医師の家庭物語(20)
湯船に顎まで浸かり目を閉じる
医師の夫。
しばらくこのままでいたい。
言葉のボディーブローがジワジワ
とダメージを蓄積している。
これまでの人生で他人から罵られた
経験が全く無い医師の夫はそういう意味
での免疫がまだできていなかった。
看護師たちの視線も健二が診察室に
出入りするようになって以来、変化して
きている。
息子たちの食卓での逞しさは成長期と
反抗期とが重なって日に日に強く鋭く
なってきている。
診察室に来診する若者やお年寄りからも
ウイルス禍や液体を巡り罵られ始めた。
ヤブ医者と露骨に病院内で言われるように
もなってきた。
プライドが傷付いた。
しかも大滝秀治というお年寄りからは
喝を入れられお前の話はつまらん、とまで
診察室で言われた。
「あなた〜!そろそろお風呂から出ないと
出勤に間に合わないわよ。」
妻の声が再び響いてくる。
湯船から立ち上がった。
気のせいか脇腹が少し痛む。
言葉のボディーブローだけでなくまるで
本当のパンチを脇腹に食らったかのようだ。
先程から脇腹に違和感がある。
そうして着替えながら台所に向かう。
ここも格闘技のリングと化している。
妻と息子たちが既に朝食を囲み1つの
結界ができている。
妻
「あ、あなた、早く早く。」
夫
「ああ。」
妻
「少し急いで食べたらまだ充分に間に合うわよ。」
夫
「今日は休もうかな。」
妻
「えっ?」
夫
「何かこう、気乗りしないな。」
息子の隆
「ほっつき歩いているからだよ。」
息子の健二がご飯のおかわりをする。
息子の隆もご飯のおかわりをする。
夫
「もう医者なんか辞めようかな。」
妻
「あら、どうしたのよ。」
夫
「なんか、やり甲斐が無くなってきてさ。」
息子の隆
「で、辞めてどうすんの?」
夫
「健二、お父さんもう医者を辞めようかな。」
息子の健二
「辞めたら。」
しばしの沈黙が台所に流れる。
夫
「なんだよ健二。やけにあっさりしてるな。」
息子の健二
「辞めたいなら辞めたら?」
夫
「あっさり言うなあ。言っておくが勤続30年
がもう少しというところなんだぞ。」
息子の健二
「でも辞めたいんだろ?」
夫
「あのなあ健二、少しくらいはお父さん待って
くれとか、もう少し考えたらとか、何かそういう
引き止めとか慰めとかは無いのか!?」
息子の健二
「無いよ。辞めたいなら辞めたら?」
夫
「健二!お父さんは部下がたくさんいるんだぞ。
そう簡単に辞めるわけにはいかないんだ!」
息子の健二
「だったら辞めなければいいじゃないか。」
夫
「健二!お前はお父さんを何だと思っているんだ!」
息子の健二
「お父さん、構って欲しいんだろ?」
夫
「少しは情を持て!慰めるとか引き止めるとか。」
息子の健二
「やっぱり構って欲しいんだろ?好きにすれば?」
夫
「健二!」
息子の隆が味噌汁のおかわりをする。
息子の隆
「で、お父さんはどうして医者になったの?」
夫
「それはだな・・・・・。」
妻
「あまり深く考えてなかったわよ。単に偏差値が
高く受験では優秀だったから流れで医師免許を
取ったのよね。」
夫
「何を言うんだよ。そりゃ、人を助けたいからさ。」
息子の健二
「でも研究とか意欲的に医療に向きあっている
ようには見えないけどなあ。」
夫
「な、何を!」
息子の健二
「全然、世の中の事が分かってないじゃないか。
まあ週刊少年ジャンプと週刊プレイボーイしか
読まなければそうなるよね。」
夫
「健二!もう医者なんか辞めてやる!」
息子の健二
「だから辞めたら?」
夫
「おう、辞めてやるからな!」
息子の健二
「どうぞ。」
夫
「お、お前たち困っても知らんぞ!辞めてやる
からな!」
息子の健二
「どうぞ。」
夫
「本当に辞めてやるからな!」
息子の健二
「しつこいなあ。辞めたけりゃ早く辞めろよ。」
夫
「健二!お前という奴は!」
息子の隆
「だからやっぱりお父さんさ、構って欲しいん
だろ?」
夫
「ち、違う!本気だぞ!」
息子の健二が味噌汁のおかわりをする。
妻
「あなた、医者を辞めたら何をするのよ。他に
何もできないじゃないのよ。」
夫
「河合塾の講師も合っているだろ?」
妻
「何を言ってるのよ。あなたが受験した頃とは
時代も変わってるから、それに若い優秀な講師
がいくらでもいるわよ。」
夫
「そんなことはないさ。俺が教壇に立てばたちまち
俺も人気講師になるよ。」
息子の健二
「無理だね。」
夫
「な、何だと!?」
息子の健二
「講師には向いてない。」
夫
「な、何!?お父さんは昔、河合塾の模試で
全国3位になったことは分かってるだろ?」
息子の健二
「瞬間風速値だよ。だから?」
夫
「健二!よし、見てろよ。河合塾の名物講師に
なってやるからな!」
息子の健二
「あ、そう。じゃ、頑張ってね。」
夫
「健二、お前さ、気持ちがこもってないだろ!」
息子の健二
「だからさ、医者を辞めるなら辞めりゃいいじゃ
ないか。好きにすれば?」
夫
「健二!患者もたくさんいるし部下もいるんだ。
そう簡単に辞めるわけにはいかないだろ!」
息子の健二
「だったら辞めなければいいじゃん。」
夫
「け、健二!お前という奴は!」
妻
「な〜んだ、あなた結局は構って欲しいのね。」
夫
「な、何を言うか!俺は本気だぞ!」
その時、健二のスマートフォンに看護師たち
から次々とメールが入ってくる。
看護師山下からのメール
「健二さん、昨夜は素敵な歌声だったよ。今日も
茹で卵楽しみにしてるわ。ラブ」
看護師河田からのメール
「健二さん、昨夜は楽しかったです。それに
しても健二さんプロ並みの歌声でしたわ。」
若い看護師からのメール
「健二さん、昨夜は楽しかった〜。もう胸が
ドキドキしたわ〜。惚れてしまいそう。」
その他の看護師からのメール
「健二さん、また歌いに行きましょうね〜。
ラブラブ。」
夫
「たくさんメールが来てるじゃないか。昨夜
の看護師たちだろ?」
息子の健二
「まあね。」
夫
「茹で卵の差し入れもあと3日かそこらで
終わるだろう?ご苦労だな。あと3日我慢
すれば健二も診察室にまで来なくてよくなるさ。」
妻
「あら、あなた。あなたの誤発注でこんな事に
なってるのよ。健二に対してそういう言い方は
ないわよ。」
夫
「茹で卵を置いたらすぐ帰ればよいものを。
看護師たちと長話をしてやがる。」
息子の健二
「いいじゃないか。看護師たちから話しかけて
くるんだから。」
夫
「お父さんの職場で、俺の聖域で余計なことを
しでかすんじゃない!」
妻
「あら、あなた健二に嫉妬してるのね?」
夫
「な、何を!?」
息子の健二
「お母さんの立場になってみろよ。毎日毎日
茹で卵を100個茹でるの、大変なんだぞ。」
息子の隆
「そもそも誰のせいで毎日茹で卵を100個
も茹でるハメになったんだよ。」
とその時、玄関のチャイムが鳴る。
妻がインターホンに出る。
インターホン越しの声
「おはようございます。宅急便で〜す。
ご注文の品をお届けに参りました〜。」
妻
「注文?何かしら。」
玄関のドアを開ける妻。
宅急便
「あ、こちら様ですね。前回ご注文頂いた
新鮮たまたま生卵、2ロット目のご発送です。
今回も567個となっておりますので。」
妻
「え、?」
宅急便
「詳しいことは分かりませんが、最初に注文
された際に何回かの連続発注でお申し込みされ
ているようですよ。」
またしても生卵が新たに567個も追加で
配達されてきた。
妻のため息と息子たちの叱責が台所で
飛び交う。
逃げるように玄関に向かい靴を履き藪病院に
向かう夫。
息子の隆
「あ、アントニオ猪木が亡くなったって。」
夫
「えっ!?」
息子の隆
「享年79歳。なんかアントニオ猪木本人の
SNSを見たら567液体3回目を打ったとか
投稿していたよ。」
息子の健二
「前日にね。腕が上がらなくなったと本人が
投稿していたぞ。」
息子の隆
「その翌朝に。」
息子の健二
「液体を打たなければまだまだ生きているよ。」
固まる夫。
自分をせめて奮い立たせてきたアントニオ猪木
が亡くなったとは。
液体を打った翌朝に。
まさか。
さすがの夫も何か胸騒ぎがした。
そうしてよろけながら自宅を出て通勤の
道のりを歩き始めた。
こうして一家の一日が始まる。
見上げる空はすっかり秋の気配であった。
つづく。