医師の家庭物語(17)
医師の夫は自分を取り戻す唯一の居場所になっている藪病院に向かう。
いつものフロア、いつもの診察室、いつもの看護師たち。
長らく居心地が良く竜宮城のように感じられてきた自分の聖域に息子の健二が茹で卵の差し入れと称して立ち入るようになってから僅か数日で藪病院全館が茹で卵の話題に染まり、看護師たちに健二が存在感を植え付けてしまっている。
今日も健二が茹で卵を持ってくるという。
看護師たちが時折、健二の事を話題にしている。
たまらず廊下に出た。
看護師たちが数名歩いてくる。
看護師たち
「あ、先生。今日も茹で卵楽しみにしています!
健二さんが来るの楽しみです〜。」
医師の夫
「あ、ああ。茹で卵ね。はいはい。」
僅か数日で俺の顔を見るなり看護師たちは開口一番に茹で卵、健二と話題にする。
一体何なんだ。
健二の存在感は一体何なんだ。
この俺は何十年とこの藪病院で勤め看護師たちも長年俺の部下として勤務している者が多数いる。
しかし、僅か数日で健二のほうが看護師たちに受け入れられているではないか。
医師の夫は不快感に包まれてきた。
自宅では連日のように隆と健二に反発され、連日のように論破され、もはや父親としての
威厳を示せない。
あろうことかこの聖域までを健二に制圧されようとしている。
医師の夫は考えた。
何か妙案はないだろうか。
ふと閃いた。
俺はやはり天才だとほくそ笑んだ。
意気揚々と診察室に戻っていく。
自分が席を外していた間に代わりを務めていた研修医が頭を下げて交代する。
医師の夫
「ああ、ご苦労ご苦労。」
研修医
「お疲れ様です。」
医師の夫
「山下くん、夕方から僕はちょっと巡回に出向いてくるからね。」
看護師の山下
「あら先生、夕方には健二さんがお見えになるのでは?」
医師の夫
「ああ、仕方ないねえ。巡回も大切だからねえ。
山下くん、健二から茹で卵を受け取っておいてくれないかな。」
看護師の山下
「あら先生、せっかく健二さんがお見えになるのですから、一緒に茹で卵でも食べたらどうですか?」
医師の夫
「せっかくだけどね、俺は忙しいんだ。巡回が大切だよ。」
そうして一人の若者が診察室に誘導されてくる。
医師の夫
「どうされましたか?」
若者
「毎日電車に乗ると喉が痛くなるんです。
電車から降りるとしばらくして何ともなくなるのですが。」
医師の夫
「電車に何か嫌なことでもあるのかな?」
診察室の奥からクスッと笑う看護師の声が漏れてくる。
若者
「電車は567液体を打った人ばかりでしょ。
薬品みたいな臭いがする人もいますし。
先生、打った人からのシェディング被害でしょうか?」
医師の夫
「いや、それは無いですよ。」
若者
「昨日もサウナに行ったら湿疹ができました。
サウナにも液体を打った人ばかりが入ってるでしょう?
今までこんな事無かったですよ?」
医師の夫
「何か体調が良くないからでしょう。」
若者
「違いますよ!俺はいつも元気っすよ!」
医師の夫
「まあ、たまたま湿疹が出たんでしょう。」
若者
「先生、やはりシェディング被害ではないですか。
サウナは今までも何年も行ってますよ。」
医師の夫
「最近はやたらと陰謀論者が増えてるからね。
君も良からぬ言説を鵜呑みにしないで医者の言うことをよく聞いたほうが良いな。」
若者
「違いますよ!製薬企業を辞めた社員が発表していたじゃないですか!打たない人に打った
人から悪影響が生じるって!」
医師の夫
「そんなことないだろ。」
若者
「先生、何を言ってるんですか!やってられないですよ、こんなんじゃ!」
静まりかえる診察室。
看護師たちは沈黙する。
医師の夫
「じゃあ何かな? 君は私が間違っているとでも言いたいのかね?」
若者
「あ〜、もういいですわ!他の病院に行きますわ!」
医師の夫
「残念だがね、変な医者も今は多いから気をつけなさい。」
若者
「あ〜、分かってないな〜!ほんと尊敬できる大人がいないんだよ!今は!」
そうして若者が不機嫌に診察室を出ていく。
沈黙が診察室を包み込む。
「あ〜、頭悪いな〜、あの医者!」
若者の声が廊下から響く。
固まる医師の夫。
沈黙する看護師たち。
「このヤブ医者!やってられないぜ!」
再び若者の声が廊下から響く。
沈黙を続ける看護師たち。
静寂が診察室を包み込む。
沈黙したまま作業や事務処理を続ける看護師たち。
沈黙が流れる。
間合いが悪くなった。
看護師たちの沈黙が続く。
気まずい空気が診察室に淀み続ける。
更に間合いが悪くなった。
たまらず席を外す医師の夫。
医師の夫
「山下くん、ちょっと席を外すよ。」
看護師の山下
「承知しました。」
そうして医師の夫は廊下を歩き深呼吸をした。
聖域で発せられた耳を疑う言葉。
「ヤブ医者!」
脳裏に連日食卓で息子の隆や健二から浴びせられてきた言葉がフラッシュバックした。
「お父さん、ヤブ医者だな。」
そして先程の若者が廊下で叫んだ言葉が再びフラッシュバックされた。
「このヤブ医者!」
医師の夫は愕然とした。
食卓と聖域と、2つの空間が今自分の中で繋がった。
何かが違う。
世の中が何か動いているようだ。
医師の夫は周囲の異変を感じ始めた。
そうして階段を降りていき待合室に出向いてみる。
待合室はそれなりに混雑している。
待合室に座っている人混みの中から声が漏れてくる。
待合室の子供
「あ、この前、満月に吠えていたおっさんだ!」
待合室の母親
「コラッ、余計な事を言わないの。」
待合室の子供
「あのおっさんだよ!満月に吠えていたの。」
待合室の母親
「コラッ、何を言うの!あれはお医者さんよ。」
待合室の子供
「だってあのおっさんだもん!満月に叫んでいた変な人。」
待合室の母親
「コラッ!何を失礼な。人違いよ。お医者さんがそんな狼男みたいな事をするわけないでしょ!」
待合室の子供
「間違いないよ!あのおっさんだよ。覚えてるんだから!間違いないよ!」
医師の夫は固まった。
よりによって帰宅途中にストレス発散にと誰もいない広い場所で満月に向かって叫んだ場面に遭遇した通りがかりの母子が藪病院に来ているなんて。
白衣の下の背中に冷たい汗が流れていく。
ここは白衣姿で威厳を示し、何事も無かったかのように待合室を歩いていくのが無難だ。
冷静さを装い医師の夫は待合室を横切っていく。
待合室の子供
「狼男だ!」
待合室の母親
「コラッ!お医者さんに向かって何という失礼なことを!」
待合室の子供
「だって本当だよ!狼男だもん!」
待合室の母親
「コラッ!いい加減にしなさい!」
待合室を横切りながら医師の夫は肝を冷やした。
子供の何という鋭い感性と記憶力であろうか。
幸いにも母親のほうは満月に吠えた俺に気付いていないようだ。
待合室を横切りつつ、足が止まる。
そして何故か待合室のソファに座って順番待ちをしているその母子のところに向かって歩き始めた。
これが犯罪者の心理だろうか。
犯罪者は不安になり何故か犯行現場を見に行くと言う。
そうして自ら墓穴を掘るのだ。
まるでやましい事をした者がやましい思いを隠そうとして墓穴を掘るように、何故か医師の夫は待合室に座って順番待ちをしている母子のところに向かって歩いて行った。
待合室の子供
「お母さん、狼男がこっちに来るよ!」
待合室の母親
「コラッ!さっきからいい加減にしなさい!
お医者さんに向かって何という失礼な事を言うの!」
そうして待合室の母子の前に立つ医師の夫。
医師の夫
「何かお困りの事でもございますか?」
待合室の母親
「あ、これはどうもすいません。息子がなにぶん幼いものでして。
先程から失礼なことを息子が叫んで申し訳ございませんでした。」
医師の夫
「いやいや、いいんですよ別に。」
待合室の子供
「いつも満月を見たら吠えるの?」
固まる医師の夫。
待合室の母親
「な、何という失礼なことを!コラッ!今日はいい加減にしなさい!
お医者さんに向かって何という失礼な!」
待合室の子供
「だって本当なんだもん!この人だよ、あの日の狼男は!」
医師の夫
「あはははは。僕ちゃん、いい子だね〜。」
待合室の子供
「あ、狼男も笑うんだ。」
待合室の母親
「本当にすいません。この子ったら、いつもはおとなしい良い子なんです。
珍しく今日は意味不明な失礼なことを何回も叫んでまして。」
医師の夫
「あはははは。いいんですよ。逞しくて良いお子さんですね。」
そうして努めて冷静を装い、笑顔を取り繕い待合室から離れていく。
白衣の下には冷たい汗が流れシャツが濡れていた。
待合室の子供
「狼男〜!」
待合室の母親
「コラッ!やめなさい。」
医師の夫はたまらず藪病院の外に出た。
看護師の山下の携帯にメールを流す。
「他の案件ができた。研修医の真田に診察を任せてくれ。」
看護師の山下から承知しましたとの返信が来る。
医師の夫はしばらく風に吹かれた。
夕暮れが近づいてきた。
そろそろ息子の健二が茹で卵を差し入れに持ってくる時間帯だ。
診察室に戻りたくない。
このまま巡回に入ることにして小一時間ほど時間を稼ごう。
看護師の山下にこのまま巡回に入る旨の携帯メールを流す。
息子の健二の応対は看護師たちと研修医の真田に任せて時間を稼ごう。
これはリスク回避の知恵だ。
やはり俺は頭脳明晰だ。
伊達に医者を長年しているわけではない。
人生経験の長さでは息子の隆や健二はまだ俺の足元にも及ばないさ。
不敵な笑みがつい漏れた。
最近しばらく歯車が噛み合わなかっただけさ。
何としても聖域は死守する。
なに、土俵を変えれば良いだけさ。
息子の健二の土俵に乗らなければ良いのさ。
そうしてまた不敵な笑みがつい漏れた。
どれだけ時間を稼いだだろうか。
すっかり外は夕闇に包まれた。
さすがに息子の健二も帰っただろう。
いくら看護師たちと長話に盛り上がったとしても
もう帰っている頃だ。
よし、もういいだろう。
意気揚々と診察室に戻っていく。
研修医の真田が頭を下げて代役を終えて交代し診察室から出ていく。
医師の夫
「ああ、ご苦労ご苦労。」
看護師の河田
「お疲れ様でした。」
医師の夫
「で、健二はもう帰ったかな?」
看護師の山下
「あら先生、まだ健二さんはお見えではないですよ。いつもの時間より遅いわね。」
医師の夫
「まだ?」
医師の夫は嫌な予感がした。
と、その時。
看護師の山下
「あら先生、健二さんがお見えですよ。」
医師の夫
「な、何!?」
看護師の山下
「あら健二さん、いらっしゃい。」
看護師の河田
「健二さん、待ってたわよ!」
若い看護師
「今日はいつもより遅いわね〜!」
固まる医師の夫。
医師の夫
「け、健二。今日は遅いじゃないか。」
息子の健二
「ああ、ちょっと所用が入ってね。家を出るのがいつもより遅くなったから。」
医師の夫
「そ、そうか。」
若い看護師
「わ〜い。健二さんの茹で卵、待ってましたわ。
今日も色々と話を聞かせてね!」
医師の夫は白衣の下に再び冷たい汗が流れ始めた。
時間稼ぎ作戦があまりにもあっさりと崩壊した瞬間だった。
診察室に戻ったばかりのこれから席を外すのは不自然すぎて、もはやその手口は使えない。
どうしよう。
逃げ場が無くなった。
診察室が健二の色に染められていくのか。
貧乏ゆすりが始まった。
つづく。