私見
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【馬渕睦夫】世界中で日本人だけが持つ〇〇という能力。
※馬渕氏が「出色の作品」という「神神の微笑 かみがみのびしょう」 芥川龍之介はどのような作品なのか。
知らなかったので、調べてみた。
「作り変える力」が、なるほど日本人の特徴なのかもしれない。
またこの作品を読んでみると、今当ブログが散々採りあげている「ゼウス」がでてくる。
文中では、「デウス」となっている。
ゼウスは負けたのだ。
※※
このサイトは、日本文学を山のように収めて公開している。
インターネットは我々日本人に多くの情報を与えてくれる。
デジタル化された頭には、このアナログが理解できるのか。
「読む」「書く」力が急速に失われた日本。
しかし、紙の本を読むのは難しい環境がある。
文章から離れると、日本語も怪しくなる。
昔の文学には言葉の使い方、表現にパワーを感じる。
私は文系ではなかったこともあり、本を読むということは、かなり大人になってから目覚めたのかもしれない。
書籍は収納に場所を取る。
引っ越すたびに捨ててきた。
場所さえあればとっておきたいものは多くある。
地球は狭いというのも「嘘」らしい。
日本人が狭い狭い住宅で我慢しているのも騙されているということである。
昨今の「断捨離」は、「罠」だと思う。
未来のテクノロジーが提供されれば、我慢することなく生活ができるだろう。
また脱線したが、「神神の微笑」 芥川龍之介 をどうぞ
ちなみに芥川龍之介の作品はこちら龍之介の字が違っているがこれである。
作品を選んでダウンロードするか、「いますぐXHTML版で読む]をクリックする。
私見おわり
1922年
ある春の夕ゆうべ、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣ほうえ)の裾すそを引きながら、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。
庭には松や檜ひのきの間あいだに、薔薇ばらだの、橄欖かんらんだの、月桂げっけいだの、西洋の植物が植えてあった。
殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽かすかにする夕明ゆうあかりの中に、薄甘い匂においを漂わせていた。
それはこの庭の静寂に、何か日本にほんとは思われない、不可思議な魅力みりょくを添えるようだった。
オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径こみちを歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬ロオマの大本山だいほんざん、リスポアの港、羅面琴ラベイカの音ね、巴旦杏はたんきょうの味、「御主おんあるじ、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――
そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛こうもうの沙門しゃもんの心へ、懐郷かいきょうの悲しみを運んで来た。
彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須デウス(神)の御名みなを唱えた。
が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。
「この国の風景は美しい――。」
オルガンティノは反省した。
「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。
土人は、――あの黄面こうめんの小人こびとよりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。
しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。
のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。
現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳そびえている。
して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか?
が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。
リスポアの市まちへ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。
これは懐郷の悲しみだけであろうか?
いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。
支那しなでも、沙室シャムでも、印度インドでも、――
つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。
自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。
しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
オルガンティノは吐息といきをした。
この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔こけに落ちた、仄白ほのじろい桜の花を捉とらえた。
桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立こだちの間あいだを見つめた。そこには四五本の棕櫚しゅろの中に、枝を垂らした糸桜いとざくらが一本、夢のように花を煙らせていた。
「御主おんあるじ守らせ給え!」
オルガンティノは一瞬間、降魔ごうまの十字を切ろうとした。
実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜しだれざくらが、それほど無気味ぶきみに見えたのだった。
無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故なぜか彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。
が、彼は刹那せつなの後のち、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。
× × ×
三十分の後のち、彼は南蛮寺なんばんじの内陣ないじんに、泥烏須デウスへ祈祷を捧げていた。
そこにはただ円天井まるてんじょうから吊るされたランプがあるだけだった。
そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸しがいを争っていた。
が、勇ましい大天使は勿論、吼たけり立った悪魔さえも、今夜は朧おぼろげな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。
それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々みずみずしい薔薇ばらや金雀花えにしだが、匂っているせいかも知れなかった。
彼はその祭壇の後うしろに、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無なむ大慈大悲の泥烏須如来デウスにょらい!
私わたくしはリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。
ですから、どんな難儀に遇あっても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯ひるまずに進んで参りました。
これは勿論私一人の、能よくする所ではございません。
皆天地の御主おんあるじ、あなたの御恵おんめぐみでございます。
が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難かたいかを知り始めました。
この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜ひそんで居ります。
そうしてそれが冥々めいめいの中うちに、私の使命を妨さまたげて居ります。
さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。
ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。
が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。
まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来デウスにょらい!
邪宗じゃしゅうに惑溺わくできした日本人は波羅葦増はらいそ(天界てんがい)の荘厳しょうごんを拝する事も、永久にないかも存じません。
私はそのためにこの何日か、煩悶はんもんに煩悶を重ねて参りました。
どうかあなたの下部しもべ、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。
が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私わたくしは使命を果すためには、この国の山川やまかわに潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。
あなたは昔紅海こうかいの底に、埃及エジプトの軍勢ぐんぜいを御沈めになりました。
この国の霊の力強い事は、埃及エジプトの軍勢に劣りますまい。
どうか古いにしえの予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇くちびるから消えてしまった。
今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴けいめいが聞えたのだった。
オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。
すると彼の真後まうしろには、白々しろじろと尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨ときをつくっているではないか?
オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇そうこうとこの鳥を逐い出そうとした。
が、二足三足ふたあしみあし踏み出したと思うと、「御主おんあるじ」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。
この薄暗い内陣ないじんの中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、
――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠とさかの海にしているのだった。
「御主、守らせ給え!」
彼はまた十字を切ろうとした。
が、彼の手は不思議にも、万力まんりきか何かに挟はさまれたように、一寸いっすんとは自由に動かなかった。
その内にだんだん内陣ないじんの中には、榾火ほたびの明あかりに似た赤光しゃっこうが、どこからとも知れず流れ出した。
オルガンティノは喘あえぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧もうろうとあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
人影は見る間まに鮮あざやかになった。それはいずれも見慣れない、素朴そぼくな男女の一群ひとむれだった。
彼等は皆頸くびのまわりに、緒おにぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。
内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨ときをつくり合った。
同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画えを描かいた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。
その跡には、――
日本の Bacchanalia は、呆気あっけにとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼しんきろうのように漂って来た。
彼は赤い篝かがりの火影ほかげに、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交かわしながら、車座くるまざをつくっているのを見た。
そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶おけを伏せた上に、踊り狂っているのを見た。
桶の後ろには小山のように、これもまた逞たくましい男が一人、根こぎにしたらしい榊さかきの枝に、玉だの鏡だのが下さがったのを、悠然と押し立てているのを見た。
彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根おばねや鶏冠とさかをすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。
そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。
――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋いわやの戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。
彼女の髪を巻いた蔓つるは、ひらひらと空に翻ひるがえった。
彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰あられのように響き合った。
彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。
しかもその露あらわにした胸!
赤い篝火かがりびの光の中に、艶々つやつやと浮うかび出た二つの乳房ちぶさは、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。
彼は泥烏須デウスを念じながら、一心に顔をそむけようとした。
が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪のろいの力か、身動きさえ楽には出来なかった。
その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。
桶の上に乗った女も、もう一度正気しょうきに返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。
いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。
するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私わたしがここに隠こもっていれば、世界は暗闇になった筈ではないか?
それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝まさった、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
その新しい神と云うのは、泥烏須デウスを指しているのかも知れない。
――オルガンティノはちょいとの間あいだ、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
沈黙はしばらく破れなかった。
が、たちまち鶏の群むれが、一斉いっせいに鬨ときをつくったと思うと、向うに夜霧を堰せき止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐おもむろに左右へ開ひらき出した。
そうしてその裂さけ目からは、言句ごんくに絶した万道ばんどうの霞光かこうが、洪水のように漲みなぎり出した。
オルガンティノは叫ぼうとした。
が、舌は動かなかった。
オルガンティノは逃げようとした。
が、足も動かなかった。
彼はただ大光明のために、烈しく眩暈めまいが起るのを感じた。
そうしてその光の中に、大勢おおぜいの男女の歓喜する声が、澎湃ほうはいと天に昇のぼるのを聞いた。
「大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴おおひるめむち! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆さからうものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴! 大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴!」
そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………
その夜よも三更さんこうに近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。
彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。
が、あたりを見廻すと、人音ひとおとも聞えない内陣ないじんには、円天井まるてんじょうのランプの光が、さっきの通り朦朧もうろうと壁画へきがを照らしているばかりだった。
オルガンティノは呻うめき呻き、そろそろ祭壇の後うしろを離れた。
あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。
しかしあの幻を見せたものが、泥烏須デウスでない事だけは確かだった。
「この国の霊と戦うのは、……」
オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語ごとを洩らした。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
するとその時彼の耳に、こう云う囁ささやきを送るものがあった。
「負けですよ!」
オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透すかして見た。
が、そこには不相変あいかわらず、仄暗ほのぐらい薔薇や金雀花えにしだのほかに、人影らしいものも見えなかった。
× × ×
オルガンティノは翌日の夕ゆうべも、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。
しかし彼の碧眼へきがんには、どこか嬉しそうな色があった。
それは今日一日いちにちの内に、日本の侍が三四人、奉教人ほうきょうにんの列にはいったからだった。
庭の橄欖かんらんや月桂げっけいは、ひっそりと夕闇に聳えていた。
ただその沈黙が擾みだされるのは、寺の鳩はとが軒へ帰るらしい、中空なかぞらの羽音はおとよりほかはなかった。
薔薇の匂におい、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子おみなごの美しきを見て、」妻を求めに降くだって来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢けがらわしい日本の霊の力も、勝利を占しめる事はむずかしいと見える。
しかし昨夜ゆうべ見た幻は?
――いや、あれは幻に過ぎない。
悪魔はアントニオ上人しょうにんにも、ああ云う幻を見せたではないか?
その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。
やがてはこの国も至る所に、天主てんしゅの御寺みてらが建てられるであろう。」
オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径こみちを歩いて行った。
すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。
彼はすぐに振り返った。
しかし後には夕明りが、径みちを挟んだ篠懸すずかけの若葉に、うっすりと漂ただよっているだけだった。
「御主おんあるじ。守らせ給え!」
彼はこう呟つぶやいてから、徐おもむろに頭かしらをもとへ返した。
と、彼の傍かたわらには、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸くびに玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐おもむろに歩みを運んでいた。
「誰だ、お前は?」
不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私わたしは、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
老人は微笑びしょうを浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間あいだ、御話しするために出て来たのです。」
オルガンティノは十字を切った。
が、老人はその印しるしに、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。
御覧なさい、この玉やこの剣を。
地獄じごくの炎ほのおに焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。
さあ、もう呪文じゅもんなぞを唱えるのはおやめなさい。」
オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教てんしゅきょうを弘ひろめに来ていますね、――」
老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。
しかし泥烏須デウスもこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須デウスは全能の御主おんあるじだから、泥烏須に、――」
オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀ていねいな口調を使い出した。
「泥烏須デウスに勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。
まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須デウスばかりではありません。
孔子こうし、孟子もうし、荘子そうし、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。
しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。
支那の哲人たちは道のほかにも、呉ごの国の絹だの秦しんの国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。
いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙れいみょうな文字さえ持って来たのです。
が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか?
たとえば文字もじを御覧なさい。
文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。
私が昔知っていた土人に、柿かきの本もとの人麻呂ひとまろと云う詩人があります。
その男の作った七夕たなばたの歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。
牽牛織女けんぎゅうしょくじょはあの中に見出す事は出来ません。
あそこに歌われた恋人同士は飽あくまでも彦星ひこぼしと棚機津女たなばたつめとです。
彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天あまの川がわの瀬音せおとでした。
支那の黄河こうがや揚子江ようすこうに似た、銀河ぎんがの浪音ではなかったのです。
しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。
人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。
が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。
舟しゅうと云う文字がはいった後のちも、「ふね」は常に「ふね」だったのです。
さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。
これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。
のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。
空海くうかい、道風どうふう、佐理さり、行成こうぜい――
私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。
彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟ぼくせきです。
しかし彼等の筆先ふでさきからは、次第に新しい美が生れました。
彼等の文字はいつのまにか、王羲之おうぎしでもなければ※(「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1-91-82) 遂良ちょすいりょうでもない、日本人の文字になり出したのです。
しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。
我々の息吹いぶきは潮風しおかぜのように、老儒ろうじゅの道さえも和やわらげました。
この国の土人に尋ねて御覧なさい。
彼等は皆孟子もうしの著書は、我々の怒に触ふれ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆くつがえると信じています。
科戸しなとの神はまだ一度も、そんな悪戯いたずらはしていません。
が、そう云う信仰の中うちにも、この国に住んでいる我々の力は、朧おぼろげながら感じられる筈です。
あなたはそう思いませんか?」
オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎うとい彼には、折角せっかくの相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後のちに来たのは、印度インドの王子悉達多したあるたです。――」
老人は言葉を続けながら、径みちばたの薔薇ばらの花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅かいだ。
が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀ぶっだの運命も同様です。
が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。
ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡ほんじすいじゃくの教の事です。
あの教はこの国の土人に、大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴おおひるめむちは大日如来だいにちにょらいと同じものだと思わせました。
これは大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴の勝でしょうか?
それとも大日如来の勝でしょうか?
仮りに現在この国の土人に、大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。
それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中うちには、印度仏ぶつの面影おもかげよりも、大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴が窺うかがわれはしないでしょうか?
私わたしは親鸞しんらんや日蓮にちれんと一しょに、沙羅双樹さらそうじゅの花の陰も歩いています。
彼等が随喜渇仰ずいきかつごうした仏ほとけは、円光のある黒人こくじんではありません。
優しい威厳いげんに充ち満ちた上宮太子じょうぐうたいしなどの兄弟です。
――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。
つまり私が申上げたいのは、泥烏須デウスのようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」
「まあ、御待ちなさい。御前おまえさんはそう云われるが、――」
オルガンティノは口を挟はさんだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教おんおしえに帰依きえしましたよ。」
「それは何人なんにんでも帰依するでしょう。
ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多したあるたの教えに帰依しています。
しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。
造り変える力なのです。」
老人は薔薇の花を投げた。
花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。
「なるほど造り変える力ですか?
しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。
どこの国でも、
――たとえば希臘ギリシャの神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」
「大いなるパンは死にました。
いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。
しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
「お前さんはパンを知っているのですか?」
「何、西国さいこくの大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字よこもじの本にあったのです。
――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。
いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。
我々は古い神ですからね。
あの希臘ギリシャの神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」
「しかし泥烏須デウスは勝つ筈です。」
オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。
が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
「私わたしはつい四五日前まえ、西国さいこくの海辺うみべに上陸した、
希臘ギリシャの船乗りに遇あいました。
その男は神ではありません。
ただの人間に過ぎないのです。
私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。
目一つの神につかまった話だの、人を豕いのこにする女神めがみの話だの、声の美しい人魚にんぎょの話だの、
――あなたはその男の名を知っていますか?
その男は私に遇あった時から、この国の土人に変りました。
今では百合若ゆりわかと名乗っているそうです。
ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須デウスも必ず勝つとは云われません。
天主教てんしゅきょうはいくら弘ひろまっても、必ず勝つとは云われません。」
老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須デウス自身も、この国の土人に変るでしょう。
支那や印度も変ったのです。
西洋も変らなければなりません。
我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。
薔薇ばらの花を渡る風にもいます。
寺の壁に残る夕明ゆうあかりにもいます。
どこにでも、またいつでもいます。
御気をつけなさい。
御気をつけなさい。………」
その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。
と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。
× × ×
南蛮寺なんばんじのパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。
悠々とアビトの裾すそを引いた、鼻の高い紅毛人こうもうじんは、黄昏たそがれの光の漂ただよった、架空かくうの月桂げっけいや薔薇の中から、一双の屏風びょうぶへ帰って行った。
南蛮船なんばんせん入津にゅうしんの図を描かいた、三世紀以前の古屏風へ。
さようなら。パアドレ・オルガンティノ!
君は今君の仲間と、日本の海辺うみべを歩きながら、金泥きんでいの霞に旗を挙げた、
大きい南蛮船を眺めている。
泥烏須デウスが勝つか、大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴おおひるめむちが勝つか――それはまだ現在でも、容易よういに断定だんていは出来ないかも知れない。
が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。
君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。
たとい君は同じ屏風の、犬を曳ひいた甲比丹カピタンや、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船くろふねの石火矢いしびやの音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。
それまでは、
――さようなら。パアドレ・オルガンティノ!
さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連バテレン!
(大正十年十二月)
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月10日修正
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