いつ頃からだろうか。日本で死因に「老衰」が使われなくなったのは。
最近の医療現場では「老衰」を死因にすると、遺族から「なぜもっと手を打たなかったのか?」と非難されたり医療訴訟を起こされるケースもあるので「心不全」とか病名をわざわざつけるのだとか。
死ぬんだから最後は心臓機能が不全になって止まってあたりまえだけども、そもそも心不全は予定外に突然死した時に使うべき病名ではないのか?
先日亡くなった小澤征爾さんも88歳で「心不全」。
突然死だったのか?違う気がする。
今の時代、老いて衰えるという字面も嫌われるらしい。
老いて衰えることは悪いことだと捉え、アンチエイジングなどに取り組むことが善だとする。なんだか、最近流行りのそういう価値観は浅ましい気がする。
そのくせ「死ぬ時は眠るように穏やかに旅立ちたい」などと言う。
それを老衰と言うんじゃなかったのか。
大往生と呼ばれる見事で羨ましい死に方をする人を何人もみてきた。
その旅立ちは、本当に木が枯れていき、最後に静かに葉を落とすかのような亡くなり方だった。
実に穏やかで平和な旅立ちだと思ったが、それを人に言うと「それはそういう人たちは幸運だっただけで、実際はなかなかそうはいかない」と笑われる。本当にそうだろうか。ワシは違うと思う。
ワシの周りの羨ましいほど穏やかな旅立ちをした人たちには、共通項がある。彼らは自分の死に方をちゃんと決めていて、それを守ったのだ。
死ぬ場所は自宅。延命措置は家族がどれだけ泣いて懇願しようと一切しない。例えばそんな事を決めていて、元気な頃から繰り返し繰り返し家族や周囲の人に言い伝えてきた人が多い。
ただそうしたいという要望を遺言するのではなく、何故そうしたいのか、自分はどんな死生観を持っているのか、をちゃんと伝えて来た人達だった。それは決してその人が「幸運だった」などという話ではなく、覚悟の境地の結果だったのだ。
そういう人の最期を看取ったご家族は、悲しさや寂しさの中にも明るさというか、一種の安堵感のようなものを抱いておられた気がする。
老いることや衰えることは、悪ではない。
忌避すべきことでもない。
そういう感覚を失って「老衰」を死因に使えなくなった日本の社会。
ずいぶん幼稚な人間が増えたんだなと思う。
ワシは老衰で死ねたなら、その間際にガッツポーズ決めてから逝きたい。