「ねえオジちゃん、なんで字の本読まなきゃいけないの?なんでマンガじゃダメなの?」
「なんでゲームばっかりしないで本読みなさいって大人は言うの?」
と、我が家のネコと遊びに来た近所の小学生。
最近の日本のマンガはストーリーもテーマも深いし、時代考証やさまざまな考証が非常にレベルが高い。読んで勉強になるマンガも数多い。
ワンピース読めば泣けてくるし、ゴルゴ13読んだ後は当分の間眼光鋭くなって後ろに立った人を反射的に殴り倒しそうになって電車に乗れないし、ドラゴンボール読んだ翌日の会議とかでは「どれ…あの社員さんは…おや、戦闘力3ですか。ホーッホッホ!……ゴミめ…」とか、もう完全に人格がフリーザになっているワシである。
ゲームに至っては、自分が主人公だからヘタすると完全にもはやそこら辺の映画なんぞより面白いと思う。
3Dのホラーゲームで「バイオハザード」みたいなヤツなんか、買ったはいいけど、もう音も映像もリアル過ぎて余りにも怖すぎで、未だにワシは舞台となるっぽい洋館の入口の前から一歩も先にに進めていないので、一向にストーリーすら始まらない。
せんべい食べながら笑って観ているホラー映画とは比較にならん怖さである。
もう小説や字の本なんか読まなくてもいいんじゃないんですかね?と、若い大人まで言ったりする気持ちはよーく分かる。
でも、ワシはやっぱり読書はマンガやゲームより、特に子供には大事だと思う。
その理由はシンプルだ。
マンガやゲームは所詮、作者の創り上げた世界観の中で、決められたストーリーを辿ってるだけだからだ。
それだけ言うと、小説だって一緒だと思うかも知れないが全然違う。
本はその描かれる世界の景色や主人公の顔、登場人物の顔や表情や声は、全て自分の想像力次第なのだ。その想像力を鍛えて高めることが「創造力」につながると思う。
例えば「ルフィ」と言えば思い浮かぶ顔は100人全員同じ顔を思い浮かべるだろう。(あの、犯罪者の下品な顔じゃないことを祈る…)
「ドラえもん」「サザエさん」「名探偵コナン」「ルパン三世」みんな思い浮かぶ顔は決まっている。
では「シャーロック・ホームズ」は?
「怪盗紳士ルパン」は?
どんな顔?どんな声?
こうなると急に100人100様の顔になってくる。
これが「創造力」の喚起のスタートだ。
同じストーリーを辿ったとしても、読者によって全く違うイメージや世界観がそこに湧いて来るのが読書である。
自由自在に大暴れしたつもりが、結局はお釈迦さまの掌の上でしかなかった孫悟空。
作者によって用意周到にイメージも世界観も固定されているマンガやゲームは、結局はそういう状態と同じだ。
大人になったら、そういうモードを楽しむのもいい。
作者が作った「カゴの中」にあえて閉じ込められる楽しさもある。
でもやはり、ある程度楽しんだらカゴから出て大きな想像力という自分の翼をバサっと拡げて、大きく大空に羽ばたいて行く力を持って欲しい。
それでこそ人生は何倍も何十倍もエキサイティングで面白くなる。
その翼を生やして育てるのが、読書だ。
マンガもゲームもテレビも映画もYouTubeも全部画像や動画だ。
その画像や動画を離れて、文字という記号だけの世界に遊ぶ時、人間の創造力は無限に拡がる世界を見せてくれるのだと思う。
マンガもゲームもいい。
でも、優れた漫画家やゲームクリエイターは、みんな実は優れた読書家である。
だからワシは冒頭の子供達にこう答えている。
「大人になったら、君はゲームが日本一上手な人になりたい?それとも日本一売れるゲームを作れる人になりたい?」
「大人になったら自分が大人気の漫画家になりたい?それとも漫画やアニメに詳しいだけのオタクのおじさんになりたい?」
懸命な子供達の答えは言うまでもないだろう。
クリエイティブになりたかったら、大人も子供も読書「も」しよう。
注: と言いつつ大天使ミカエルの「翼」の画像を貼ってイメージ固定化を目論んでほくそ笑んでいるワシである。