医師の家庭物語(15)
医師の夫は息子たちの成長と共に逞しく意見をぶつけてくるようになってきた反抗期の息子たちの指摘や意見になかなか対応できず、自分の中に何か足りないものがあるのではないかと感じるようになった。
これまで俺はレールの上を優等生として歩いてきたが、経験したことのない角度や視界に遭遇し自分を見失いかけている。
何かスカッとしたくなった。
毎日毎日、家庭では夫としてまた父親として妻と息子たちからサンドバッグにされている。
夫としてでもなく、父親としてでもない、もう一つの自我が欲しくなってきた。
そう、男としての自我である。
医師の夫は自分を奮い立たせたいと思った。
夫として妻に頭が上がらない。
父親として隆と健二に論破され嘲笑される毎日になっている。
医師としての俺は確かに竜宮城の中では輝いていた・・・筈である。
しかし健二が茹で卵を持ってきて僅か2回で看護師全てが健二の空気に染められてしまった。
俺の存在は何なんだ。
俺は一体何なんだ。
何か息子に打ちのめされたような虚しさと
敗北感に包まれてきた。
叫びたくなった。
男だぞ。
俺は男じゃないか。
何か湧き上がる力が欲しい。
夫としてでなく、父親としてでもなく、また医師としてでなく、この俺という一人の男としての自我を確かめたくなった。
何としても自分を奮い立たせたかった。
このまま竜宮城を健二色に染められてたまるか。
そういう中、帰宅途中にふと通りかかった通りにボクシングジムがあった。
体験レッスン歓迎とある。
ジムの前に立つと練習生がスパーリングをしたりシャドーボクシングをしている。
サンドバッグが天井から吊り下がっている。
サンドバッグ・・・・。
それはまさに今の俺ではないか。
妻や息子たちから毎日毎日サンドバッグ状態にされ竜宮城の診察室でも看護師たちはあっという間に健二に打ち解けられ、俺よりも上手く健二に引き込まれている。
俺を見くびるんじゃねえぞ。
俺はサンドバッグではない。
ふとボクシングジムに入っていった。
無料体験レッスンを受けたいと申し出た。
応対したトレーナー風の男が快く受け入れてくれグローブを渡された。
軽くジャブの練習をしましょうと誘導される。
シュッシュッとトレーナーがジャブを見せる。
それを真似てジャブを繰り出そうとグローブをはめた片手をシュッと前に出した瞬間、ブチッ
という感覚がして腕に激痛が走った。
うずくまる医師の夫。
大丈夫ですかと駆け寄るトレーナー。
腕が痙攣を起こして動けなくなった。
無料体験レッスンを始めて僅か数分も経過しないうちに呆気なく腕が痙攣を起こした。
何と情けない。
俺はこんなにも脆弱だったのか。
トレーナーから無理はしないでくださいと言われ、無料体験レッスンをリタイアした。
情けなかった。
これ以上はレッスンは無理だと言われ虚しく思い付きで入ったボクシングジムを出ていく。
叫びたくなった。
夜風が虚しく吹き抜けていく。
あまりにも虚しい。
俺は、この俺は、何なんだ。
医者だという肩書以外に全く何の取り柄もない。
スポーツは全くできない。
しかしそれを受験エリート時代は試験の成績でカバーして特に何かを感じることも無かった。
しかし受験という土俵ではない今は何を以て自我を確立するのか。
足も遅い。
いや、遅すぎて息子たちの小学校時代の運動会での地区対抗リレーでは先頭でバトンを受けてあっという間にゴボウ抜きされ圧倒的に大差をつけられて最下位。
町内会のソフトボール大会では華奢な近所の女の子よりも打てない、守れないという姿を晒して初戦負けの大元凶となり隣の奥様の激しい怒りを買った。
俺の代わりに健二が出場した時は健二がサヨナラホームランを放ちチー厶初の初戦突破。
隣の奥様が激しく喜んだ。
何をやっても自分が虚しくなっていく。
夜空を見上げた。
満月が美しく輝いていた。
叫びたくなった。
たまには誰もいない場所で大声を発してみたくなった。
満月を見ていると、何か野生の感覚が湧き上がってくるかのようだった。
医師の夫は深呼吸をした。
帰路に向かう住宅街から少し外れた一角に広いスペースがあった。
周囲には誰もいない。
少しなら大声を出してストレスを発散しても良いだろう。
満月を見上げた。
・・・・・・・・、・・・・・。
「うおおおおお!なめんじゃね〜ぞ!うおおお!」
満月に向かって声を張り上げて叫んだ。
すっきりした。
もう一度、叫びたくなった。
「うおおおおお!俺はエリートだあ!!」
満月に向かって再び声を張り上げた。
すっきりした。
何か快感が胸を駆け巡った。
通りがかりの子供
「あのおじちゃん、疲れてるのかな?」
通りがかりの母親
「コラッ!余計な事を言わないの!聞こえるわよ。」
通りがかりの子供
「何を叫んでるんだろ?」
通りがかりの母親
「変なおじちゃんに近づいたらダメよ。物騒な世の中だから。」
そうして医師の夫はすっかり夜も更けた住宅街の道を歩いて帰路に向かい自宅前にまで来た。
いつも帰宅時間が遅いため夕食は妻や息子たちと一緒にとることはない。
時に外食をして帰るが、大抵は妻が作り置きしている夕食を一人で食卓に腰掛けて夜食同然
の妻の料理を食べる。
2階の息子たちの部屋には灯りが点っている。
妻も2階に上がっている時間帯だ。
玄関のドアを開ける。
「ただいま〜。」
反応はいつものように皆無である。
台所に入っていく。
妻も息子たちも2階でくつろいでいる。
遅めの夕食をこれから頂こう。
自分の席の食卓の上にはサランラップに巻かれたご飯と惣菜、煮魚と妻が茹でた茹で卵が2つ作り置いてあった。
つづく。