医師の家庭物語(18)
人はあまり追い詰められ過ぎると窮鼠猫を噛むこともある。
時間稼ぎをして息子の健二が来る時間帯から上手く抜け出した筈の浅知恵は呆気なく崩壊し、息子の健二が時間帯をずらして藪病院に茹で卵を差し入れにやって来た。
診察室の聖域に看護師たちがいる前で一度たりとも説得や論破できない相手の健二が立っている。
正念場を迎える医師の夫。
聖域で息子の健二に完膚なきまでに正論を唱えられたり論破されたなら医師としての威厳が失われてしまう。
医師の夫はそれを恐れた。
今や唯一の居場所のこの本丸までが陥落すれば俺の居場所はない。
僅かこの数日で早くも全ての看護師たちは健二に染まっている。
追い詰められてしまった。
もはや完全に空気で威圧されている。
貧乏ゆすりが更に激しくなっていく。
医師の夫はおもむろに携帯を取り出し自宅に電話をかける。
医師の夫
「私だ。」
電話の向こうの妻
「あら、どうしたの?珍しいわね。まだ仕事中でしょ。」
医師の夫
「緊急に聞きたい。急ぎの用だ。」
電話の向こうの妻
「何?」
医師の夫
「例の卵はあとどれだけ残ってる?」
電話の向こうの妻
「はあ?そんな事を聞いてどうするのよ。」
医師の夫
「いいから早く答えてくれ。何個残っている?」
電話の向こうの妻
「今日も100個茹でて健二に持たせたからね、
でもまだ300個以上はあるわよ。」
医師の夫
「まだそんなにあるのか!」
電話の向こうの妻
「だってあなたのせいよ。まったく。毎日100個茹でるのって大変なのよ。分かる?」
医師の夫
「分かった分かった。じゃ。」
電話を切って医師の夫は考え込んだ。
まだあと3日以上は健二が茹で卵を持ってくる計算になる。
あと3日も健二に来られたら聖域が陥落してしまうだろう。
俺は持ちこたえられるのか。
若い看護師が茹で卵を他のフロアの看護師やスタッフらに配りに行く。
看護師の山下
「健二さん、将来は何になりたいの?」
息子の健二
「う〜ん、まだよく分かりませんが、料理人も良いかなと。」
看護師の山下
「あら、そうなの?お父さんを見習ってお医者さんになるって言うのかと思ったけど。」
息子の健二
「医者にはなりたくないですね。」
看護師の山下
「あら、そうなの?」
息子の健二
「他にやりたい事もありますから。」
看護師の河田
「でも健二さんみたいな人に医者になってもらいたいわ〜。素敵だし、よく勉強してるし。」
看護師の山下
「そうよ、私もそう思うわ。健二さんのような人にこそ、立派な医者になってもらいたいわ。
なかなかいないもん。」
看護師の河田
「いないもんね〜。」
固まる医師の夫。
俺の姿はもはや看護師たちの視界にはないのか。
そこへお年寄りの男性が診察室に誘導されてくる。
医師の夫
「どうなさいましたか?」
お年寄り
「あ、何かね、こう、胸がムカムカしたり、こう、
チクチクするんですわ。」
医師の夫
「ちょっと見てみますね。」
お年寄り
「わしはまだ567液体を打ってないんだがな、
ありゃあ打ったほうがええんかの〜?」
健二の鋭い眼光が注がれる。
一斉に手を止めて医師の夫を見つめる看護師たち。
医師の夫
「そ、それはその、まあ、何と言いますか。」
お年寄り
「ありゃあ打った奴はみなバダバタ倒れちょるわの〜。ありゃあ本当に予防なんかいな?」
医師の夫
「それは間違いありません。」
健二の鋭い眼光が更に睨みをきかせる。
看護師たちの視線もどこか健二に近いものになりつつある。
お年寄り
「会場でもようけ倒れとるがな。
口から泡を吹いたゲートボール会長なんかな、そのまま逝ってしもうたがな。」
医師の夫
「それは・・・。」
お年寄り
「あれ打つ奴らは犯罪じゃろが〜。
あっちこっちたくさん倒れとるぞ。まだ治験中じゃがな。」
医師の夫
「それは・・・。」
お年寄り
「あんたまさかヤブ医者じゃなかろうな〜。知っとるか、世の中の現実を。」
看護師たちが更に医師の夫を凝視する。
腕組みをして座り鋭い眼差しで見つめている健二。
お年寄り
「ありゃあ、打ったやつが感染しとるがな。おかしいじゃろが。
わしは一回も打ってないけんの〜、インフルエンザにも罹ったことが無いんじゃ〜。」
お年寄り
「わしは88歳じゃが、まだまだやりたいことがあるし、液体は打たんよ。ありゃあ変じゃ。」
医師の夫
「まあ、その・・・。」
お年寄り
「567って何じゃ?え?言うてみろや。」
医師の夫
「まあ、ウイルスでして、その・・・。」
お年寄り
「馬鹿者!そんなことも分からないのか!」
医師の夫
「ですから武漢から発生して世界中に・・・。」
お年寄り
「つまらん!お前の話はつまらん!」
医師の夫
「はあ?ですからウイルスですから・・・。」
お年寄り
「喝! お前の話はつまらん!」
医師の夫
「・・・・・・。」
お年寄り
「で、なんで5歳以下の子供に液体を打つんか?」
医師の夫
「ですから子供たちを予防するために・・・。」
お年寄り
「喝! お前の話はつまらん!お前は話にならん!」
沈黙する看護師たち。
腕組みしたまま見つめる健二。
医師の夫
「あの〜、お言葉ですが私は医師でして。」
お年寄り
「ヤブ医者じゃ!出直してこい!お前の話はつまらん!」
医師の夫
「あの失礼ですが、おじいさまは一体何者でしょうか?」
お年寄り
「わしか?わしは大滝秀治という者じゃ。昔は俳優をしておったがな。」
医師の夫
「まあ、その何と言いますか。」
席を立つお年寄り。
医師の夫を睨みつけて退室していく。
「このヤブ医者が!」
そのお年寄りの怒声が廊下から響いてくる。
固まる医師の夫。
沈黙する看護師たち。
腕組みしたままの健二。
「つまらん!ヤブ医者!お前の話はつまらん!」
廊下でお年寄りの怒声が響く。
貧乏ゆすりが再び激しくなる医師の夫。
息子の健二
「お父さんさ、そろそろ気付けよ。」
沈黙する看護師たち。
貧乏ゆすりが更にリズミカルになる医師の夫。
若い看護師が診察室に戻ってくる。
空気を察してか看護師の河田が話題を変える。
看護師の河田
「そうだ、この後久しぶりに皆でカラオケはどう?」
看護師の山下
「あ、いいわね。仕事帰りに2時間くらいなら丁度良いかも。」
若い看護師
「あ、いいですわね〜。私も久しぶりに歌いたいです〜。」
看護師の河田
「健二さんも一緒に行きましょうよ。」
息子の健二
「あ、いいですね。行きましょう。」
看護師の山下
「健二さんは何を歌いますの?」
息子の健二
「ミスチル、チャゲアス、徳永英明とか。」
看護師の山下
「わ、いいわね〜。健二さんの歌声を聞きたいわ。」
看護師の河田
「他のフロアにも声かけときますね。」
若い看護師
「健二さんを囲む会って感じだね。」
看護師の河田
「いいわね〜。」
固まる医師の夫。
俺には声はかからないのか。
看護師の山下
「あ、ついでに先生もいかがですか?」
医師の夫
「ついでに、ねえ。」
看護師の河田
「先生もとりあえず、ついでに行きませんか?」
医師の夫
「ついでに、ねえ。」
息子の健二
「あ、お父さんは歌が音痴だからなあ。行かないほうが良いかもね。」
看護師の山下
「あら、そうなんですか?
まあ、でもついでに。ま、部屋の端に座っているだけでも良いかも。」
看護師の河田
「そうそう、歌わなくて端に座っているだけで良いですからついでに行きませんか。」
若い看護師
「健二さんの歌を聞きたいわ〜。」
席を立つ医師の夫。
もはや看護師たちはすっかり息子の健二に染まっている。
医師の夫
「君たち、僕って一体何なのかな?」
一瞬の沈黙が診察室に流れる。
看護師の河田
「あ、先生、ご無理なら別に構いません。
私たちだけで健二さんと盛り上がりますので!」
看護師の山下
「先生、ご無理なさらず。私たちだけで健二さんと熱唱しますから構いませんわよ。」
思わず医師の夫は廊下に出る。
窓の外には見事な満月が浮かんでいた。
廊下の窓から満月を見つめていると何か野性的な感覚が湧き上がってくる。
以前に帰路の途中で満月に吠えた感覚がフツフツと思い返されてきた。
満月に向かって叫びたくなった。
しかし藪病院内で満月に吠えたなら間違いなく看護師たちに何を言われるか分からない。
叫びたくなった。
しかしグッと呑み込んだ。
時間が流れた。
皆が健二の差し入れした茹で卵を頬張りながら談笑している。
医師の夫
「まあ、君たちだけでカラオケに行きなさい。」
看護師たち
「ありがとうございます〜。失礼します〜。さあ、健二さん一緒に行きましょう。」
そうして看護師たちと他のフロアのスタッフらを合わせて健二と15名程になり藪病院を退出
していく。
帰路に向かう医師の夫。
ため息をついた。
ふと振り返れば最近やたらとヤブ医者だと言われる頻度が増えているではないか。
思わずため息が出た。
今までは無かった光景である。
少なくとも567禍が始まるまでは俺は確かに周囲から尊敬され、家庭でも普通に時間が流れ、何一つ不都合な事は無かった。
それが今はどうだろう。
息子から連日論破され、患者からも時々、罵られる光景が出てきた。
満月を見上げた。
少しムシャクシャした。
はけ口を求めたくなった。
ふと通りがかりに居酒屋があった。
酒にストレスを紛らせたくなった。
居酒屋のドアを開けた。
「いらっしゃ〜い!」
威勢の良い誘導の声でカウンター席に案内される。
チビチビと酒を呑み、肴をつまむ。
酔いが回ってきた。
心地良かった。
更に銘酒を追加して酒坏を重ねた。
目が座ってきた。
ため息をつく。
更に日本酒を追加して酒坏を重ねた。
目が座り気持ちが高まる。
ふとカウンターで飲んでいる他の客と目が合った。
客が絡んできた。
相手も少し酔っ払っている。
酔っ払い客
「てやんで〜、今はよ〜、インチキだらけだ。」
医師の夫
「・・・・・。」
酔っ払い客
「まあ、ひどいもんだ〜。ヤブ医者の連中がやりたい放題しやがって〜、無茶苦茶だ〜。」
医師の夫
「何だと!ヤブ医者とは何だヤブ医者とは!」
酔っ払い客
「あ〜?何言ってんだ〜?」
医師の夫
「ヤブ医者って言ったなお前。え!」
酔っ払い客
「なんだよ〜、ヤブ医者だらけじゃね〜か。本当の事を言ってどこが悪いんだよ!お!」
医師の夫
「何だこの野郎!」
酔っ払い客
「おい!誰にものを言ってんだ〜?あ〜?」
医師の夫
「何だこの野郎!カモ〜ン!」
酔っ払い客
「あ〜?やる気か〜?あ〜?アントニオ猪木になったつもりか〜?お〜?」
医師の夫
「何だこの野郎!」
酔っ払い客
「お〜い、表に出ろや〜!」
医師の夫
「上等だ!受けて立ってやる〜!」
居酒屋スタッフが混雑している他の席の接客をしてカウンターでの悶着に気付かず、医師の夫
と酔っ払い客が絡み合いながら店の外に出る。
医師の夫は先日見たばかりのプロレスのDVDの映像が脳裏をよぎりアントニオ猪木になったつもりになった。
そして何故か先日思い付きで入ったボクシングジムで数分でリタイアしたとは言え、記憶の残像に
あるボクシングポーズをにわかに思い出し、路上でボクシングのファイティングポーズを構えた。
酔っ払い客
「ほ〜、やる気だな〜?あ〜?」
医師の夫
「何だこの野郎!」
酔っ払い客
「どこの酔っ払いか知らんが、ふざけるんじゃね〜ぞ。」
そうして次の瞬間、酔っ払いが放ったパンチが
医師の夫の脇腹にめり込んだ。
強烈なボディーブローとなった。
うずくまる医師の夫。
そのまま路上にうずくまり立ち上がれない。
と、うずくまった医師の夫の胸ポケットから名刺入れが路上に落ちて、自分の名刺が数枚ほど路上に散乱した。
歩み寄り、酔っ払い客がその散乱した名刺を手にして見た。
酔っ払い客
「ん・・・、藪病院内科医・・・。」
自分が殴った酔っ払いが藪病院内科医だと知った瞬間、その酔っ払い客は慌てて店内に戻った。
酔っ払い客
「マスターよ。俺、ちょっと帰るわな。精算は表で酔い潰れてる奴が一緒に払うらしいから。
俺はここで帰るわな〜。」
居酒屋店長
「ありがとうございました。」
そうして酔っ払い客はタクシーをつかまえてそのまま乗り込み足早に去って行った。
居酒屋店長やスタッフが店の外に出る。
路上でうつ伏せになったまま起き上がらない医師の夫を抱えて店内に連れこむ。
居酒屋店長
「お客さん、お客さん!ちょっと大丈夫ですか?」
しばらくゆすったり抱き起こしたりしても医師の夫は完全に酔い潰れていびきをかいている。
居酒屋店長
「仕方ない。更衣室に連れていき寝かせておけ。」
居酒屋スタッフ
「はい、分かりました。」
そうして完全に酔い潰れて寝入ってしまった医師の夫は奥の更衣室に運ばれて寝かされた。
そうして他の席ではそれぞれの話に花が咲き、賑わいを見せていた。
次々と他の客が入ってきてはまた精算して出ていく客と入れ替っていく。
夜が更けていった。
つづく。