この国で はじめて 民主主義の産声を聴いた。
ありがとう。
息苦しさが少し消えた気がする。
紫色、薄桃色、青色
小さな花が集まって美しい花を咲かせている紫陽花。
どうか美しくその花を咲かせられますように。
粉雪の降る12月に、お父さんとお母さんが離婚して4年経つ。
光こと、私が小学校2年生の冬でジンとした寒さが身体にしみたのを覚えている。
そう、この地方では毎年どか雪が降るから。
その年は家族全員、身体も心も冷え切っていた様に感じた。きっと私だけじゃないと思う。
ひっそりと音が吸収されていく真っ白な世界に自分たちが飲み込まれるのではないかと思った。
いつもは壁につけてあるキャットタワーに上って優雅に毛づくろいしている猫のマフィンまで、
下に降りて神妙な面持ちで鳴き声ひとつあげず動かなかった。
今は家事全般は妙子おばぁちゃんと私、光でやってる。
たとえ誰が居なくなっても・・・日々暮らしていく連続した日常の方が
そこに居る人間にとって大きな意味を持つ。
振り返ると辛いけど、時間が当たり前のように流れていく事で、段々母の不在を寂しいとも思わなくなった。
時間が押し流してくれたんだと思う。後、日々暮らしていく為の仕事が予想以上に大変だったせいもあるだろう。
毎日何かに追われて時間をフルに使いきってる感じがしていた。
それでも私の力ではまだ出来ない事が多くて、おばぁちゃんが居ないと我が家は生活が成り立たない。
お母さんがいたころも妙子おばぁちゃんは手伝ってくれていた。
年をとっていて私たちの面倒を見ることが負担そうにする度に・・・・
お父さんは「お母さんが人の面倒を見るのが嫌いだったから。」お父さんはそう言って、暗におばぁちゃんを労う。
そして続けて「お父さん、若いうちに勢いで結婚してしまったからな。」いつもそう言うのが口癖だった。
まるで言い訳するように。後ろめたそうに。
私を怒る時は「お前はやっぱりずぼらなお母さんの血が流れてる。」「それじゃあ幸せになれない。」そう言って怒るの。
お父さんは結局、お母さんを悪者にするだけで気が済むんだからそれでいい。
でも私の中には お母さんの半分がちゃんと生きて脈打っていて、どうやっても切り離せないから。
もうお母さんの一部は私という人間の一部として作り上げられているから。
お父さんがお母さんの事を悪く言う時、私はいつもどうしようもなく
自分まで悪く言われた様な気がして、すごく腹立たしいような
それでも何かもどかしく共感する部分があるような・・・すごく空っぽな気持ちになる。
そして自分が駄目な人間になった様な気がして、たまらない気持ちになるんだ。
確かに お母さんは人の面倒を見るのが下手で、人付き合いも下手だった。
家事があまり得意じゃなかったし、かといって仕事もバリバリこなせるというような人じゃなかったけど。
それでも何でも一生懸命やろうとしてた。
そんなお母さんを好きになって結婚したのはお父さんだから、
きっと本当の所は、お母さんが不得意な部分が多いのが離婚の原因じゃない様な気がしてるんだ。
大事な事を聞こうとすると「大人は大人の事情がある。」としかお父さんは言わない。
大人の事情はどっちでも良いんだ。そんな事が知りたいんじゃないの。
私は、本当の事が知りたいだけ。
「何でお母さんの事が嫌いになったの?」私はそれを知りたいんだ。
でもきっとお母さんを嫌いになった理由を聞いても、私は納得なんかしなかったかもしれない。嫌いになった理由なんか知っても、良かった思い出まで汚される気がするから。やっぱり知らない方が良いのかなと今は思う。
最初相手を良いなって思った部分でも、日が経つと 嫌な部分に変わっていくのかな。
人が人を好きになるって、何て簡単で 何て自分勝手で 何て馬鹿らしくて 何て人間臭いんだろう。
人を嫌いになるのって、何て簡単なんだろう。
悪い部分を見つけることって、何て簡単なんだろう。
そうやって人の悪い部分をつついて、自分を良い人間に見せて。
何の努力もしない人間の、何て我慢が足りないんだろう。何て努力が足りないんだろう。
そして人の悪口を一旦言いだすとそれが癖になる事を、大人は誰も解っていない。
自分を正当化したり、実際より良い人間に見せようとするためだけに
誰かを悪者にしてる自分が一番悪くて、一番醜いのかもしれない という事を 考えてはいない。
私がこれだけ一生懸命家のことをしていても、どうしてもおばぁちゃんは愚痴が出る。
その時いつも思うんだ。私は血が繋がってるから本当の孫だから。
おばぁちゃんはたまに優しいし、良いけど。
血が繋がっていないお母さんの気持ちを、親身になって汲み取ってくれる人間が居たのかな。
お母さんの出来なさを頑なに許さなくて汚い言葉で詰るおばぁちゃんも、
お母さんのしんどさを理解しようともしないで、「女は家事をやって、その上に子どもに身を投げ出して当たり前だ。」と言う。楽をしようとばかりしてたお父さんも、
それをどうにかしようとしたり、笑って済ませるほどの器量がなくって、陰に入って何もしようとしなくなっていったお母さんも。
皆が マイナスのサイクルに嵌って抜け出せなくなったのかもしれない。
夫婦で居ることが嫌になったからといって
離婚しても簡単にそこに在る『暗い影』は解消されるわけではなく、
新しい課題がまた増える。それだけだった。
ただ出会ったまんまの男と女が離れていくだけならどれだけ簡単な事なのだろう。
共有した思い出も、好きだった記憶も、全部すっきり忘れ去る事が出来たら、人間心など痛まないに違いない。
ずっとこれからも夫婦である限りはそこにあった筈で、継続されるはずだった生活や、古い生活の中から生まれた新しいものを引き継ぐ時。
例えば夫婦の間から生まれた新しい命。
夫婦のどちらかが欠けると必然的にもう一方の役割も果たさなければならなくなる。
それを重荷だと思って居る限りは、誰かが辛い思いをする。
日々生活していくうえで、特に母親が責任を負っていた部分を、
今度は私が少し負担する。妙子おばぁちゃんと一緒に負担をする。
子どもなりに生活をしていく為の家の用事が大事なだとは解りつつも、
両親ともにそろって何もしないでよい同級生の誰かと比べてしまい不満を抱かないで居るのは難しかった。
私も4年前はいつも家にお母さんが居て、おばぁちゃんが手伝いながらも
曲がりなりにも全部やってくれてたから。
その頃は、包丁さえ握れなくて、洗濯機の使い方一つ知らなかったし、雑巾の洗い方も知らなかったのに。
洗濯物のたたみ方さえ知らなかったのに。
何もかも、どんどん出来るようになっていった。
それはそれで、事情を知ってる人からは褒められる。
私もまんざらではないけど。
やっぱりお母さんが戻って欲しいと時々思う。
お母さんが全部やってくれたら・・・。
でもそれって・・・やっぱり自分勝手なのかな?
親が全部やるのは当たり前・・・そう気楽に思えたらよかったのに。
何も考えないで、気楽に居られたら良かったのに。
そんなある日、学校から帰ると玄関に家に女の人の靴があった。綺麗なピンヒール。
なにやら家にあがっておばぁちゃんと込み入った話をしてる様子だった。
そっとドアの隙間から覗くとお母さんよりもいかにも年上そうな雰囲気をした、丸い顔をした人だった。
顔が青白くて、少し疲れて居るような感じがした。清楚な感じの女の人。
おばぁちゃんが声をひそめて話をしてる。
あまり良くない事が起きているんだと私は直感で思った。
おばぁちゃんの顔が険しくなったり、とがっているように見えたから。
身を乗り出して中の声を聴こうとすると がたん!体勢が崩れた。
瞬間 しまった と 顔をしかめた。
案の定がたっ!扉が動く。
おばぁちゃんが慌てて振り返る「なんね・・・!あぁ・・・光かいね。あぁお帰り。」腰を浮かせた。時計を見る。
女の人がかけよる「大丈夫だった?」心配そうな目をしてる。自分だって青白い顔をしてるのに。
「転んじゃった・・・。」咄嗟にいつものように妙子おばぁちゃんにひざを見せる。
「あぁ・・・ちょっと擦り剥いてるね。仕方ね。洗って薬付けとり。」いつものようにおばぁちゃんは言う。
「はぁい。」素直に従う不利をする。自分でやるのはなれてる。
女の人は「待って、光ちゃん。」と言って呼び止める。おばぁちゃんに「救急箱ありますか?」と聞くと
箱の中身を確かめて、消毒液を脱脂綿に含ませて消毒をしてくれた。
後は軟膏を塗って絆創膏を上から貼る。あまりにも手早いので、しみると言う暇もなかった。
にこっと笑って「痛い?」と聞く。
「う・・ううん。もう大丈夫。」ちょっと引きつった様な笑顔を浮かべた。
子どもらしいとは思われないようなそんな笑顔で。
女の人は少し笑って頭を優しく撫でてくれた。「よしよし。」
お母さんにもそんな事、されたことないのに・・・・。そう思うといつの間にかじわっと涙が出ていた。
もう小学校6年生にもなるっていうのに。
おばぁちゃんが苦々しい顔で言う。
「千沙子さん。今日はもう帰ってくれんかね。光も怪我して動揺しとることだし。また改めて日ををとってくれんかね。」と言う。
「私は大丈夫だけど・・・・」とボソッと言うけど。2人とも聞いていない。
千沙子さんはちょっと表情が強張ったけど、すぐ笑顔になって「はい、解りました。では改めて伺います。」と 言って立ち上がった。出て行くときに「光ちゃん。またね。」といって、また頭を撫でてくれた。
おばぁちゃんはそれからすぐに、私を見ないように夕飯の支度をしに行った。いつものように包丁を持ち隣に並ぶ。味噌汁の良いにおいがする。でもおばぁちゃんはいつものように味見もさせてはくれず。黙々と包丁を動かしている。まるで声をかけてもらいたくないような雰囲気だと思った。
私は「またね。」あの言葉が気にかかって居た。また会うって事かな?
お父さんもその日はいつもより早々と帰ってきたけど、おばぁちゃんもお父さんもピリピリした雰囲気だった。
口火を切ったのはおばぁちゃんの方だった。「千沙子さんと、どうするんだ?」
お父さんは「光の前で・・よしてください。」という。
「どっちにしろ解る事だ。」おばぁちゃんはにべもなく言った。
「千沙子さんってさっきの女の人?」と聞くと。
お父さんは「千沙子・・・。今日、挨拶にきたんだろ?」と私に聞いた。
「そうだ。きたさ。」おばぁちゃんが鼻をふんと鳴らす。
「何か気に障るような事でもありましたか?」お父さんはおばぁちゃんを気遣う。
「いんや。別にね。」おばぁちゃんはまた不機嫌な顔をする。「子どもまで出来てたら、もう何を言ってもどうしようもないわね。前の時と一緒だ。」
「・・・。」お父さんは正座をして俯いたまま黙っている。
「もう、前のような失敗は繰り返さないつもりです。」お父さんは声を振り絞って言う。
「どうだかね。」おばぁちゃんは冷たい態度をとる。
「あくまでも許してくださらないなら、光を連れて出て行きます。」
これにはおばぁちゃんも怯んだ。「わっちも年だしな・・・。今更独りでって言っても・・・頼りねぇとこもあるし。むこうさんは同居についてなんちゃいってんのかい?」
「まぁ・・・。お母さんが良い人ならばとは言ってくれてますけど・・・。」
「まぁ、殊勝な言い方だな。」薄い笑いを顔に浮かべる。
「お母さんは前の妻も気に入らなかったじゃないですか・・・今度は上手くやってくれませんかね・・・。どうしてもというなら出て行きますけど・・・・。」お父さんは少し怒っているように見えた。
おばぁちゃんは鼻をふんと鳴らして「まぁ・・・なるようになるだろうさ・・・。」と言ってしょっぱい味噌汁をすする。「年よりは口を出さないようにしたら良いって事だな。」ガタガタと自分の膳を引き上げて洗い出す。
その夜、おばぁちゃんは早々に寝床に入り、お父さんと久しぶりに話をした。
千沙子さんは、お母さんより5つも年上だという事。看護士としてはたらいている事。お腹に赤ちゃんが居る事。
「私に弟か妹が出来るの?」驚いて聞くと。
「そうだよ。」お父さんが少し照れたように言う。
「千沙子さん。看護婦さんなんだ。」
「うん。」
「今日ね転んだ時、手当てしてくれたの。」
「そうか。良かったな。」
「頭も撫でてくれたよ。」
「そうか。」ニコニコとお父さんは笑う。
「でも、お母さんって・・・・ちょっとピンと来ないな。」
「お前は前のお母さんの記憶がちゃんと残ってるだろうからな・・・その内慣れるよ。」
「そうかな・・・。」そんな簡単なものかな・・・。
「結婚しないで、お互いに一緒の場所に暮らすって事も考えたんだ。」
「それってどういう事?」
「戸籍を汚さないためにね。」
「後に残るものが何もない状態で、家族一緒に暮らすって事?」
「まぁ、そういう事だ。」
「・・・それって何の意味もないよ。だってもう2人の間に赤ちゃんできてるんだもん。しっかりと後に残るものじゃない。」
「うん。だから、千沙子さんと結婚しようかと思うんだ。許してくれるか?」
「許すも許さないも、ないよ。お父さんと千沙子さんがどうしたいか が先でしょ?どっちにしろ光は子どもだし。従わざるを得ないんだから。」
「そうだな・・・また、同じ失敗を繰り返すんじゃないかって・・・お父さんはちょっと心配なんだ。おばぁちゃんも居るし・・・。」
「全部おばぁちゃんのせいにしたら駄目だよ。お父さんが、どうしてあげたら上手くいくかを考える方が先だよね。」
「・・・。」父・覚史は娘が成長してきた事に驚いたようだった。
あのまま元の妻が居て、祖母が居て・・・父親である自分が居て・・・
あの暮らしが続いていたら、娘はここまで成長できただろうか・・・・。
しかしその成長もまた、何か大人の都合にまわされる子どものやるせなさを感じさせて
覚史は自分がしてきた事を振り返り、
それがこの子にどんな影響を与えたのかと考えると光に不憫な思いをさせたと感じ、また 自分の不甲斐なさを恥じた。
「光、ごめんな。」
「何謝ってるの?」
「お父さんが頼りないから・・・。」
「どれだけ駄目でも、どれだけ足りないところがあっても、お父さんのことを頼りにしてるからね。皆が少しでも幸せな気持ちで居る事が一番大事だよ。お母さんに連絡して良い?」
「あぁ、お前がそうしたければな。」お父さんは安心したように笑った。
千沙子と父の覚史は その年に籍を入れ、千沙子は段々新しい我が家の女主人になっていった。
次第に、光は家事をしなくても良くなり楽になった。
千沙子は『女の世界』でもまれたことから人間関係の機微に慣れているらしく。
細やかな気遣いをして妙子おばぁちゃんを喜ばせようと努めた。
妙子も前の嫁との諍いの原因が自分に在ったのではという罪悪感から、
口を出さないように努め、出来ることをするという姿勢ではあった。
それに単純な話、新しい嫁が自分から近寄ってくる事にあまり悪い気はしないらしい。
光はそんなおばぁちゃんの事も好きだった。
光は初め知らない人が家に居ることに違和感を覚えたし、
どことなく千沙に女の部分を感じ取り。
芯から馴染めない部分はあったのだが、次第にそこに居る事が当たり前になっていった。
それ位、よく気のつく人だった。
誰もが暮らしやすくなるように不自然な位に気遣いあっていた。
あのお父さんまでもが家族のために努力をしていたのだ。
翌年、弟の翔が誕生した事で更に家族は家族らしくなれた気がした。
不自然なくらいになろうとして家族になるよりも、実際に形があってはっきりした命があることで家族という意識が強くなったのだと思う。
母親としての千沙は
また前の母親と同じく100点満点というわけでは無かったが、それなりに家事をこなしていた。
妻となって安心から来る怠惰さが見え隠れするものの。それなりに頑張ってはいたのだ。
そしてそれは変に頑張るよりも『いかにも自然な事だ』という気がした。
たまに味噌汁が薄いとおばぁちゃんに文句を言われたりもするが、気持ちよく作り直したりしている。
本人の前では、苦痛だという顔を見せたりもしなかった。偉いなぁと思う。
妙子おばぁちゃんは弟の翔は千沙の血を分けた子なので、光と翔と注ぐ愛情も違うのでは・・・と心配もそれなりにあったようではあるが、別にもう充分大きくなっている私にはそんな事、どっちでも良かった。
思春期に差し掛かっているから、もう親の強力な保護を求める年ではないし。
おばぁちゃんと、お父さんと血が繋がっている事。私には、それだけで充分だった。
もう大分年齢が上の分、むしろ弟が出来た事が嬉しく思い、
家事の負担が減った分、面倒を見ていた。それはまた光の喜びでもあった。
千里と覚史はそれなりに喧嘩を重ねつつ、夫婦になっていった。
覚史は前の様に、ただ悪者を作り安易に安心する様な狭い世界を作り上げるより、
いつも変化があり、手間はかかるが、より居心地の良い場所を作ろうと努力する姿が見えた。
それは今までに無い事だった。失敗があるから、学ぶ事もある。
ある日覚史がポツリと言った。
「人間関係も夫婦関係も、傷つけあいながら少しずつ学んで、1つずつステップアップしていくものなのかもしれないねぇ・・・。」
弟が無邪気に笑って「あーばばぁぁ。」とわけの解らない言葉を話していた。
光は傍に寝転んでにっこり笑っていた。
「前のお母さんと電話で話したよ。」
覚史が伏せていた目をあげる。「元気だったか?」
「うん。今仕事頑張ってるんだって、相変わらず不器用そうだけど。お金ためてるから、今度旅行にいこうってさ。」
「おぉそうか、行ってこい。」
「やっぱり血って繋がってるんだなって思ったよ。」
「どうして?」
「私もふらっとどこか遠くへ行きたくなる事があるの。」
「この家に居るのが嫌っていう事?」千沙子さんがびっくりしたように声を上げる。
「ううん。そうじゃないの。ただ・・元のお母さんとは、血が繋がってる分、外に求めるものが似てるなぁって思ったんだ。」
「外に求めるもの?」
「そう、例えば食べたいものとかね。そういうのがシンクロするの。」
「家族って長い間一緒に居るうちにそうなっていくものじゃないのかな・・・。」千沙子さんがおっとりと、しかし譲らない様な口調で言う。
「うん・・・。そうだね。」光は笑って済ませておいた。
「そうじゃないんだ。」そういえないのは、血が繋がっていないという遠慮からだろうか。傷つけるかもしれないという遠慮なのか・・・作り上げてるものを壊してしまうという恐れなのか・・・。
猫のマフィンがにゃぁと鳴いた。手を舐めて顔を洗っている。
翔は赤ちゃん言葉でおしゃべりをしてる。にこにこして、幸せそうだ。
お父さんは一生懸命、翔のオムツを替えてる。
千沙子さんは、ご飯の支度をしに台所に行った。
妙子おばぁちゃんは翔にミルクをあげてる。
遠い所に住んでる。血の繋がったお母さんは光を旅行に連れて行くことを楽しみにしている。
皆 お互い、駄目な部分もある。譲れない部分もある。
入ってきて欲しくない部分もある。
解り合わなくてはならない部分もある。
だけどそれも含めて それでも仕方ない それでも良いか などと思える。
人を愛するっていうのは きっと こういうことなんだ。
大きな広がりを持って光はそう思った。
うだるような暑い日だった。
道端のアスファルトから照り返された熱が揺らいで自分の向こう側に見える景色を歪めていた。
薄目を開けて、空を仰ぐと大きな入道雲が青い空にもくもくと出ている。
それは沙世が幼い頃に大好きだった綿菓子に似ていてどこかメルヘンチックにも見えた。
瞬間、童心に帰って懐かしく、仰ぎ見る。
すると雲の隙間から見える陽の光の力強さと眩しさに、圧倒される。
自分の存在が何億億年という空の彼方にある太陽の存在の前で、霞んで消えてしまいそうな気持ちになる。
自分という存在は確かに此処に居るのに。
近くの公園の前で人の声が聞こえる。
見てみると
「募金お願いしまーす。」頭を下げて募金箱を首から下げて通り過ぎていく人の前に立ちひたすら頭を下げている集団が居た。
そんな街頭で募金活動をする人達の前で 沙世は足を速める。
どうせ、どこの団体だか解ったものではないわ・・・・。
沙世はそう思い足を速めたのだ。
丁度 昨日の事だった。テレビのニュース番組で報道されていた。
偽の慈善家たちが居て、組織だって街頭募金をして自分たちの懐に入れているらしい とキャスターが言っていた。
「極めて悪質な行為ですね。」などと顔をしかめて言っていたが
実際にこの人達は『正しい事実』を報道する事は出来てもその先にある本当の問題には触れられないのだ。
恵まれない人や敗者に情けをかけるなんて事をあまり真剣に考えてないのだろうな と ぼんやり思った。
いつも台詞が寒々しく無機質で、通り一遍に聞こえる。
沙世にはその報道が本当に正しいのか正しくないのか、それさえも解らない。
テレビの前ではいつも視聴者は『受け手』なのだ。
だがそこに在るあたかも真実の姿を映し出したようなリアリティを持っているような
一連の報道を通して、善意があるように見せかける悪意に気をつけようと
素直に思ったのも事実なのだ。
「私は誰かの私服を肥やすために自分が働いてきたお金を入れたくなんて無い。」
沙世はそう思い。声を張り上げながら頭を下げる人々の前を早足で歩いた。
「たかだかOLの私に出来ることなんか、何も無い。」
生活だって人にあげるだけの余裕があるわけでもないし。
お金を稼いでいる人達は、派手に遊んで贅沢をして楽しそうに生きているというのに。
私なんか華やかさが何も無い生活で、仕事をするだけの生活。
ずっと誰からも大事にされず。
振り向かれず、ただの社会の中の労働力の一部になってそこから抜け出せもせずに居る私って、何て惨めなんだろう。
そう思うといつも行く会社のビルが巨大な墓標に見える。
お金さえあったら・・・お金さえあったら!今よりもっとよくなれるのに!
実際お金さえあったら募金よりも自分だけの為に使いたい。それが、沙世の本音だ。
『もっと生活を楽しく、もっと豊かに!』
それが沙世の目下の目標であった。
テレビでも、ネットでも 皆一緒の事を言っている。
心が疲れた人や病人は病院へ、老人は介護施設へ
それ以外の健常でノーマルな人は
『もっとよりよくなりなさい!もっと楽しみなさい!もっと自分の為に使いましょう!あなたはこのままではいけません!』
チャンネルを変えれば、テレビはCMで溢れている。
ネットを見ても、誰かの為に何かをプレゼントしましょう!それはとても良いことです!
感謝の気持ちを届けるのは○○店にある××しかない!
などと・・・いかにもそれが真心のこもった『相手にとって良いものなのだ』という
刷り込み広告がたくさん並んでいる。そこには善意はどれだけ含まれてるのだろうか
と、詮ない事を沙世は時折考える。
いいものを買って、いい暮らしをして、それなりに恋愛などもして、あまったお金で誰かに自分がやらなければならない何かを負担してもらったり、楽をすることにしか この世では幸せにはなれないのだと思っていた。
この世の幸せはそういう事なのだと思っていたのだ。
だけど人に自分の仕事であったり、自分の責任を負担してもらうにはお金が要る。
高い給料を稼ぐにはそれなりの学歴や経歴が必要で、沙世は大学まで行っていたものの。
これといってやりたい事が見つかるわけでもなく。ただ惰性に身を任せて生きてきた。
どっちにしろ高い給料を得るためには枠があり、戦いに生き残っていかなければならなかった。
沙世はたいして何とも戦わず。流れに身を任せる。
そういう生き方であったので
高給取りにはなれなかった。
まぁしかしそれでもきちんとOLとして働いているし、
無遅刻無欠勤な彼女は会社でも頼りにされる存在だった。
それが不満だったわけでもないが、
給料が安く、思ったような生活が出来ない事が
沙世にとって「自分は思うままに生きられていない。」と思う1つの要素だった。
沙世は年を重ねていく内に解った事がある。
自分を頼りにして居る人は実はそういうポーズをしているだけで
面倒な仕事をなるべくしたくないだけなのではないのか? と思ったのだ。
要するに要領がよいだけで可愛いだのといわれ、売れていくそこら辺のOLが
沙世にとっては精神的なお荷物的な存在になっていた。
私の方が頑張っているのに。
彼女たちが何もせずにリスクも責任も負わず、おいしいところだけ持っていく事に・・・。
嫉妬みたいなものもないとは言えない。
「もう私も若くないからな・・・。」彼女たちの若さを見てそういうネガティブな思いを抱く事も少なくなかった。
しかしなんとか仕事に関してはうまく切り回していた。
自分の責任という範疇で言うならば仕事はそこそこ順調で、
責任を持たされることに自負心や誇りをが抱かないわけではなかった。
「これは、私が頑張ってきた証だから。」そう思いはするものの。
周りに仕事の出来なかった社員が結婚などをしだすと、
仕事仕事で・・・自分には何か女として足りないんじゃないかと急に漠然とした不安にとりつかれるのだ。
沙世には2年も付き合ってる彼氏が居た。容姿もそれなりに良く、人柄も良いと周囲に言われていたが。
実際のところ長く付き合うと沙世には彼がとてもじゃないけど「良い人」だとは思わなくなっていった。
だが、沙世自身の女であるという事へのコンプレックスから
彼氏が居ない自分というものは如何にも頼りなく思えて「別れる」という選択肢は色褪せてしまい。
つい惰性で年月だけが経って行く。そしてそんな付き合いに、『別れ』というものは突然訪れるのだ。
休みの日に店を歩いていると。
何だかやっぱり美しく購買意欲をそそる様に陳列されている商品に手が伸びた。
「プレゼントに如何ですか?」店員はにこやかに声をかける。
そうやってつい目に付いた店に入りウィンドウショッピングをしながら楽しむのが沙世の楽しみの1つで
「いつかこれを買おう。」と思う事が働く原動力の1つにもなっている。沙世のガソリンだ。
ウンドウショッピングをしてる時に見つけた気にいったものの中に財布があった。
彼氏の誕生日にその男物の財布を送ったが、贈った事よりも
彼は値段を聞き納得して嬉しそうな様子だった。
後になって沙世は思いだすはめになるのだが
その彼は別れる時も「別れたら、あげたもの返してっていう女が居るけど、財布は絶対返さないからな。」などと言っていた。それを思い出すたびに沙世は顔をしかめる程、不快な気持ちになった。
何てケチでお金に汚い男なんだろう・・・・。なんて下卑た男なんだろう。思い出すだけでも吐き気がする。
あんな人間に身体を開いた自分が許せなかった。自分の心を開こうと手間をかけたことも悔しく思えた。
どうやって育てられたら、あんな人間になるんだろう。
彼にとってはお金イコール人間の価値であり
彼のものさしは心を込めて手作りしたものなどゴミ同然で価値がなかった。
お金以外のことは目に入っていないのだ。
彼の実家は地元の名家で何不自由なく育ってきたはずなのに、何故かお金の事になるとしがみつく。
もしかしてお金だけが彼にとって希望や力を与えてくれるものだったのかもしれないと思うと、
沙世はまた彼の生い立ちに何かしらおかしな歪を感じるのだった。
公務員をして居る父親は「無口で少し怖い感じがする人だった。」・・・と彼は言っていた。
仕事が忙しく、会話もろくにない。
「大人の注目を浴びたくて、振り向かせようとして悪戯ばっかりしていた。」という彼の子供時代はなんて寂しいのだろう と 思った事もある。
彼の母親にしても、田舎のお嬢様だったらしく優しすぎて
彼が言うには父親と合わなくて精神的に駄目になり、自殺を試みた事があるらしい。
その度に止めた家族の大変さは並大抵ではないだろう。
しかし・・偶然に彼の仕事場で彼の母親とはち会わせた時は、
沙世には彼の母親はとてもそんな感じは見えなかったのだが。
彼は時々、自分を誇張するような言い草をするところがあるので
それも沙世にとっては不信感と疑心暗鬼になる素だった。
そしてその言い草も『人に振り向いて欲しい』『自分を認めて欲しい』という一心から出た嘘である事に
はっと気がつき、
何かどうしようもなくやるせない気持ちになるのだった。
何が本当で、何が虚飾なのか。
いつしか彼の話を聞いて考える癖が出来た。
彼の母親の心しんどさは沙世には解り得ないことではあったのだが、
彼の言う事が本当であったのなら彼も辛い思いをしたのだろう。
でもやっぱり、彼の根本的な苛立ちであったり、不安であったり、貪欲な金銭欲を生み出す素は
お金で物を買って満足したいというよりも、お金で得られる権力で他の人間を圧倒したかったのだろうと思った。
しかし きっとそれも上辺だけの理解でしか無くて。
彼の本当に心から欲しいものは両親から惜しみない愛情と、どんなだらしなく駄目な姿でも
受け容れているという両親の姿勢が欲しかったのかもしれない と 考えた。
そして彼は沙世にも そういうあり得ない無償の愛を求めるのだった。
しかし、どんな事をしても相手を許容するという事や、無償の愛を求める心は
形を変えたらただの我侭であり、自分にとって都合の良いものだけが欲しいと願う
子どもじみた考えだと沙世自身は思っていた。
私にだって、我を通すべき部分がある。
自分という人間を捨ててまで彼を愛せない・・・。時にそういう思いに悩まされた。
愛するという事は自分を投げ出す覚悟がいるが、相手が自分の愛と同じ大きさの愛を返してくれるとは限らない。
それは人間の恋というステージの中で
誰もが多かれ少なかれ悩む事では在ったが、沙世は彼に誠実さをあまり感じなかったから、
猜疑心がより強くなっていたのだ。この関係がいつか破綻するのは目に見えていた。
信じるというのは、何て難しいことなんだろう。たった言葉一つの事なのに。
彼のすぐ下に居る頭の出来の良い弟に注がれる
母親の期待と勉強に注ぐ労力、手間などの差も彼は日々強く感じていたらしく。
それも彼の劣等感を強くさせて居る素で
その劣等感こそが、お金にしがみつかせる素なのだろうと沙世は思っていた。
彼はそんな自分の歪みついて何も気にしては居ない。
そして自分がうまく自分の短所を隠しおおせて居ると思って居る。向き合おうとも思っていない。
誤魔化して道化師の様に取り繕ってばかりいる。
何故彼はこんなに何も考えずに生きていけるんだろう。
そう思うと実際に苛立ちに似た憤りを感じることがあった。
知れば知るほど、彼の人柄や魅力というものが強化され心に残るというわけではなく、逆に彼は『良い人の皮』をかぶっただけの人間だと沙世は思った。
そしてそのイメージは決して彼が周囲の人に見せている以上は『良く』はないのだ。
彼も現代社会のよりよい物質を求める1人なのだった。
そして沙世もまた、同じ様にその中の1人だった。
最初は求めるものの大きさが違う。ただそれだけだったはずなのに。
今では心が離れてしまっている。
彼は女を求める事もどうやって気に入ってもらうか、
どうやったら自分をよく見てもらえるかという事に心血を注いでいた。
男と女が付き合うという過程で 自分の人間性の一端が見られているとは、思ってはいないのだ。
表面だけ美しければ それでよい と。
要するに彼にとっては女を得るのは狩猟であり、ゲームであった。
彼は「それは男の本能だ。」とも豪語していた。
そして上手い具合に女が自分の手に落ちたら自分のもの。
そういう意識があるらしく、どんどん態度が横柄になっていった。
その事も沙世を苛立たせていた。
結局付き合って2年後に彼は高学歴のお金持ちで見栄えが良さそうな女性を口説き落としたらしく。
沙世は敢え無くお役ごめんになったというわけで、あっけなく別れは来た。
とても簡単な話。
彼は沙世より『自分にとって良い物件』を・・・『自分をより良く見せるための女の存在』を求めていたのだ。
その『優良物件の女』自身は彼に『彼女が居る』という事に興味を抱き、
取り合えずはゲーム感覚で彼の存在を求めているだけだった。
その女も「自分は他の女より良い女だ。」という自分の存在証明、価値をはかるの為に
沙世と彼を傷つけたのだ。
結局彼の好きな相手とその彼女
2人は付き合うというところまでいかず、彼は彼女に入れ込んで、しかし上手くいかず捨てられたらしい。
彼は思いつめて沙世に電話をしてきた。
「お前には悪い事をしたと思ってるんだ。もう嫌な思いはさせないから・・・」
それが沙世をより一層苛立たせた。自分の価値というものを二度までも踏みにじられたと感じる出来事だった。
「人間って結局自分の為にしか生きられないのね。私はあなたの顔も正直言って見たくないから。」
そう彼に言うと電話を切った。酷い仕打ちだっただろうか。いや、自業自得なのよ。
そう割り切ってみたものの。
何か迷子の子どもを見放す様な釈然としない気持ちが心に残っていた。
こんな気持ちを抱くのは沙世だけかもしれない。彼はきっとその内、またあの調子で女を釣るんだわ。そう思うとメラメラ怒りが湧いてくる。
しかし気がついたら電話を持ったまま、さめざめと泣いていた。
なんで涙なんか出るんだろう・・・なんで彼の携帯のメモリーを消せないんだろう。
彼とずっと一緒に居ても将来の事なんて考えられただろうか・・・・いや、考えられない。
だって私はどうしようもない彼の欠点を見て解ってしまった。
それは沙世にとって良くない部分であった。
沙世の目は鋭さがあったので
お互いの魅力に惹かれ魔法にかかったように恋愛して、結婚をしていく夫婦よりも、
付き合った段階で早く気がついてしまったのだ。
ある意味では幸運だが、ある意味ではそれは不幸な事だった。
魔力が効いていたらずるずると別れられなかったかもしれない。
客観的に相手を見るのは重要だし、欠かせない部分ではあるが、
自分が傷つかないようにそれをしているのであれば。
きっとこの先、一生恋をすることは出来ないだろう 沙世は自分でもそう思い。鬱々としていた。
なんで彼はこうなんだろう なんで自分はこうなんだろう
彼に対する問いは
それはまた、沙世に自分に対する問いを投げかける事になる。
なんで私は色んな事を我慢して1人ぼっちでこんなにも頼りないのに、
どす黒く欲望にまみれた彼や、職場の同僚たちは あんなにも自分の好きなものを手にして居るんだろう・・・。
そう思うと惨めな気持ちになって、またさめざめと泣いた。
沙世は日々自分を埋めるものを探していた。
たまにケーキなどを買ったりするが、何度も買っているうちに太ってくるし
、同じものにも飽きが来て、また更においしいものが欲しくなる。
そういう事にも終わりが無い様な気がして。うんざりした。次第にもので埋めようとはしなくなった。
沙世にとって他には仕事と買い物しか生き甲斐は無く。
お金を得るという事は日々沙世の一部を形作っていた事ではあったし、
自立した生活を送るためにも、欠かせない部分ではあった。
休日空いてる時間はあったのだが、
しかしこれ以上に彼の様にお金というものに執着する自分の生々しい姿を見たくは無かった。
『自分は欲望にまみれていない』『自分は汚い人間ではない』沙世はそう思って居たかったのだ。
年老いた沙世の母親が丁度ボランティアをしていたので、沙世も一緒に参加する事にした。
積極的に何かに飛び込む気力が未だあまり湧かなかったが、母親と一緒ならば大丈夫な気がしたのだ。
家に帰ると暗い部屋で電気もついていない。誰も居ない。
ただ1人分の料理を作るという生活から、
大勢の中に混じりわいわい過ごすその雰囲気が家庭的でどうしようもなく温かく感じ。
ずっとここに居たい そう思う事もある位なのだった。
実際に仕事もボランティアも大変だったが、
人の役に立って居ると思うことが沙世を誇らしい気持ちにさせていた。
ボランティアをしている人の中にアンジーという外国人が居た。
アンジーは内戦が絶えない国で育ったらしい。
外国人という事を差し引いても同世代の人間と比べると陰りがあってミステリアスだった。
今は明るくて幸せそうな人喋れない思いがする沙世は
アンジーのそんな部分に惹かれて思い切って話しかけてみた。
アンジーは日本で夫と住んでもう15年になるらしく。
日本語が達者だった。
彼女は気さくで朗らかだったので、2人はすぐに打ち解けた。
アンジーは誠実な女性で、気まぐれなところがあまり無かった。それは沙世を安心させた。
惰性に任せるという言い方ではボランティアをする労力に対して報われない言い方ではあるが、
その場、その時間、その雰囲気を作業しながらも、誰かを助けながらも過ぎゆく時間のままにただ身を任せられると言う事に幸せを感じていた。
過ごせる大勢の人が温かい雰囲気を持って集まるという事にしろ、ボランティアをした相手が笑顔を見せてくれるという事にしろ。満たされる思いがしたのだ。
それが沙世にとっては今までの中で味わった事が無い事だった。
自分はこんなにも他者の存在を求めていたんだ・・・・
沙世は一時期1人でも強く生きていってやろうか!と思おうとして、思えなくて。どうしようもなくて。
肩肘を張っていた自分を思い出し、可笑しくなってしまった。
何度か顔を合わすうちにアンジーとは打ち解けるようになった。
「アンジーはすごいね。」沙世は言った。
「どうして?」たいして驚いてる様子も無くアンジーは静かに横に首を傾ける。
「遠い国から来て、好きな人と一緒に暮らして・・・」
「えぇ 毎日、幸せですよ。」アンジーは静かに微笑んだ。
「日本に来る時、不安にはならなかったの?」
「信じていましたから。彼をね。」
「信じる・・・か。難しいよね。」
「どうしてむずかしい?私、自分が信じたいから、信じるんです。」
「喧嘩とか・・・・する?」
「しますよ。私だって意志を伝えなければいけないことありますから。言わなきゃ伝わらない。
前はね、彼がみそスープの味が薄いというので喧嘩になりました。いかにも、国際結婚の夫婦にありがちでしょ?」
「あははは!本当に・・・そうだね。いかにも、ありそう。」
「そうそうそんな喧嘩なら、ショッチュウあります。」
「あのね。相手を心底嫌になった事は無いの?」
「ははははそれも、ショッチュウですよ。でも私は信じたいから信じるし、せっかく一緒になった人だから、自分が可愛いさだけに別れたくないからね。結局、許します。」
「許せるってすごいよね。」
「そうですか?だって自分も完璧じゃない。許しあって生きてるから。相手の立場に立って物を考える事、歩み寄る事は。とても大切。」
「そうだね。私は許せない人が居るの。」
「許せない。ですか・・・どうして?」
沙世は彼との今までのいきさつを全て話した。アンジーはただじーっと話に聞き入って居た。
沙世が話し終わると。
「それは大変でしたね。沙世は傷つきましたね。」と言った。
「彼と彼女がどうというより、傷ついた沙世の心が癒える事が大切ですよ。癒えたら、また 彼のことも違って見えてきますから。」
「それが許すって事?」
「いいえ、許すって言うのはもっと深い思いです。相手の嫌なところも、自分の嫌なところも含めて全てそれでも良いと思える。それが許すという事なんですよ。」
「私には無理だ・・・。」
「私も、そう思っていました。シュジンと会うまでは。彼も私のダメな部分を理解してくれて許してくれるから。今は少しだけ解ります。」目を細めて言う。
「味噌汁で怒られても許せるの?」
「えぇ、そうです。許す過程ってあるでしょう?それを初めから手放したらいけませんよ。感情をそのままぶつけ合うのは違うと思いますけど。我慢して言いたい事を言わないのが許しにはなりません。
お互いの思いや考えを理解する事が、許す事に繋がるんだと思います。
まず、自分を受け容れ、許す事です。欲望を持った我侭な自分自身の嫌な部分も許すんです、そして相手の事もね。」
「何でも受け容れる事と、許す、愛するっていう事は一緒なのかな?」
「難しいですね。」
「アンジーは何でも受け容れられる?」
「まさか。私はそんな強い人間じゃありませんよ。嫌な事を言われたら怒ります。腹も立ちます。」
「そうだよね。自分の意思表示をする事は自分のルールや思い考えを相手に伝えるという事なんだろうね。」
「そうですね。最低限のラインで人間として他人が何を言われて怒るか、何を言われたら嫌かはわかりますけど・・・自分とはあまり縁が無い他人の事は解りません、何でその人の心に傷がついたのかという事はすぐには解りませんよね。生まれてからその人がしてきた経験もありますし。人生そのものを否定しているわけじゃないという事が解ってもらえばそれで良いんですけどね。
自分の好きな相手に自分の意思表示をするという事はね。
自分の世界と相手の世界を尊重するという事だと思うんです。なるべくお互いが気持ちよく過ごせるように。
相手に愛情があれば、わざと傷つけるような事はしないでしょう?
少なくても少し位は気遣おうとする筈でしょうし、万が一お互いの意思疎通が不十分でそういう事が相手に解らなくて不用意に傷つけられたと感じることがあっても、決して相手のせいではないんですよ。まず、伝える事です。」
「彼の傷は彼の傷だし。私の傷は私にしか解らないよね・・・。」
「そうですね。でも人間はそういう小さな傷があるから、また他の人間に寄り添おうとするものじゃないですか?」
「うん。」
「弱い人間同士だから、許しあうって必要なんですよ。そういう経験は人を強くします。」
アンジーは笑顔で言った。
彼に裏切られて、別れて涙して
自分は彼みたいな人間ではないという反発心から、
母を少し頼ってボランティアをしたことも。
そこでアンジーとであった事も。
ネガティブな思いから始まった事だった。
でも ここで母と再び会話をし、他の人とにこやかに食卓を囲む事で、
少しずつ何か安らかな気持ちになれた気がしていた。
アンジーの言うとおりだった。
沙世は傷が癒されていくという段階を踏む事で、人と人との関わり合いの大切さが身に染みて解った。
それはまた沙世に人と誠実に向き合う大切さ、人を大事にするという事をの必要性を考えさせた。
誰かの為に何かをしてあげるんじゃない。自分の為に必要だから、やってるんだ。
私は自分が女として自信が無くて、焦っていたから・・・
私がちゃんと自分で選ばなかったから彼みたいな人に引惹かれたんだろう。
私は私を愛する人に張ってもらいたかったんだ。
彼という存在を求めたのはまた、沙世自身の寂しさであり弱さだった。
沙世は携帯電話を見つめ彼のメモリーを消した。迷いは無かった。
「さようなら。」最後に言ったのは 過去の自分へ。
アンジーはそんな沙世の姿を見て思っていた。
過去の自分を消去して新たに出直しても、過去はそう簡単にはなくならない。
傷を負ったことというのは、自分が生きてきたというはっきりとした『証』なのだ。
起こった事をリセットして忘れるのではなく。
過去にそういう事もあったと 振り返って思い出の中で思える日が来たらいい。
『時間』という薬がそうさせてくれるに違いない。
自分自身がまた、そうであったように。