今日の歴史の一幕
1853年6月3日ペリー米東インド艦隊指令長官が、大統領の親書を携え軍艦(黒船)4隻で浦賀に来航しました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も眠れず」
「上喜撰」とは宇治の高級茶のことで、この歌は高級茶を4杯飲んで眠れなくなったということと、浦和に現れた蒸気船、黒船をかけてます。
つまり、たった4隻の船がやってきただけで慌てふためいている幕府を皮肉ったもので、今ほど自由に意見が言えない時代にあって、ユーモアたっぷりに幕府を批判した狂歌です。
因みに昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていたアメリカ国旗がマッカーサーの命令で本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われました。
ペリーの計画
・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
・オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
それ以前のアメリカ人の来航記録
・1791年冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。
・1797年オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年までに13回の来航が記録されている。
・1837年アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に来航。1808年の長崎でのイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。
・1849年東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に来航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。