

近衛 文麿(このえ ふみまろ、正体字:近󠄁衞 文󠄁麿󠄁、1891年〈明治24年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は公爵。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長(第18代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(第17代)、司法大臣(第43代)、国務大臣、麝香間祗候、大政翼賛会総裁(初代)、東亜同文書院院長(第5代)、日本放送協会総裁(第2代)[3]などを歴任した。
概要
五摂家の近衞家の第30代当主。
後陽成天皇の12世孫に当たる。
祖父は明治新政府で神祇事務総督、議定、刑法事務局督、神祇官知事、神祇大副を歴任した近衛忠房。
父の近衞篤麿は第7代学習院院長や第3代貴族院議長を務める傍らアジア主義の盟主であり、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行うも、文麿が成人する前に病没した。
父の没後に近衞家の家督として公爵を襲爵、のちに貴族院議員、東亜同文会会長となる。
当初は研究会に所属するが火曜会を結成し、貴族院副議長、貴族院議長などの要職を歴任した。
3度にわたり内閣総理大臣に任命され、第1次近衞内閣、第2次近衞内閣、第3次近衞内閣を組織した。
その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。
また、平沼内閣では、班列として入閣した。
第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明、近衛声明や東亜新秩序などで対応、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。
また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職した。
その後も国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げて日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。
太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。
また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。
太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。
大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。
指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、大山柏は妹婿、徳川家正は従兄にあたる。
また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務めた近衞忠煇、島津家第32代当主・島津修久は外孫に当たる。
生い立ち
1891年(明治24年)10月12日、公爵・近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵・前田慶寧の五女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。
命名は長命であった曾祖父忠煕に依り、読みは「あやまろ」では語呂が悪いため「ふみまろ」とされた。
皇別摂家の家系で後陽成天皇の男系子孫にあたる。
母の衍子は加賀前田家の出身で、文麿が幼い頃に病没、父の篤麿は衍子の異母妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。
貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。
文麿は成人するまで貞を実母と思い、事実を知った衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」。
このことが文麿の人格形成に与えた影響は大きかった。
1904年(明治37年)に父の篤麿は41歳で死去、文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。
文麿の、どことなく陰がある反抗的な気質はこの頃に形成された、と後に本人が述懐している。
泰明尋常小学校を経て学習院中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる木戸幸一や原田熊雄などがいる。
1909年(明治42年)、第一高等学校入学。当時華族の子弟は学習院高等科への進学が通例だったが、一高校長であった新渡戸稲造に感化され同校を選択した。同級生には菊池寛や、後に近衛内閣のブレーンとなる後藤隆之助や山本有三などがいる。1912年に卒業。
続いて哲学者を志し東京帝国大学文科大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学した。
河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。
ジョン・スパルゴー(英語版)の『カール・マルクスの生涯』とトリノ大学教授ロリア(Achille Loria)の『コンテンポラリー・ソーシャル・プロブレムズ』[注釈 2]の2著をもらっている。
京都では木戸幸一、原田熊雄、織田信恒、赤松小寅などと友人になった。
大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。
下鴨で一年間を過ごしたのち、毛利高範の次女・千代子と結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。
首相を辞職した西園寺公望が1913年(大正2年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。
近衛家と西園寺家は共に堂上家であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。
60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしている。
在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発禁処分となった。
近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する。