1月からエドガーケイシー先生の『神の探求』を読んでいます。
■エドガー・ケイシー について
どっぷり浸かる、浸かりたかったのですが、
西洋的・キリスト教的な文言に
いちいちひっかかったり、抵抗が出てきて…
なかなかすんなりとは入り込めずにいました。
思えばこれと同じことは過去にも起こりました。
昨年2022年という年は、これまでやってきた日本の神道的な意識と学び方から、仏教的な意識と学び方を積極的に取り入れ出した年でした。
その時もやっぱり、ひっかかり、抵抗が出てきたものでしたが、だんだん慣れていきました。
(仏教はあまりにも!懇切丁寧すぎるんデス(笑))
ただやっぱり、東洋的な意識・エネルギーと、西洋的な意識・エネルギー、というのはけっこう、かなり、全然違う。
私はキリスト教の教育の下地が一切ありませんので、免疫もほぼなし。
聖書を読まんとダメだなあ。(漫画とかすごく平易なのしか読んだことがない。)
古事記や祝詞、仏典やお経は、読みたいと思うものを読み、奏上し、読誦しているので、こういう姿勢もまたエネルギーの馴染みが違ってくるでしょう。
これから『宗教』というものはなくなるのでしょうが、どこからどのように観るか、によってこんなにも異なるものなのかーー、、、
こんな感じで、
2023年は、エドガーケイシー先生と《キリスト意識》に思いを馳せているところです。
今日はふと思い立って、『神の探求』を再度、最初から読み返してみたのですが、
これが不思議なもんで、以前ほどの抵抗はなく、その文脈やエネルギーの意味するところもスルッと入ってくるようになってきました。
翻訳された光田秀(みつだしげる)さんもあとがきで仰っていますが、この本は一度や二度読んだくらいでは何の益にもなりません。
書いてあることを頭で理解するための本ではなく、
繰り返し実践することで、魂が愛の意識を甦らせる本(内容、エネルギー)なのです。
実践を伴わなければとても《キリスト意識》を自己の内に感応することはかなわないでしょう。
自らの
用意
準備
がととのい、心を開いたところから、ちゃーんと入ってくるように、、、入り込めるように、、、なっているのだと思います。
何度も、読む。