私にブロマイド(スターピクチャー)をくださったかたの
お気に入りがこのヘディ・ラマー(ラマール)だった。
以下の
http://mamdarin.blog87.fc2.com/blog-entry-126.html
にも多くのイメージがある。
ものの解説では、大輪の花と期待されながら五分咲きに
終わる悲運と評されているものがある。
この人は銀幕以外のエピソードにも富んでいて、たしかに
興味深い人である。
ヨーロッパ的なデカダンな雰囲気がアメリカには高級
すぎて合わなかったのだろうか?という勝手な憶測。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
1934年に始まり、1968年に終わる。
「世界についての表象」を良くも悪くも、34-5年支配した。
加藤幹郎さんの『映画・視線のポリティクス』(筑摩書房・1996年)の
巻尾に、日本語訳が所収されている。
映画における、エログロ(ポルノ映画と恐怖映画)はこの
ヘイズコードの終了時に、再開される。
ただやや、短絡的な志向がそこにあらわれる。
エログロを直接的に被写体におさめるという。
そこにおいて、表象の洗練さが失われた感はいなめない。
(ドラッグや他のトランスをもたらす手段を介した)純粋な
自閉的享楽への欲動は、一つの政治的瞬間に生まれ出る。
一九六八年の解放的筋書きがその潜在力を枯渇させたときが、
それである。この決定的な時点(七〇年中葉期)で残された唯一の
選択肢は、<現実的なこと-に向かう-衝動>であり、それは直接的で
野蛮な行為への道だった。それは三つの主要な形態を採って
顕れた。第一のそれは性的享楽の極端な形式の探求である。
二つめは、大衆が資本主義のイデオロギー嗜眠に完全に漬り
切っている時代ではイデオロギーの標準的批判はもはや役立たず、
したがって直接的暴力の生々しい<現実的なもの>に靠(もた)れる
こと(直接行動)だけが大衆を覚醒させるための突破口であると
考えた左翼の政治的テロリズム―「ドイツ赤軍RAF」やイタリアの
「赤い旅団」など―である。そして最後の形態が、内的経験の<現実的
なこと>という方向性の追求である(東洋的神秘主義)。これらの
三形態が等しく分け持っていることは、具体的な社会政治的関与から
退出し、<現実的なこと>との直接的な触れ合い(contact)に引き籠もる
という姿勢である。
S.Zizek(長原豊他訳)「バートルビー」。『ロベスピエール/毛沢東』
=河出文庫。.215)
「1968年」の残骸としての、ポルノ表現運動。
大島渚やアンゲロプロス(『蜂の旅人』)などにそれがある。
そもそも、若松孝二にあるのだろうか、未見ゆえに知らず。
例えばハリウッド映画は女優の歴史というより女の
歴史だと思っていて、これは一度書きたいと思っている
わけですけれど、その書き方がわからないんです。
バルトが、フローベールについて語るとき、自分には
方法がないということを盛んに言っていました。僕にも
方法がないんですよね。その方法のなさというのが女性の
すばらしさで、僕は快くそれをうけいれます。それについて
語るべき、あるいは分析すべき方法のなさというのが
いわゆる女性的なるものの最初であり最後でもあるという
ことです。
蓮實重彦インタヴュー(聞き手金井美恵子)、1992年4/13
(『國文學』1992年7月号)。
もうひとつ、私には解読できていない発言だが。





