霊に秘められし霊性を呼び覚ます | imaga114のブログ

imaga114のブログ

理不尽な世界に疑問
ネットの普及から
「井の中の蛙」から「目から鱗」

なぜ日本人なのか?
本物の日本人とは何なのか?
興味深い内容と雑学から学ぶことは?
ただの主婦だけど、
ただの主婦からのメッセージ
受けとる人は誰?

 

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ―言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開

どうして日本語は美しいのか?
「あいうえおかきくけこさしすせそ……」
日本語を学んだ外国人の多くが、整然とした五十音の構成に感心し、母音の美しい響きに感嘆する。また、実際に日本を訪れた外国人たちは日本人の親切さや街の清潔さに心打たれるともいわれ、どうやら、外国の人々の目には、日本人は美しい言葉を話し、美しい生き方を実践する存在として映っているようである。
これを正当な評価と見るか過大な評価と見るかは別として、日本語の美しさについては異論のない方がほとんどだろう。そして、その日本語をより美しく話す人ほど、美しい生き方をしていることにも同意していただけるはずだ。
では、どうして日本語は美しいか?
改めて五十音表を眺めてみると、各音を構成する母音と子音が一目瞭然であることに気づかされる。これは当たり前のようでいて当たり前ではなく、これほど整然と各音が整理された言語はほかにないといっていいだろう。現在の五十音の並びはサンスクリット語の音韻学に由来するといわれるが、日本語のルーツそのものは1万年以上前にさかのぼることができるという。
また、外国語と比較したときには、母音や子音に濁(にご)った響きのないことにも気づかされる。五十音のことを清音(せいおん)と呼ぶが、まさにその名の通り、清い響きがそこには感じられるはずだ。
「母音がきれいに分けられているのが古代から伝わる言語の特長です。日本語のようにはっきりとした母音を持っている言語―古代ポリネシア語、レプチャ語など―は、1万年を超えて今なお原型をとどめる数少ない言語だといえるでしょう」
そう語るのは七沢研究所代表の七沢賢治(ななさわけんじ)氏。
半世紀以上にわたり、「日本語」の研究に取り組んできた氏によると、これらの言語のうち、言語と関連して発達した文化が現在まで残っているのは日本だけだという。これは日本が島国であり、そこで芽生えた文化が、侵略者によって断絶させられることなく連綿と継承されてきたことに関係するのだろう。

 

 

 

 

第一章 言霊に秘められし霊性を呼び覚ます

言霊学の始まり
「古層和語圏」へのアクセスを意識的に行う試みといえるのが、江戸時代に興(おこ)り、明治になってから独特な発展をみせた言霊学(げんれいがく)という学問だ。
すでにご説明したように、言葉が心(=霊)に直結するという言霊の考え方自体は『万葉集』の時代以前からあったわけだが、それを体系的に捉え始めたのは江戸時代に入ってからであり、さらに明治時代における急速な西欧化の流れの中で民族主義的な機運が高まったことが一つのきっかけとなって、言霊学として確立されることになった。
その言霊学を簡単に定義するなら、日本語を構成する各音の持つ潜在的意味や日本人の精神性・霊性とのかかわりを、ある種のエネルギーとして把握しようとする学問といえようか。
たとえば、アという一音には、亜、吾、我、阿といった意味があり、さらに、「あー、驚いた」「あーあ、がっかりだ」「あー、なるほど」というように、心情の働きにも連動している。そのように、五十音の各音に人の心を構成する五十種類の要素を対応させられるとすれば、人は無意識のうちに五十音の組み合わせによって心を動かしていることになり、逆にいえば、五十音各音の持つ言霊によって人の心を動かせることにもなる。
近代における言霊学の発祥は、書道家で神代(じんだい)文字の研究家でもあった山腰弘道(やまこし)という人物が明治天皇と共に、宮中賢所(かしこどころ)にあった文書と昭憲皇太后の実家・一条家からもたらされた文書から言霊の法則を学び取り研究を始めたことに始まる。
その研究は山腰弘道氏の子息である明将氏が興した「明生会(めいせいかい)」に引き継がれ、さらにその門下生である小笠原孝次(こうじ)氏に引き継がれた。
そして、その小笠原氏から言霊学の教えを受けたのが七沢賢治氏である。
七沢賢治氏は昭和22年、山梨県甲府市生まれ。戦後の混乱の中、周囲で起こる土地や物の奪い合いに心を痛めていた氏は、物心ついたころには「なぜ人と人が仲良くできないのか?」「どうやったらそれが解決できるのか?」というテーマに思いを向けていた。そして、その答えを見出すべく文学や哲学の本を読み漁り、16歳のときにふと、「どうやら宇宙には意志がある」と直観する。
その体験の影響か、統合という考え方に興味を示すようになった七沢氏は、大学進学後、さまざまな宗教が教義として語っているところを統合する学問を志し、中立的な立場で宗教を研究するようになる。
最初に師事したのは言語・文化研究者として著名な奈良毅(つよし)氏。その後、言霊学を伝える小笠原孝次氏に師事する。その最初の出会いは次のようなものであった。
1975年1月、当時大学院生だった七沢氏は国会図書館で小笠原氏の著書『言霊百神』に出会う。そこに書かれた、日本語の一音一音から広がる整然とした世界観に強い衝撃を受けた氏は、図書館から小笠原氏に電話をして面会を申し込んだ。
偶然にもその日は小笠原氏の72歳の誕生日であり、その日から七年間、七沢氏は小笠原氏の自宅に毎日のように通うことになる。
「小笠原先生の六畳一間の部屋で正座して、一対一で、延々と禅問答のようなことをさせていただいたものです。先生は、広告の裏の余白にいろいろ書いて説明してくれましたが、厳しい人でもありました。また、すごい霊力の持ち主であり、心の中で思ったことを全部読まれてしまうので、考えないようにするのが大変でした」
小笠原氏は相手がどの程度悟っているのかを前提にして人と接していたという。
七沢氏は「そんな偉大な師から自分が大事にしてもらえた理由が分からない」と謙遜するが、その若き弟子時代から数えて数十年後に言霊学を大きく飛躍させた功績を思えば、やはり、小笠原氏は正しく七沢氏の素養を見抜いていたのだといえよう。

 

 

 

 

第二章 伯家神道が明かす神道の深層

皇室祭祀を司った白川伯王家
七沢賢治氏の研究におけるもう一つの軸である伯家(はっけ)神道について、まずその歴史を簡単にご紹介しておこう。
伯家神道は別名白川(しらかわ)神道と呼ばれ、そのルーツは日本語と同様に1万年以上前にまでさかのぼることができる。ただし、伯家神道として一つの形を成したのは、第六十五代花山(かざん)天皇の皇孫(こうそん)にあたる延信王(のぶさねおう)が万寿2年(1025年)に源姓(花山源氏)を賜(たまわ)って臣籍降下(しんせきこうか)し、その後、宮中祭祀を司る神祇官(じんぎかん)の長である神祇伯(はく)に任ぜられたことに始まる。
神祇官とは皇室・朝廷の祭祀の秘儀(ひぎ)を伝承する役職であり、宮中において神鏡(しんきょう)を奉安(ほうあん)する内侍所(ないしどころ)、および天皇を守護する八神を祀る神祇官八神殿(はっしんでん)に仕え、神拝(しんぱい)の作法などを天皇や皇太子、摂関(せっかん)家などへ伝授するという重大な役目を負っていた。
この神祇官制度の発祥時期は不明だが、飛鳥時代後期にはすでにその記述が見られる。当初は忌部(いんべ)氏や大中臣(おおなかとみ)氏、橘(たちばな)氏など有力な氏族が神祇官の要職を占めていたが、先述の延信王(のぶさねおう)が神祇官に就任してからは、その子孫が代々神祇伯となり、白川伯王家を名乗るようになった。
臣下の身でありながら皇族の尊称である王号を名乗ることが許されたというこの事実が、その地位の高さを物語るだろう。形式上の位階(いかい)はそう高くはなかったが、実質的には行政を司る太政官(だいじょうかん)よりも上位の立場にあったといわれている。
その後、白川伯王家の家系は三分し、神祇伯の職を数年ごとに交代していたが、やがて伯職に就く家系は一つに統一された。
七沢氏は、白川伯王家の家系継承(けいしょう)についてこう説明する。
「白川伯王家は世襲(せしゅう)でしたが、その伯家神道の継承には生来の能力が必要でしたので、後継者が絶えそうなときには養子を迎えて血を絶やさないようにしていました。つまり、白川伯王家とは家系であると同時に、それ自体が一つの役職のようなものであったのです」
日本の神道において絶大な威光を放つ白川伯王家であったが、中世における吉田兼倶(かねとも)という人物の登場がその地位を危うくさせる。もともと吉田氏は卜部(うらべ)氏を名乗る神祇官に仕えた家系であったが、兼倶は密教や道教、陰陽道(おんみょうどう)などの影響を受けた独自の神道を提唱し、同時に朝廷や幕府に取り入って全国の神社や神職(しんしょく)へ位階を授ける権限を獲得。神祇管領(かんれい)長(ちょう)上(じょう)の肩書きを得て白川伯王家に対抗した。
それに応じる形で白川伯王家二十三代当主の雅光王(まさみつおう)は、江戸時代中期に伯家神道の首席教師である「学頭(がくとう)」という位を創設し、このころから伯家神道が一般にも説かれることになる。また、吉田神道と対抗する目的もあり、土御門(つちみかど)神道や垂加(すいか)神道などといった他流とも交流を深めていった。
「伯家神道は別名白川神道とも呼ばれますが、もともと白川伯王家がそう自称していたわけではなく、単に『おみち』と呼ばれていただけでした。いわゆる伯家神道は宮中祭祀としてのみ行われていたので宣教の必要はなく、教義などを記す必要もなかったのです」
七沢氏によると、朝廷への報告書などがいくつか残されているものの、それは教義を記したものというよりは、祭祀の概要などを説明する報告書に近いものだという。
その後、伯王家の秘伝としての伯家神道は一部の神社へ伝わり、また次第に尊王(そんのう)論者の間でも注目されるようになった。1816年には、第二十八代当主の資延王(すけのぶおう)が学則を制定して門人の基準を明示し、伯家神道の教化的基礎が確立。著名な国学者の平田篤胤(あつたね)を伯家の学頭に起用したり、後の明治維新の原動力となった水戸学派と連携したりしながら、伯家神道は時代の激動の渦(うず)へと飲み込まれていく。

 

 

 

 

第三章 言霊・神道と最先端科学の融合

言霊・神道を科学で解き明かせるか?
新しい時代のパラダイムに基づいて、自らを取り巻く現実を創造しようとするとき、『古事記』の多元的理解という考え方がある。世界各地の文化的資源をオリジナルに近い形で蓄積・保存してきた日本語や神道に関しても同じことがいえるだろう。
現在、七沢氏は、次のような理念に基づいて、科学の方向から日本語や神道を理解しようという試みを行っている。
「科学的であるということを考えるとき、たとえ自然科学的に証明が不十分であったとしても、人文・社会科学的な概念に新たな視野が立ち現れればいいのではないでしょうか?それが私のいう現実化ということです。科学では主に左脳(さのう)を使い、宗教では主に右脳(うのう)の働きに傾く。そうなってしまうと、まんべんなく左右両方の脳を使ったときに、自己の全存在が感動でどれほど打ち震えるかということを知ることがないのです。その体験は、言葉が自己と結びついたときの喜びだといえるでしょう。
学んだことを役立てられないのは、その学んだこと(概念)が自分の中で改めてトレースされ、体感的な喜びを伴って自己と結びつけられていないからです。だから、体感的に一体化できず、実用的に役立てることもできないのです。
ある意味では、どのような知識であれ幻想のようなものです。ですから、実践的にそれを捉えて、肝心なときに使えればそれでいいと考えています。科学や哲学に対する私のスタンスはそのような感じです。特定の目的や前提条件がある場合に、それに合う形で知識を収集して実利的に自己の哲学と方法論を形成すればいいのです。そして、それはある程度までは恣意(しい)的な解釈で押し切らないとなしえません」
七沢氏はさらに、各自がそれぞれの宇宙論を書くことを提案する。
「近代における個の確立というテーマは『主体の確立』と言い換えられます。私が目指しているのは、その主体を広げていくことであり、心理的あるいは体感的に主体を拡張する、解放するといったことです。それは、自己意識と宇宙意識を等価にすることであり、意識したことが宇宙になるということを意味します。これは、人類に進化と生存の希望を与えるでしょう。
これからは、皆それぞれの宇宙論を自分で書いてみればいいのです。おそらく、今の科学の普遍性を推し進めていくと、一人一人が宇宙の作り手になるところまで意識を広げていくことになります」
言霊は学問であると同時に、それに思いを巡らせること自体が霊的な実践となっていた。それと同様に、科学を踏まえた上で各自が実感を持てる宇宙論を書いてみることは、創造の担い手としての自己が進化することを意味するのかもしれない。
その考えるためのヒントとして本書では、「対称性の自発的な破れと言霊」「量子場脳理論と言霊」「DNAと言霊」という三つのキーワードに関して大胆な仮説を述べていく。
ただし、以下は少し専門的な科学的解説を含むため、苦手な方は読み飛ばして第4章に進んでいただいてもかまわない。

 

 

 

 

 

第四章 言霊で現実を創造する方法

ブームとなった「ありがとう」
「ありがとう」という言葉が大きなブームとなっている。
普段、私たちが日常的に使っている言葉が話題に挙がっているその理由は、この言葉に幸福な出来事を招く力があると信じられているからだ。
120万部を超える大ベストセラーとなった『ツキを呼ぶ魔法の言葉』(とやの健康ヴィレッジ)は、その「ありがとうブーム」の火付け役の一つである。
工学博士である著者の五日市剛(つよし)氏は、若いころにイスラエル旅行を経験。それは失意の旅であったが、その途上で出会った老婦人が教えてくれた二つの言葉「ありがとう」「感謝します」と、もう一つ「ツイている」という言葉によって、氏の人生は大きく変わることになった。
そして、その体験を本にした『ツキを呼ぶ魔法の言葉』がクチコミでじわじわと知られるようになり、最終的に、多くの人々がそれらの言葉によって自らの人生を好転させることに成功したのだ。
同じように「ありがとう」によって人生を好転させた体験を分かち合っている人物に、『宇宙を味方にする方程式』(致知出版社)など多数の本の著者として有名な小林正観(せいかん)氏がいる。小林氏によると、「ありがとう」と唱えることで、それに見合った現実がやってくるのだという。
また、日本において近年大きなムーブメントとなってきている、ハワイのホ・オポノポノという問題解決の手法もまた「ありがとう」に関係する。
これは、精神医学の研究者であるイハレアカラ・ヒューレン氏がハワイの伝統的な手法をアレンジしたものであり、問題を起こしている自分の潜在意識に向けて、「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」「愛しています」という四つの言葉を繰り返すことによって実践される。
ホ・オポノポノがある種のセラピーであることは間違いない。だが驚くべきことに、この手法は現実の出来事をも変えられるのだという。
事実、ヒューレン氏は、重罪を犯した精神障害者施設において、一人一人の受刑者に対する自分の思いをクリーニングすることで、収容者らの精神状態を大きく改善している。
この手法では「ありがとう」以外の言葉も用いられるが、いずれにせよ、肯定的な言葉を口にして現実を変えるという点で、前出の五日市氏や小林氏の考え方と共通したものだといえるだろう。

 

 

 

 

 

エピローグ タミの時代に求められる新たな帝王学とは

日本における帝王学の真義
伯家神道はある種の帝王学(ていおうがく)であり、一方、明治天皇が興した言霊学は、天皇の統治のあり方を『古事記』などから読み解くための学問である。
帝王学というと、こと近代日本においては、儒学と西欧帝王学とを合わせたものという印象が強いが、日本の伝統においては、国見儀礼に見られるように、天地自然との交感と言霊の力の行使が天皇の役目とされていた。
つまり、日本における帝王学とは、民を治めるばかりでなく、国津神として象徴される天地自然とのつながりや、天津神として象徴される言霊の使い方といったところまで踏み込むものであったのだ。
ここで、「帝」「王」の語源について考えてみたい。
白川静氏の『字統』によると、「帝」という字は神を祀るときの祭卓の形の象形であり、「王」という字は王位を示す儀礼用のマサカリであるとされている。すなわち、いずれも宗教的儀礼がそこには関係しており、その観点に立つならば、伯家神道が伝えてきた日本古来の帝王学こそが真に正統の帝王学であるといえそうだ。
そしてそれは、プロローグで述べた、いにしえの「王道」でもある。
だが、天皇が実際に統治を行うわけではない。民主主義のこの時代にあって、そのような帝王学を私たちはどう捉えればいいのだろうか?
ここまでお読みいただいた方ならお分かりのことと思うが、国家の主権が「キミ(君=天皇)」から「タミ(民=民衆)」へと委譲(いじょう)された現代日本においてなお、言霊学と伯家神道の伝える統治の原理はおおいに有益であるというのが、本書の一貫した主張だ。
このエピローグでは、ここまでの本書の内容を振り返りつつ、その情報をどのように各自が役立て、また新時代のパラダイムとして社会に還元していくかということについて、七沢氏が提唱するそのビジョンに迫ることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

巻末付録 伯家神道の四つの祓詞

大祓(中臣祓)

▽高天原(タカマノハラ)に神留(カムヅマ)ります皇親(スメムツ)カムロギ・カムロミの命(ミコト)をもて
八(ヤ)百(ホ)万(ヨロズ)の神がみを神集めに集めたまひ、神議(ハカ)りに議(ハカ)りたまひて、
「わ(ア)が皇御孫(スメミマ)の命(ミコト)をもて、豊葦原(トヨアシハラ)の瑞穂(ミズホ)の国を、安国と平らけく知ろしめせ」
と、事依(ヨサ)しまつりき。
▽かく依(ヨサ)しまつりし国中(クニナカ)に荒ぶる神がみを、神問(ト)はしに問(ト)はしたまひ、神払(ハラ)ひに払(ハラ)ひたまひて、語問(コトト)ひ(イ)し磐根(イワネ)・樹立(コタチ)・草(カヤ)の垣葉(カキハ)をも、語(コト)止(ヤ)めしめて、
天(アマ)の岩座(クラ)押し放ち、天岩戸(アマノイワト)を押し開き、天(アメ)の八重雲(ヤエグモ)をいづのちわきにちわきて、
天降(アマクダ)し依(ヨサ)しまつりき。【一礼】
▽かく依(ヨサ)しまつりし、四方(ヨモ)の国中に、大倭日高見(オオヤマトヒダカミ)の国を、安国(ヤスクニ)と定(シズ)めまつりて、下津磐根(シタツイワネ)に宮柱太敷(ミヤハシラフトシ)く立て、高天の原に千木(チギ)高知りて、
皇御孫(スメミマ)の命(ミコト)のみづの御舎(ミアラカ)に仕(ツカ)へまつりて、
天(アメ)の御陰(ミカゲ)・日の御陰と、隠(フカ)く坐(マ)して、
安国と平らけくしろしめす。
・▽国中に成り出づる天(アメ)の益人(マスヒト)らが、過(アヤマ)ち犯しけむ種々(クサグサ)の罪事咎祟(ツミコトトガタタ)り、
・天罪(アマツツミ)とは、畔放(アハナチ)・溝埋(ミゾウメ)・樋放(ヒハナチ)・頻蒔(シキマキ)・串刺(クシサシ)・生剥(イキハギ)・逆剥(サカハギ)・穢(ケガシ)・ここたくの罪を、天罪(アマツツミ)とのりわけ、
・国津罪とは、生(イキ)の膚断(ハダダチ)・死(ナオル)の膚断(ハダダチ)・白人(シラヒト)・こくみ・己(オノ)が母(ハハ)を犯(オカ)し・己が子を犯し・母と子とを犯し・子と母とを犯し・毛物(ケモノ)犯(ヲ)せる罪・昆虫(ハウムシ)の禍(ワザワイ)・高津神の禍(ワザワイ)・高津鳥の禍(ワザワイ)・畜物(ケモノ)倒し蟲物(マジモノ)せる罪を国津罪とのりわけいだして、ここたくの罪出(イデ)む。
▽かく出(イデ)ば、天津宮の事をもて、
天津金木(カナギ)を本末打切(モトスエウチキ)りて、千座(チクラ)の置座(オキクラ)に置足(オキタ)らは(ワ)し、天津菅曽(スガソ)を本末(モトスエ)苅断(カリタ)ち、八津針(ヤツハリ)に取刺(トリサシ)て、天津祝詞(ノリト)の太(フト)祝(ノリ)詞(ト)事(ゴト)をもて宣(ノ)る。
▽かく宣(ノ)らば、
天津神は天(アマ)の岩戸を押し開き、国津神は、高山短(ヒキ)山のいほりを撥別(カキワ)けてもるるとこなく聞こし召(メ)さむ。
・▽かく聞し食(メ)しては、種々(クサグサ)の罪はあらじと、
科戸(シナト)の風の天(アメ)の八重雲を吹きはらふごとく、
朝夕(アシタユウベ)の霧を朝夕の風の吹きはらうごとく、
大津辺(オオツノベ)にいる大船(オホフネ)の舳(トモベ)の綱(ツナ)を解(ト)き放(ハナ)ち、大海原(オオウナバラ)へ押し放つごとく、
彼方(オチカタ)や繁(シゲキ)が本(モト)を焼鎌(ヤキガマ)の砥鎌(トガマ)をもて、打ちはらふごとく、
残れる罪はあらじと、祓(ハラ)ひ清むる事を、
▽高山・短(ヒキ)山の末より、佐久刺谷(サクナダニ)に水落ち、滝津早川の瀬に流(ナガシ)ます瀬織津(セオリツ)姫といふ(ウ)神、大海原(オホウナハラ)に持ち出(ヒ)でたまいてむ。
▽かく持ち出でたまいなば、
荒塩(アラシオ)の塩(シホ)の八百道(ヤホジ)の八塩路(ヤシホジ)の塩の八百辺(ヤホヘ)にます
速秋津姫(ハヤアキツヒメ)といふ(チョウ)神齦美呑(カミカミノミ)てむ。
▽かく齦美呑(カミノ)み(ン)ては(デハ)、
吸吹戸(イブキド)にます神、息吹(イブ)き放ちたまひてむ。
▽かく息吹放ちたまひては、
根の国の底の国に鎮(シズ)まります神、さすらひ失ひたまひてむ。
▽かくさすらひ失ひたまひては、
遺(ノコ)れる罪はあらじものぞと、祓(ハラ)ひ申(モウ)し清(キヨ)め申(モウ)すことの由(ヨシ)を、天津神(アマツカミ)、国津祇(クニツカミ)、八(ヤ)百万(ホヨロヅノ)神(カミ)がみに、
平らげく安らけく、みいさみたまひて、聞食(キコシメ)せと申す。