第1部 堕天使と洪水伝承
2章 ①知恵と黙示
■知恵文学と黙示文学
この章では、イスラエルの知恵思想と黙示思想を扱うことにします。
知恵と黙示は深くかかわりあっていますが、この二つの関係はイスラエルの歴史から生じたもので、それだけに複雑です。
以下では、先ずイスラエルの古代の祭儀について見た上で、知恵思想から黙示思想への移行についてやや詳しく考察します。
知恵も黙示も、ナザレのイエスに働いていた神の聖霊、すなわちイエスの霊性に深くかかわっているからです。それだけでなく、黙示と知恵とは、共観福音書とヨハネ福音書を知る上でとても重要です。と言うよりも、ヨハネ黙示録にいたる新約聖書全体を読む上でもです。
そこでまず、知恵文学と黙示文学の主な文書を紹介することから始めましょう。
ここで言う「知恵」は、ヘブライ語で「ホクマー/ホフマー」、ギリシア語で「ソフィア」、英語では“wisdom”です。この知恵は、主として旧約時代の捕囚以降から新約時代にかけてイスラエルの宗教と思想に表われ、「知恵文学」と呼ばれる一群の文書によって代表されます。
それらはヨブ記、箴言、コヘレトの言葉などで、いずれも前400年~前200年頃に成立したものです。
ただし、内容的には、はるか以前にさかのぼります。
さらに旧約の外典(新共同訳の続編)では、シラ書(前190年頃?)と知恵の書(前80年頃?)があります。また知恵文学には入りませんが、新約時代では、イエスの語録集や『トマス福音書』なども知恵の流れを汲むと言えましょう。
イスラエルの知恵は、古代エジプトと古代バビロニアの知恵思想が、その主な源流と考えられますが、これにイスラエルの民が定住する以前からの土着のカナンの宗教も加えていいでしょう。
箴言はかつて「ソロモンの箴言」と言われ、知恵の書もまた「ソロモンの知恵」と呼ばれるように、イスラエルでは、知恵思想は、ソロモン王の時代に初めて重要視されるようになりました。
しかし、「知恵」そのものは、この時代から始まるのではなく、ノアは「彼によって人類が生き残ることができた人」(シラ書44章17節)として、アブラハムに先立つ知恵の人とされています。
エゼキエルも、ノアとダニエルとヨブを「自分の命を救うことのできた」イスラエルの3人の「正しい人」としてあげていますが(エゼキエル14章14節)、この「正しい人」とは「知恵の人」の意味です。
知恵の人としてのノアは、古代のバビロニア神話『ギルガメシュ』に出てくるウト・ナピシュティムという賢者までさかのぼることができます。
「黙示」はギリシア語で「アポカリュプシス」、英語では“apocalypse”です。「黙示」ついては説明が必要です。
なぜならギリシア語の「アポカリュプシス」は「啓示」のことで、新約聖書では、このギリシア語は「啓示」の意味で用いられています(ガラテヤ人への手紙1章12節に「イエス・キリストの啓示」とあるのがその代表的な例です)。
しかし、「イエス・キリストのアポカリュプシス」という言い方が、ヨハネ黙示録の冒頭にもでてきます。
だからこれを「ヨハネの受けた啓示」と訳してもいいのですが、ヨハネ黙示録の啓示の様式は、新約聖書の他の文書と比べると異なる様式の「啓示」であることが分かります。
このために、この文書で語られるような啓示の様式を他の場合と区別して「黙示」と呼ぶようになりました。
「啓示」とは、神が人にご自身を、あるいは真相を顕わす場合を言い、「黙示」はより狭い意味で、ヨハネに与えられた「黙示」のような特殊な形式の啓示を意味します〔織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』61頁〕。
ヨハネ黙示録の啓示様式は、天使を仲介として終末あるいはそこにいたるまでの隠されていた出来事を目に見える幻として人に現わします。
このような様式を「黙示文学」と言います。
だからギリシア語の原語には、ほんらい「啓示」と「黙示」の区別がありません。
これを区別したのはラテンの教会で、ヒエロニュムスのラテン語訳聖書(ウルガタ)では、同じギリシア語を「啓示」(revelatio)と「黙示」(apocalypsis)とに訳し分けています。
英語では“revelation”(啓示)と“apocalypse”(黙示)です(英語の“apocalypse”は「黙示」の意味で用いられることが多いのですが、「啓示」の意味もあります)。
正典の黙示文学としては、ダニエル書(前2世紀)が代表的な文書と言えましょう。
ダニエル書に続いて主ものだけをあげると、まず『エチオピア語エノク書』があります。
これは『第一エノク書』とも呼ばれ、アラム語からエチオピア語に訳されたと見られています。
アラム語原本は、前450年頃?から前100年頃にいたるまでの諸文書を含んでいます。
『スラヴ語エノク書』は『第二エノク書』とも呼ばれ、原本はギリシア語で前1世紀です。
『シビュラの託宣』は、その断片と第3~5巻で構成され、複数の著者によるもので、第3巻目は前140年頃、第4巻目は紀元後80年頃、第5巻目は後130年頃です。
新共同訳の続編にあるラテン語エズラ記は、後1世紀末頃に成立しました。
これの原本はヘブライ語で、その3~14章までは『第四エズラ記』と呼ばれています。
なお、これの1~2章と15~16章は後のキリスト教の加筆です。
『シリア語バルク黙示録』の原本はギリシア語/ヘブライ語で、原本の成立は紀元後2~3世紀頃です。
これらはユダヤ教の黙示文学ですが、これとは別にキリスト教の黙示文学も多くあり、それらの原本はギリシア語です。
主なものでは、まずマルコ福音書13章が「小黙示録」(65~70年頃)と呼ばれています。
次いでヨハネ黙示録(1世紀末頃)があり、『預言者イザヤの殉教と昇天』(1~2世紀頃)があります。
これの前半はユダヤ教の文書で、後半はキリスト教起源です。
また、『ペテロの黙示録』(2世紀前半)があります。
『第五エズラ記』(後200年前後)とは、先のラテン語エズラ記(『第四エズラ記』)の1~2章のことです。
『シビュラの託宣』は先にもでてきましたが、これの1~2巻と6~8巻の部分は、キリスト教的であると見なされていますが、1~2巻はほんらいユダヤ教の文書をキリスト教化したものです。
『シビュラの託宣』のキリスト教的な部分は、複数の著者によって、2世紀半ばから3世紀初めに成立しました。
『第六エズラ記』(3~4世紀)とは、先のラテン語エズラ記の15~16章のことです。そのほかに、『パウロの黙示録』(4世紀末)などがあります。
黙示思想それ自体はダニエル書に始まるのではなく、それ以前に、すでにイザヤ書24~27章(前560~550年頃)は、「イザヤの黙示」と呼ばれています。
イザヤ書60~62章(前515年前後)は、第三イザヤの一部ですが、これにも黙示的な描写がでてきます。さらにゼカリヤ書があります。
これは1~8章(第一ゼカリヤ)と9~11章(第二ゼカリヤ)と12~14章(第三ゼカリヤ)に分けられていて、二人あるいは3人の作者によるものでしょう。
ゼカリヤの預言活動は前520~518年ですが、第二と第三ゼカリヤは前4世紀頃です。
なおこれらのほかに黙示思想の流れを汲むものとしては、死海写本と呼ばれるクムラン宗団の文書群(前175年?~前40年?)の中にある『ダマスコ文書』や『戦いの書』があります。
■古代イスラエルの祭儀
ここで古代イスラエルの祭儀について説明します。古代イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し(紀元前14世紀後半頃か?)、カナンに定住して、強力なダビデ王国を築くにいたりました(紀元前1000年頃)。
現在では、イスラエルは、もともと単一民族であったと考えられてはいません。
カナンに侵入する以前に、おそらくアラビア半島の西部/南西部において、いわゆる12部族の連合が形成されたと思われます。
イスラエルの宗教は、その歴史的な過程に沿って形成されてきました。
最初期のイスラエルでは、
(1)出エジプトとカナンの征服を祝う祭りがあり、これが後に、春の新年の過越祭(3月~4月)として祝われました。
(2)また秋には、律法の授与とシナイ契約を更新する祭りがあり、これは後に、秋の仮庵祭として祝われました。
(3)さらに、宇宙の創造者であり、悪しき敵(竜や海獣)を征服した「神」の王位への即位を祝う祭りがありました。
「神」は「エール」(力/主)と呼ばれて、古代のカナンでは「バアル」、イスラエルでは「ヤハウェ」という名称で呼ばれましたが、この祭りは、神に選ばれた「神の戦士」が、世界を混乱させる竜を退治して、調和を取り戻すという宇宙的な秩序の回復と勝利を祝うものです。
(3)の祭りの起源はカナンにありますが、これは後に仮庵祭の一部に組み込まれました。
ちなみに1週間を七日とする制度も遊牧民からではなく、カナンの農耕民から出たものです。
しかし、ダビデ王朝の時代になると、出エジプトとカナン征服の祭りも、神の即位の祭りも、王室による「シオンの祭儀」の導入によって規制されるようになります。
(4)シオンの祭儀は、神によるダビデ王朝の選びと聖都エルサレムの選びと聖所と契約の箱の新たな設置を祝うものでした。
それまではイスラエルに神殿がなく、シケムやシロ、その他複数の場所にヤハウェの聖所があったからです。
これで見ると、古代イスラエルの宗教は、聖なる祭儀と聖なる歴史の二つから成り立つことが分かります。
また、イスラエルをエジプトから贖い出した救いの歴史も、出エジプトとカナン征服(出エジプト15章)、そしてシナイでの律法授与とヤハウェとの契約更新(申命記33章)という二つの主題に貫かれています。
こうして、イスラエルの祭りは、始めは「神の戦士」という神話的な様式であったのが、ダビデ王朝の即位を祝う祭りへと再編成されることになります。
「神の戦士と竜退治」という主題は、イスラエルの王権思想と知恵思想に媒介されて、後の黙示文学に繰り返し現われる大事なテーマになります。
ただし、カナン的な要素をイスラエルが継承したその過程、すなわちカナン時代からイスラエルにいたるその「造神話」”myth-making”の過程は、まだ十分に解明されていません〔Cross,“A Note on the Studies of Apocalyptic Origins.” Canaanite Myth and Hebrew Epic.343~46〕。
古代イスラエルの祭儀は自然宗教から歴史宗教へ進化したようにも見えますが、それよりもイスラエル独自の、出エジプト→カナンの征服→エルサレムの中央聖所の設置と契約更新という「救済史的な伝承」として理解するほうがいいでしょう。
そもそも「契約更新」の祭りは、十二部族の連合による国土取得を祝うものですから、契約の締結それ自体は征服以前の時期に位置づけられます。
イスラエルの祭儀は、このように、神話的な要素と歴史とが融合しているのが特徴です。
イスラエルにおいては、神話と歴史は常に強い緊張関係を保持していて、神話は、歴史に宇宙的次元で超越性を賦与しながらも、歴史を分解する方向に働くことは滅多になかったのです。
■知恵の時代
先に述べたように、イスラエルの知恵思想が文書として編集し始められたのは、ソロモン王の時代でした。
ダビデ王(在位前1010?~前970?)からソロモン王(在位前970/960?~前930/920?)の治世にいたる約80年間は、ダビデ王朝の最盛期であって、イスラエルは、その宗教、文化、政治、経済のすべての分野にわたって絶頂期にあったと言えます。
ソロモンが王位を継承すると、彼は、エルサレムを中心としてカナン文化圏一帯を知恵思想によって「ヤハウェ化する」政策を始めました。
このために、列王記(上下)全体を通じて、「知恵」という言葉がソロモン王の記事に集中して表われることになります。
主から「知恵の霊」を注がれたソロモン王は(列王記上3章12節)、父ダビデ王の意志を継いで、一大ヤハウェ王国を築くことに成功したと言えましょう。
旧約聖書の神学において、「知恵」(ホクマー)は、律法(トーラー)や契約(ブリート)に比べると、長らく周辺的な地位しか与えられませんでした。
旧約聖書の神学において、「知恵」(ホクマー)は、律法(トーラー)や契約(ブリート)に比べると、長らく周辺的な地位しか与えられませんでした。
全宇宙を秩序立ててとらえることで、そこに生じるあらゆる事象を神の業として洞察するのが知恵の働きです。
このような知恵を中心に据える時に見えてくるのが「創造の神」です。
知恵は、民族、人種、性別を超える普遍的な視野を有していて、同時に、信仰を神殿や祭儀ではなく現実の生活体験へと結びつけます。
日常において体験する現実は、多様な拡がりを持っていますから、これに対応する知恵もまた多様な姿を採ります。
現代でもそうですが、宗教とは、互いに矛盾し対立する霊的体験から成り立っていて、こういう霊的な出来事や現実を理念や教義で割り切ることはできません。
知恵はこのように相互に矛盾する出来事や思想をつなぐことによって新たな思想的土台を生み出す働きをするのです。
それは知恵が、イスラエルの「ペシェル」(解釈/教え/比喩/謎)の思想に基づいているからです。
だから知恵がソロモン王国において大きな役割をはたしたのは、知恵が、異なる民族性や多様な宗教文化に対応することによって、これを一つに統合する働きを有するからなのです。
大事なのは、ここで言う知恵が、いわゆる「処世術」のこと、「巧みな世渡り」の知恵ではありませんから注意してください。
だから、箴言の知恵は、その起源において、天地創造にさかのぼります(箴言8章22~31節)。
ソロモンの知恵は、宗教的な領域に属する「霊的な知恵」なのです。
それは預言と並ぶ霊の賜物と見なされました。
後にイザヤが、ユダ王国の為政者たちを厳しく責めているのは、彼らが、イスラエルがかつて有していたこのような知恵(イザヤ11章2節)を見失ったからです(イザヤ5章20~21節)。
ちなみにイエスが「知恵」と言うときには、まさにこの霊的な意味です(ルカ7章35節)。
知恵は預言と異なり、実際の行政に携わる官僚や職人の工芸技術にも及んでいますから、知恵の霊は、一人一人の才能あるいは個性と切り離すことができません。
けれどもそのことは、知恵の御霊が「世俗化する」ことではありませんから注意してください。
逆に、カナンの異教世界全体のあらゆる技術や能力が、「ヤハウェの霊」のもとに統合されていったのです。
この意味で、ソロモン時代の知恵は、ほとんどヨーロッパ中世の神学と同じ役目を担っていたと言えましょう。
「主を畏れることは知恵の初め」とあるのは(箴言1章7節)、人々の目を世俗の処世術よりも主に向かわせるためであり、同時に、ヤハウェの霊を多様な現実へと結びつける、こういう二重の働きを意味していました。
このように、ソロモン王国の知恵は、当時のカナン文化圏全体をヤハウェの御霊によって支配すること、すなわち「カナン文化のヤハウェ化」にありましたから、その知恵は百科辞典的な広さに及んでいます(列王記上5章9~14節)。
しかしながら、ソロモンによる知恵の黄金時代以降、王国は二つに分裂しました。
その結果、王権は衰退して、主の預言者たちが腐敗した王政を厳しく弾劾する時代に入ります。
ついに北イスラエル王国はアッシリアによって、南ユダ王国は新バビロニアによって滅ぼされ、ユダヤ民族はバビロンの捕囚を体験することになります(前6世紀)。
その後、捕囚を経て再びエルサレムへ帰還したユダヤ民族が、かつての王権を再興することはありませんでした。
しかし、ソロモン時代の知恵は、それ以降も受け継がれ、ヨブ記(著者は前5世紀前半頃か?)、箴言(成立は前4~3世紀)、ダニエル書(前半は前4~3世紀、7~12章は前164年頃)、コヘレトの言葉(前200年前後)、シラ書(前190年頃)、知恵の書(前80年頃か)、『ソロモンの詩編』(前1世紀半ば頃)などの知恵文学を産み、これがイエスの時代へと受け継がれることになります。
■箴言と知恵
箴言の原題名は「マーシャール集」です。
「マーシャール」とは、諺、格言、たとえ、比喩などの意味ですが、これに知恵の諭しや禁止が含まれていて、内容は日常生活から宮廷の官僚たちへの心得にいたる幅広い分野に及んでいますが、箴言の内容から、これの成立年代を探ることはほとんど不可能です。
諺や格言は、それが収録されて編集される時期よりもはるかに前から伝えられてきたからです。
例えば、箴言の22章17節から23章11節までは、エジプト『アメンエムオペトの教訓』と対応する箇所が多くあります。
しかしこの教訓集は、紀元前12世紀頃の編集だとする説からそれよりもはるかに後の時代だという説まであり、よく分かりません。
箴言の編集が行なわれ始めたのは、ソロモン王の治世の後、王国が南北に分裂して、北王国が滅亡した頃(前700年頃)ではないかと考えられます。新共同訳に「ソロモンの箴言(補遺)」とある25章~29章がこの部分です。
その後、南王国が滅亡した(前587/586年)後のバビロン捕囚の間に、初期のマーシャールに改変が加えられました。
厳しい捕囚体験を通して、改めて過去・現在・未来を見通す視点からの見直しを迫られたからです。
箴言の中で最後に編集された部分は1~9章で、これは捕囚以後の時期と考えられますから、箴言全体の編集が現在の形で成立したのは前3世紀頃になるでしょうか?
知恵はほんらい普遍性を持っていますから、ヤハウェとの契約関係にあるイスラエルの民族的な排他性が、ソロモン王の時代には、この知恵を通じて周辺の諸民族に向かう普遍性へと開かれていくことになりました。
捕囚の間のバビロニアの文化的な影響と、これに続くペルシア帝国の支配下で、イスラエルの知恵思想は、その普遍性をいっそう広げていくことになります。
しかしここでは、箴言の中でも特に注目される特徴に視点を絞ってみたいと思います。
それは「知恵の女性」(3章13~20節/4章6~9節/8章)と、これと対比される「愚かな女性」(9章13~18節)です。
箴言の知恵の女性(ソフィア)は、「彼女をとらえる人には命の樹となり保つ人は幸いを得る。
主の知恵によって地の基は据えられ主の英知によって天は設けられた」(3章18~19節)とあるように、「知恵の女神」とでも言えるほどに神格化されています。
すなわち知恵は、ここではっきりと「擬人化」“personification”されているのです。
このことは、後の知恵思想を理解する上でとても大事です。
この知恵の女性は世界の創造の原初にいて、ヤハウェと共に創造の業に携わった者として描かれます。
これがその後、哲学的な解釈が加えられることで後世に大きな思想的影響を及ぼし、新約時代には、キリスト論的な解釈が与えられるようになりました。
この知恵は、後のヨハネ福音書では、ベタニアのマルタとマリア(ヨハネ11章)、あるいはマグダラのマリア(20章)の姿となって現われます。
また彼女を探し求め(箴言2章4節)、彼女を観て(8章35節)、彼女に触れ(4章8節)、命の樹として愛する(3章18節)とありますが、知恵についてのこの感覚的な描写は、第一ヨハネの手紙の「初めからあったもの」「よく見て、手で触ったもの、すなわち命の言葉」へとつながることになります。
知恵は、「主が大地の基を定められた時、わたしはそこにいた」(箴言8章29節)とありますが、これは知恵が主の傍らにいて「建築士として」働き、主の創造の業も設計も工事も知恵が行なったという意味です(ただしここを続く30節と関係させて「主の創造の業を見て遊び戯れた」と読むこともできます)〔有賀「箴言とヨブ記」65~66頁〕。箴言の知恵は、このように宇宙全体を支える秩序のそもそものはじまりである「根源の時」へとさかのぼるのです。
宇宙の原初から存在していた「先在の知恵」がここに顕われてきます。
人はこの原初からの知恵の定めた秩序の下にあって、命の樹である知恵の女性と死霊の宿る愚かな女性とのどちらを選ぶかが試されます。
その選択は人間に普遍的なもので、そこには人の「善と悪」「命と死」「救いと滅び」がかかってくるのです。
この「先在の知恵」は、はるか後のヨハネ福音書の冒頭にでてくる「先在のロゴス」(ヨハネ1章1節)へとつながることになります。
かつてイスラエルは、ヤハウェと共に歩み、その歩みの中で、その時々に示されるヤハウェとの出会いの中で、あるいは従い、あるいは背き、あるいは立ち帰り、あるいは離れました。
その選択が、箴言では、二人の女性をめぐる選択を通じて、イスラエルの民だけではなく、全世界の人間の生と死、救いと滅びにかかわるのです。
神が予め定めたこの原初からの知恵は、やがて「世界の初めより終わりまでをも予見する」知恵、世の始めより終わりまでを見通す神の知恵へと発展することになります(例えば『エチオピア語エノク書』39章11節)。だから、知恵は、その普遍性だけではなく、知恵が世界の初めから存在し、存在することによって世界を支配するという「知恵の不動性」を帯びてきます。
この不動性は、知恵の女性にある種の「厳しさ」を賦与しています。
この厳しさは、その普遍性と共に、捕囚の体験から来ているのは間違いありません。
しかし著者はまた、イスラエルの悲しい歴史を背景にして、知恵の女性を性的な魅力で、しかもこの知恵の貴婦人を愚かな女と対照させて描いた。
しかし著者はまた、イスラエルの悲しい歴史を背景にして、知恵の女性を性的な魅力で、しかもこの知恵の貴婦人を愚かな女と対照させて描いた。
問われているのは命と死であり、主への誠実と不誠実である。
これはもはや、フォン・ラートが解釈したような「世界秩序」の擬人化をも「世界の自己啓示」をもはるかに超える問題である。
捕囚以後の日々の歩みにおいて、知恵は「正しい行ない」を超える領域へと高められた。
ホセア書やその他の書で無慈悲にも暴かれたかつての苦闘を偲ばせる言葉で、彼女は、契約の重み、主への誠実さの重みを帯びて描かれるのである〔Murphy 226 〕。
■イスラエルの危機と知恵
エルサレムの滅亡とバビロンの捕囚体験は、ユダ部族を中心とするイスラエルに深刻な影響を与えました。
かつてのダビデ王朝の時代のように王権を信奉する理念は衰退して、これに伴って、預言活動も衰えることになります。
王政の不正や王権の横暴を批判し、正義と公正を訴えることが、預言者たちに与えられた役割だったからです。神殿再興を願ったハガイ(前520年に預言活動)と、これとほぼ同時代のゼカリヤが(前520~518年に預言活動)、その例外と言えましょうか。
知恵思想もまた大きな変容を遂げました。
イスラエルの知恵思想の源は、古代エジプトと古代バビロニアと古代のカナン神話からでています。
ダビデ王朝の時代に知恵思想が盛んになったのは、宮廷における行政のエリートたちを養成するのが一つの目的で、このために、古代エジプト王朝の知恵思想が採り入れられたと言われています。
知恵文学は、遠くエジプト第5王朝時代(前2400年頃)の『宰相プタハヘプテの教訓』にまでさかのぼることができます。
これは、ファラオの側近であったプタハヘプテが、自分の経験に基づいて後継者のために書き残した教訓です。
そこには、神の定めた「世界秩序」(エジプト語で「マート・正義」)に従うことが教えられています。
この教訓と並んでよく知られているのが『アメンエムオペトの教訓』で、これは、箴言の22章17節から24章22節の「賢人の言葉(1)」と対応する部分が多いと指摘されています。
『アメンエムオペトの教訓』の成立ははっきりしませんが、前13世紀から前600年までという長い期間にわたると見られますから、モーセの出エジプトからダビデやソロモンの王朝時代を経て、南王国ユダの滅亡とバビロンへの捕囚に近い頃までに当たることになります。
宮廷文化を背景とするこのような知恵思想は、捕囚による王権の喪失と共に衰退しました。
しかしながら先に指摘したように、ソロモン時代の知恵思想には、天文学(占星術を含む)や動植物学や心理学や神話・歴史などに及ぶ広範な知識の集大成が含まれていました
百科辞典的とも言えるこれらの諸知識が、捕囚によってバビロニアの天文学や諸学問に触れることによってさらに深められたのです。
先にわたしは、ソロモン時代の知恵思想は、単なる世俗の知識や処世術を超えた霊的な洞察に支えられていると述べました。
このことは、イスラエルの知恵には、単なる人間的な知識や視野“sight”を超える深い洞察“insight”が具わっていることを意味します。
すなわちこの知恵には、自然と宇宙、歴史と宗教に関する知識だけでなく、それらの諸物や出来事を「解釈する知恵」もまた具わっているのです。
この知恵は、未曾有の歴史的な危機に際して、自分たちに生じた出来事を新しく解釈するだけでなく、イスラエルの信仰の拠り所、すなわち聖書をも解釈し直すことを可能にしてきました。
この知恵によって、それまで断片的な歴史伝承や種々雑多な物語であった数々の挿話が一貫した内容へと編集されたのです。
知恵によるこのような「解釈の技法」をロンドン大学のクレメンツ教授は、その論文「知恵と旧約神学」で次のように述べています。
このこと(解釈学の技法)が、法制度や歴史の年代記の場合にも当てはまるのは驚くにあたらない。
このこと(解釈学の技法)が、法制度や歴史の年代記の場合にも当てはまるのは驚くにあたらない。
しかし、それが最も際だってくるのは、長大でほんらいまとまりをもたないまま連なる預言による発話の集積から預言書が形成されていくそのやり方にある。
M・フィシベインが「霊術的釈義」と呼んだこの方法によって、預言書の複雑な体系が形成された。それらはただ個々の「託宣」の寄せ集めだと解されるかもしれないが、ヘブライ語の四大預言書の巻物が、巧みに企画された総体となるように編集されていることが徐々に明らかにされてきたのである。
(中略)語られた預言から書かれた預言の巻物へのこの移行は、知恵の技法と分類の技術に負う所が大である。〔Clements 277〕
国土の喪失と民族の存亡の危機に際して、このような霊的な知恵による洞察が、イスラエルの宗教と彼らの信仰を支えて、これを新たな創造へと向かわせたと言えましょう。
国土の喪失と民族の存亡の危機に際して、このような霊的な知恵による洞察が、イスラエルの宗教と彼らの信仰を支えて、これを新たな創造へと向かわせたと言えましょう。
イスラエルの知恵思想にこのようなことが可能であったのはなぜでしょうか?
それは、古代オリエントでは、宗教と国家制度を支えている神々が、その制度と秩序そのものに内在するものとして崇拝され維持されていたのに対して、イスラエルでは、ヤハウェが、イスラエルの宗教と国家秩序の「彼岸に」立っていたからです。
ヤハウェは秩序の創造者であったから、この主を宗教や秩序と同じレベルで見ることができなかったのです。