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日本最多の地下壕数が暗示する松利権の拠点としての薩摩の地
2020年11月09日 23:58






日本全国の地下壕の総数をネットで調べていくと《危険な地下壕、全国487カ所 陥没で死者・家屋被害も》の朝日新聞の記事がありました。戦時中、防空用に造られた地下壕が全国の市街地に9850カ所あり、崩落などの危険があるものは487カ所にのぼります。

 

道路が陥没して通行人が死亡する事故も起きているといいます。最新の2017年度(平成29年度)国交省の調査結果の《平成29年度特殊地下壕実態調査結果について》によると、地下壕数は、日本全国で7960箇所となっています。

 

地下壕が多い都道府県には、鹿児島県(1700)、広島県(801)、宮崎県(675)、大分県(625)、長崎県(554)、熊本県(464)、神奈川県(461)、千葉県(364)、山口県(281)、静岡県(250)があります。地下壕数は、鹿児島県が最も多く、九州地方に多いことが分かります。

 

どうして鹿児島を中心に九州地方に地下壕が多いのか、です。全ての地下壕が松利権の闇に関係しているとは言えませんが、地下壕が多い場所程、松利権の闇と深い関係があると思われます。これまでのワークでは、鹿児島県の薩摩藩は「裏インドの役割」と分かっています。

 

「薩の海軍、長の陸軍」と言われるように、薩摩は海軍の中心でした。歴史的にも、中国や朝鮮半島からの渡来人が来たのは九州です。また、日本にはじめたキリスト教が伝来した地は薩摩の地であり、必然的に、松果体摂取の闇と関係が深くなったと感じます。

 

逆に言えば、古くから薩摩藩は、松利権を有していて大金を得ていたと言えます。それ故に、戦時中も薩摩の地で、松利権の行使が行われていた可能性があります。薩摩藩の藩主・島津氏の家紋が「丸十」という「純粋な闇を封じるエゴの闇」の役割だったことにつながります。




ここから追記下矢印下矢印 

 

 

 

 

 

 

  • 「島津」の姓と"丸に十の字"の社章の由来


    "丸に十の字"の社章は、島津源蔵が、島津家の家紋を商標として定めたことに由来します。島津源蔵の祖先は井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州(兵庫県南西部)に住んでいました。

    薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は領地の検分などに尽力し、その誠意に対する感謝の印として、義弘公から"島津の姓"と"丸に十の字(くつわ)の家紋"を贈られたと伝えられています。



    初代島津源蔵
    初代島津源蔵



    この家紋が社章としていつから使用され始めたのか正式な記録は残っていませんが、明治27年(1894年)頃の木屋町本店の外観写真には丸に十字と島津製作所の社名文字が見えます。



    島津製作所木屋町本店
    島津製作所木屋町本店
    当時の木屋町本店 丸に十字のマークが見える




     
    島津製作所の現在の社章と図形の寸法比率


     現在の社章が商標として登録されたのは大正元年(1912年)で、当社が株式会社となる大正6年(1917年)よりも前です。

    商標登録の際に図形寸法比率の正確な基準値が定められ、丸の実線の太さは外円の直径の1/8、十字の実線の太さはその1割増しと決められました。この数値は、外円の大きさと円周の太さの均衡と、円周の十字の太さに対する人間の目の錯覚を補正して、均整の取れた美しさを感じさせる科学的な数値を精密に計算したもので、今もこの寸法比率が用いられます。




    島津製作所のブランドシンボル 丸の実線や十字の実線は太さが緻密に計算されている



     
    明治から続く歴史


    「苗字の日」については、明治3年(1870年)のこの日に「平民苗字許可令」が公布されたことに由来します。これを機に、一般の平民も公式に苗字を使用できるようになったそうです。

    明治8年(1875年)2月13日には「苗字必称義務令」が公布されたため、毎年2月13日は「苗字制定記念日」とされています。

    そして、明治8年の3月31日は当社が創業した日です。仏具職人だった島津源蔵が、日本の進むべき道は科学立国であるとの理想に燃え、教育用理化学器械の製造を始めました。

    2020年9月7日に出版された島津源蔵親子の伝記「仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝」(朝日新聞出版、著者:鵜飼秀徳氏)では、こうした創業からの歩みもご覧いただけます。

    苗字を名乗ることの義務化と創業が同じ年ということで、歴史の長さを改めて感じます。


    2020年制作 島津製作所創業145周年の歴史

     

     

     

    2020年3月31日 島津製作所創業145周年

    株式会社島津製作所

 


 

 

 

 

 

 

 

  • 「私は悪くない。悪くない。松取りをさせられた。沖縄に暮らしていた。遺体から取った。人間として松取りをしていた。戦争。女性の救命看護師だった。医者の命令だった。遺体から腎臓と内臓を取った。それを医者が食べる。それを見ていた。食べようと思わない。医者にやめてくれと言った。逃げようとしたら殺された。」

    ヒプノセラピーの中で、クライアントの紗栄子さんの電話の音声が途切れ途切れになりました。まだ、誰か光に還りたい存在がいると感じました。音声が途切れているが働きかけている存在は誰なのかを問うと「一緒に仕事をしていた」と答えてきました。八咫烏の下でさらう仕事などをしていたのかを質問すると「こき使われた。シリウスと八咫烏に」と言いました。



    あれやれ、これやれと命令されていたのかを聞くと「言われた」と返ってきました。途中で従うのをやめることは出来なかったのかを尋ねると「出来ない。力の差がありすぎる。暴力で苦しめられる」と伝えてきました。シリウスや八咫烏に従っていた存在は誰なのかを問うと「精霊なんだろう」と答えてきました。精霊が闇にされて闇の使いにされていたようです。闇にされた精霊は沢山いるのかを聞きました。

    「いる。大変だった。シリウスを還していない」と言いました。精霊を闇にして使っていたシリウスの存在を先に光に還す必要がありました。紗栄子さんの中にシリウスの人はいるのかを尋ねると「絶対に還らない」と伝えてきました。シリウスの存在は、最初の問いから光に還ることを強く拒否していました。もう地球は闇を終えて元の光に戻る時が来ていて、闇の仕事をしていた宇宙人たちが皆還っていることを話しました。

    再度、光に還ることで良いかを問うと「還らない。絶対還らない。優しく言われても還らない・・」と訴えて、光に還ることを拒否しました。ヒプノセラピーで、これ以上、説得しても無駄だと感じて、やむを得ずに強制的に還るよう光を降ろしました。「一心同体だった。八咫烏と私と一心同体だった」と紗栄子さんが伝えてきました。最後に残る闇は大きくて粘着質の最強の闇のエネルギー体になります。

    逆に、そうでなければ最後の砦の闇の仕事はできないのです。闇にされて使役されていた精霊が光に還るよう光を降ろすと「光に還って行った」と言いました。歩くと激しいめまいがしていた紗栄子さんに今の体調を聞くと「少しめまいがするけれど歩ける」と伝えてきました。「でも何かまだいる感じがする」と付け加えました。光に還りたい人は、誰なのかを質問すると「私は悪くない」と返ってきました。

    「私は悪くない。悪くない」と続けました。悪くないと言っている人は誰なのかを聞くと「松取りをさせられた。沖縄に暮らしていた。遺体から取った」と言いました。遺体からの松取り(松果体収穫)は人間としてやっていたのかを尋ねると「人間として」と伝えてきました。いつ頃の時代なのかを問うと「戦争。救命看護師だった。医者の命令」と答えてきました。遺体のどの部位を採取したのかを質問しました。

    「腎臓と内臓を取った」と言いました。ヒプノセラピーの中で、遺体から取った腎臓と内臓は、どうするのかを質問すると「医者が食べるんだよ」と返ってきました。あなたは、食べていなかったのかを聞くと「それを見ていた。食べようと思わない」と言いました。遺体から松取りして医者が食べるのを見ていて、どんな気持ちだったのかを尋ねると「ぞーっとしてやめようとしてもやめられない」と伝えてきました。

    医者に遺体から取った腎臓や内臓を食べるのをやめるように言ったのかを問うと「やめてくれと言った。逃げようとしたら殺された」と答えてきました。何歳の時だったのかを質問すると「24歳」と返ってきました。女性の看護師だったのかを聞くと「女性」と言いました。それは紗栄子さんの過去世なのかを尋ねると「過去世」と伝えてきました。今も遺体からの松取りは行われているのかを問いました。

    「病院でね」と返ってきました。ヒプノセラピーの中で、紗栄子さんの過去世が光に還るよう光を降ろすと「苦しい、辛いと思っていた。ナイチンゲールに憧れていた」と伝えてきました。遺体からの松取りの過去世は、沖縄戦の時のことですが、現在も病院では、裏で遺体からの松取りが行われています。戦争と医療は一体です。西洋医療は、軍隊の救護班から生まれました。それは裏の松取りが目的だったのです。

    《遠藤大介のFacebookから繋がった松利権が絡む産廃業者であり産業用繊維資材メーカーの「ピラミッド」》にありますが、病院でメスを入れた解剖の遺体は法的な規制がなく、今は、産業廃棄物として取り扱われています。また、日本の火葬率はほぼ100%で中国や韓国に比べても圧倒的に高いです。火葬は遺体の証拠隠滅です。これは、医療・火葬を含む支配層の金儲けの松システムが日本で構築されていることを示唆しています。(つづく)

 

 

 

 

 

  • 北海道のタルタリアを隠した石狩など5つの缶詰工場
    「缶詰の源流は多く戦争を行ったナポレオン。松取りを行い保存・運搬できる松製品の缶詰となった。日本最初の缶詰工場は北海道石狩市につくられた。苫小牧市、別海町、厚岸町、択捉島に缶詰工場が置かれた。裏で松取りして人肉缶詰を製造したと推測する。自然の光である地底のシリウスの光というタルタリアを封じる役割だった。」

    札幌市東区の苗穂にあるサッポロビール園を含めたサッポロビールに関するワークは、《渋沢栄一が設立に関係したサッポロビールの担うタルタリアという地底の光を隠す闇の役割》に書いています。過去のヒプノセラピーから渋沢栄一は松システムの中核と分かっています。エネルギーワークから札幌市東区全体に光の地底があることが伝えられました。

    ヒプノセラピー スピリチュアルライフ 自然 光

    メム(湧水)がある苗穂の地は、地底の光を封じるために松取り(松果体収穫)の闇が置かれたのです。また、サッポロビールの経営層に光を降ろすと「タルタリアを隠す役割」と伝えられました。タルタリアとは、自然のエネルギーを活用して文明国家であり、地底のシリウスの光のライン網を意味します。サッポロビールは、タルタリアという地底の光のネットワークを封印して隠す役割をになったいたのです。

    1876年(明治9年)9月に札幌に開拓使麦酒醸造所が設立され、1887年(明治20年)に札幌麦酒株式会社となったサッポロビールは、設立当時からの松利権を支配してきたとも言えます。旧陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)の缶詰工場で密かに人肉缶詰が製造してきたと推測しましたが、その裏づけを探すために「缶詰の歴史」を調べました。ウィキペディアに缶詰の歴史が次のように書かれています。

    『遠征における食料補給の問題に悩まされていたナポレオン・ボナパルトによる懸賞に応え、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能な瓶詰めが発明されたが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点があった。 ビン詰めの欠点を改善するため、1810年にイギリスのピーター・デュランド(Peter Durand)が、金属製容器(ブリキ缶)に食品を入れる「缶詰」を発明した』。

    缶詰の発明のきっかけは、フランスの皇帝「ナポレオン・ボナパルト」でした。ナポレオンは、フランス革命後の混乱を収拾し、様々な戦いを経て軍事独裁政権を樹立しました。幾つかのヒプノセラピーで戦争が松取りであると分かっています。多くの戦争を行って来たナポレオンの裏の目的は、支配層の松取りでした。支配層の金儲けのために、保存できて売買できる松製品をつくるために缶詰が生み出されたと見ています。

    また、『1812年には、ブライアン・ドンキン(Bryan Donkin)とジョン・ホール(John Hall)がデュランドの特許を基にイギリスに世界初の缶詰工場を建設、翌1813年から陸海軍に納入を開始した』とwikiにあります。英国も軍隊の食糧という表の名目で裏の人肉缶詰をつくっていたと見ています。日本の缶詰の歴史については、長崎県が日本最初の缶詰製造の場所となったことがwikiに記されています。

    『日本での初めての製造は、明治4年(1871年)に長崎県で、松田雅典(まつだ・がてん)によってフランス人レオン・デュリー(Leon Dury)の指導の下、イワシ油漬の缶詰の試作が行なわれたとされている(この段階では缶詰という言葉は存在していない)。本格的な生産が始まったのは1877年(明治10年)10月10日、北海道石狩市で石狩缶詰所が創業したことによる』。日本最初の缶詰工場が出来たのは北海道石狩市だったのです。

    1876年(明治9年)9月に札幌苗穂に開拓使麦酒醸造所が設立され、1877年(明治10年)10月に北海道石狩市で石狩缶詰所が創業したのです。開拓使麦酒醸造所と石狩缶詰所は連動していると見ています。缶詰の材料になる遺体などを運ぶために、事前に水運としての人工河川の創成川がつくられました。大友亀太郎、寺尾秀次郎、吉田茂八が開削した大友堀・寺尾堀・吉田堀によって「創成川(1870年)」が出来たのです。

    《現在の人工河川・創成川の起源となる大友堀の隠された闇で封印された龍のエネルギーの「伏籠川」》にありますが、人工河川の創成川の建設は、アイヌの人たちなどを犠牲にした松取りの闇で、地底のシリウスの光をであるタルタリアを隠した意味もあります。水の地の札幌周辺を暗闇にするための地底の光を封印したのです。裏の人肉缶詰工場は北海道石狩市の他の4箇所にもつくられました。

    《開拓使美々鹿肉罐詰製造所跡》には、『明治10年の石狩罐詰所(サケ・マス/現・石狩市親船町65)を皮切りに美々鹿肉罐詰所(鹿)、厚岸(カキ、鹿/厚岸町奔渡)、別海(サケ・マス/別海町本別海1-93、本別海1-205)、択捉島(えとろふとう/サケ・マス)・紗那(しゃな/サケ・マス)と、各地に缶詰工場を建設しています』と記されています。人肉缶詰工場が置かれた場所は、水の場所や海岸線など大事な光の地です。

    北海道のシリウスの光というタルタリアが封じられてきました。過去のヒプノセラピーからシリウスの光を封印する役割がアークとプレアデスだと分かっています。支配層の裏の金儲けとしての松製品の1つが人肉の缶詰の形だったのです。表の魚や動物の肉などの缶詰工場を隠れ蓑にして裏で松取りをして人肉の缶詰工場を置いていたのです。北海道のシリウスの光であるタルタリアが開かれることを願っています。(おわり)

 

 

追記終わり(私

 

 

 

 



ネット情報の《ベンジャミン・フルフォード・レポート》には、「第二次世界大戦中に日本に建設された地下施設が300あり、それらは日本帝国の旧陸軍および海軍基地から改造されたものですと日本の軍事情報筋は述べています。」「彼らは、日本がカザリアンマフィアに年間16,000人の子供を提供することを余儀なくされたと言います。」

 

「これらの子供たちは、東京の地下基地から鹿児島県志摩市(※恐らく志布志市の誤植)に輸送されます。そこから、中国の海南島に輸送されます。日本の海軍情報局によると、アジア最大の人身売買ハブです。」と記述されています。

 

戦時中の地下壕建設の時からの人身売買を含む松利権の闇が現在まで継続してきたと感じます。鹿児島県志布志市の地下壕を調べると《「本土決戦」決死の防衛網は今 米軍上陸想定、鹿児島に残る地下壕や要塞跡》の西日本新聞の記事がありました。

 

「湾は太平洋につながり、港湾都市として栄えてきた鹿児島県志布志市。海岸沿いの断崖には44年9月ごろから、日本軍による本土防衛のため、全長16キロに及ぶ地下壕(ごう)が掘られた。旧志布志町誌によると、軍幹部は地下壕を「日本一」「全軍の模範」と評価し、45年7月時点で80~90%完成していた。」と記されています。

 

志布志市に日本一の地下壕があったということは、ネット情報の信憑性の裏付けになると思います。薩摩藩は、古くから松利権の拠点として使われて来たと感じます。1600年以降に、奄美群島や琉球王国も配下にして来たことからも、松利権の行使と拡大によって、経済的に裕福であったことがうかがえます。(つづく)

 

 

 

 

 

 

※松とは松果体