなかった。」少女が静かに言う。
「お金持ちの親父さんみたいだな。中々、長身でかっこいいじゃないか。・・・・・・・・・・・・・・・力も強いし。」床に寝転がりながら鼻血を止める。少女はポケットティッシュを取り出すと京介に差し出し、話をする。
「パパはね。CEOで、仕事人間なの。家にもろくに帰れないくらい忙しいの。」少女は肩をすくめる。
「そうか・・・大変なんだな。でも時間が無い中でも、娘の為に駆けつけて、娘の為に怒って、俺が殴られてるの見たろ?ちょっと親父の気持ちがわかったか?」
「うん ちょっとだけね。」そう言って、少し恥ずかしそうな顔をする。
少女は肩をすくめた。「おじさんみたいに優しい人に会うのはじめてかも。殴られても、怒らないの?」
「俺、もう今日の日は災難が起こる日だ って諦めてんの。」だらっと床に倒れる。「鼻血は出るし・・・腹は減ったし・・・。」
「ぷぷ・・・災難だね。本当に。」クスクス少女が笑う。
「人災だよ。」京介は少女を指を刺して言う。
「えんこーしてると思われるわ、警察に捕まるわ、連れて行かれるわ、尋問されるわ、殴られるわ。」少女は指を折り今日の日の災難を数える。
「おい・・・酒飲んだ中学生に絡まれる が ぬけてるぞ。」京介は付け足した。
「ふふふ・・・」少女が声を出して笑う。
「誰のせいだと思ってるんだ。まったく・・・・。」ティッシュを鼻に詰める。
「・・・そういや、母親はどうしたんだ?」
「ママは、妹の看病でさ。病院に、ずっと付きっ切りなの。」
「そっか・・・。親の勝手ってわけじゃなかったんだな。」
「うん。母親も父親も、妹も悪くない。誰も、悪くは無いの。
でもね、強いて言うなら。お金を持ってる不幸ってあるんだよ。お金なんていくらもってても、いくら入ってきても、物質が満たされても。価値なんて同じだよ。『所有』したら孤独に為るだけだもの。
豊かさの中にだって、貧しさはあるんだよ。」少女は言う。
「心の貧しさ・・・・か。誰にも存在を認めてもらえないと感じる孤独っていうのも、貧しさの一部かな。」
「おじさんは心は豊かに見えるな。」
「そうでもないよ。そんな良いもんでもない。日々暮らすのが精一杯なだけですよ。そんな良い事なんかないしね。
君たちのようなお金持ちのヒトタチが、あれもない これもないって、求めすぎなんだと思うよ。」京介は言う。
「そう?でも人に与えられる余裕がある人は 素晴らしい人だって パパはいつも言ってるよ。
それって心も 同じでしょ?他の人はね、通り過ぎても公園に近づこうともしなかったんだ。おじさんは違ったよね。
それにね。私、あの時 蛍みたいに見えたんだ。携帯を覗き込むおじさんが、闇の中に光ってる蛍みたいにね。」少女は清らかに微笑んだ。
「まず、君は。自分にとって都合の良い事を言ってくれる人が、いつも良い人とは限らないから 気をつけなさいね。」少女を指にさしてそう京介が言う。少女は目を丸くする。「ん?」
「ごほん・・・まぁ 俺みたいにへたれの人畜無害な男ばっかじゃないという事です。」
「うん。解った。」素直に頷く少女に、京介は脱力しながら言う。
「俺は貧乏で人の助けが必要だから、人と仲良くするのも、自分の為だって思ってるからね。
他人とは必ずリアルに結びついてるし。独りぼっちだって思う様なことは少ないかもしれない。
貧乏でも、必ず助けてくれる誰かが居るから。
自分の生活をオープンにしてるし、それを周りも知って助けてくれてる。
誰かに頭下げるのも、苦にならないし、プライドなんか持っていない方だと思うからね。
まぁお金を持ってる人と比べたら、ちょっとは生き易いのかもしれないな。
でも俺は気が弱いから、水が清らかなところでしか生きられないからね。濁流だらけの競争社会でのし上がっていく様な、君のタフでかっくいいお父さんとは違うんだよ。」
「それも、そんなに良いもんじゃないと思うけど。
ずる賢く自分の身を守れるようになる事が、働く偉さって事なのかな。物質をたくさん持ってた方が価値が在る人間なのかな?どれだけ嫌な事をしていてもそれで良いの?家族の心が満たされなくても、働いていたらそれで全てが許されるの?」
少女は静かに微笑んだ。
「本当の豊かさって 何なんだろうね。」
年若い少女が
今までに見た孤独な世界への憤りを、京介は垣間見た気がした。
お手伝いさんと話が終わった父親は近づいてきて、項垂れながら京介に頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。つい・・・娘の事となるとカッとなってしまって・・・勘違いをしていたみたいで・・・。」お手伝いのおばさんも一緒になって頭を下げる。
「申し訳ございません。私が今まで旦那様に「お嬢さんは心配ない。」とお話していたから、こんな事になったんだと・・・。」平身低頭に頭を下げる。
「・・・痛かったです。」京介は珍しく率直に言う。
「本当に、何とお詫びしていいか・・・・。こんな事が・・・娘の学校に知れたら・・・」少女の父親は額に汗して頭を下げる。
その言葉を制して「殴った時の、気持ちをずっと忘れないで居てください。娘さんは未だ心から、納得できていないみたいですよ。ご家族のことまで、投資と回収としてお考えですか?」京介は言った。目で少女をけしかける。
「ほら、なんかいってやれ。」
「そうだよ。全然、納得して無いよ。ずっーーーーと放って置いて。お金だけたくさんもらっても嬉しくないよ。「この子は大丈夫だ。」って思われる事が、無理させる事もあるんだよ。周りに期待されてる『良い子なだけの私』が本当の私じゃないんだよ。」
「伶果・・・」父親がおろおろする。どうやら娘に弱いタイプのようだ。
「でも、来てくれて ありがとう。嬉しかったよ。」少女は微笑む。
これからもきっと父親は今までと変わらない生活をするだろう。だけど、今は『自分の為だけに』来てくれた。
そういう事への感謝と諦めがこもった一言だと京介は思った。
「そうか・・・お父さんもお母さんも忙しかったからな。ずっと放って置きっぱなしだったから・・・。すまない。」長身の男が少し小さく見えた。おずおずと娘の手をとる。「すまない・・・。」
「俺は独身だし、娘も居ないから 解ってない事もあるし。偉そうにはいえないけど・・・・・。
たった小さな事だけでも 彼女の孤独だった世界は 癒されていくんです。
実際は単純な事なんだとおもうんですよ。
親父さんが難しく考える事は無いんだと思います。」京介は少女の父親に向かって言う。
父親は「この子は伶果は何でも良くできる子だと思っていたから・・・・・私たち側が娘の頑張りや我慢に、甘えすぎていたのかもしれません・・・・。」
お手伝いさんが「旦那様・・・実は万が一の為に用意したお金は受け取っていただけなかったんです。今日はこの方にお詫びもかねて、これから皆さんで食事でもしませんか?」少女の父親に、助け舟を出した。
京介はこの日初めて良い事が起こった と やっと思えた。
家族の中で、父親としての役割 母親としてのの役割 子どもの役割。
すべてが誰かの思うままにいく事は無いだろうし。
全員が満たされている事は稀だろう。
だけど、お互いに我慢をしあいながらも継続をし続けた生活の中で、
満たされる一瞬の素晴らしさがある事を知った。
今日の少女の笑顔こそ 闇の中に光る 蛍のようだと 京介は思った。