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ジョニーデップ主演 ミナマタ2021公開決定 MINAMATAのW・ユージン・スミス紹介W Eugene Smith Starring Johnny Depp
後藤チッソ会長 年頭所感要旨
チッソが社内報「オールチッソ」に掲載した後藤舜吉会長の年頭所感の要旨は次の通り。
◇ ◇
▽今年は待望久しい分社化元年。会社は水俣病特別措置法に従い、およそ3年で水俣病の最終解決を図ると同時に、分社化で一挙に再生を果たす方針だ。今年はその第1段階。現チッソの事業をすべて引き継ぐ100%子会社(新チッソ)の設立と営業開始を実現する。
▽環境省が立案中の救済措置方針が決定すれば、すぐ分社化の手続きに入る。営業開始は10月1日を目標に体制を整える。
▽新チッソは水俣病の債務は負わない。約500億円の純資産を持ち、連結経常利益の現状約200億円がほとんどそのまま最終利益となる。そのため信用が格段に向上し、取引活性化や人材確保に役立つ。水俣病の桎梏[しっこく]から解放されることで経営は安定し、社員のモラールも向上すると期待する。
▽分社化はすべての関係者に有益。認定患者の補償金は常に最優先で確保する。今回の救済対象者も新チッソの上場による原資で、はじめて一時金受給が可能となる。地域経済の安定・向上がもたらされ、国、県にとっては公的融資の早期回収が可能となる。
▽3年後を見据え、収益力の最大化に取り組まねばならない。新会社上場でチッソ再生は一応果たされるが、将来の患者補償金積み立てに加え、公的負債や金融支援負債の返済まで責任を完遂しなくては真の自立・再生とは言えないからだ。自立後の新チッソは、資本市場などの新しい世界に入っていける。
熊本日日新聞のページは削除↑
2021/2/12 3:34
果たして天皇家と日本の大企業の強烈な圧力を跳ね飛ばしてジョニーデップ氏プロデュ―スの「ミナマタ」はどれくらいの劇場で2021年2月21日より映画の上映が実現するんのでしょう?
水俣病の本星である皇后雅子の母方の祖父チッソ会長雅子妃の信自がたい暴言を忘れてはならない!
しかし、今やそのことに触れること事態が不敬罪あつかい?
雅子の祖父であり、江頭2:50の血縁者である江頭豊こそが「水俣病」の毒を タレ流した公害企業・チッソの社長であり、旭化成、積水化学、積水ハウス、信越化学工業の母体会社のトップであった人物であり、1988年の初め、当時の宮内庁長官・富田朝彦が皇太子に「チ ッソの件が付随しますから、お諦めください」と雅子妃との破談の進言したと言われているがもう一つの理由が江頭の系譜のルーツにあったとも言われている。
穢多(エタ)の頭(江戸時代の京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。いわゆる河原者のことを穢多(エタ)と呼び、その穢多達の頭領を穢多頭(えたがしら)と呼び現在の江頭の姓名ルーツになっていると言われている。)まさにチッソの会長がその子孫という事が宮内庁からの破談進言の理由にあったとも言われていたようです。
チッソ会長の江頭豊は水俣病患者に「貧乏人は死んだ魚を食べるから変な病気になる」の暴言を水俣病患者に投げかけたり、893による脅迫を水俣患者に行った疑惑の中心人物だと言われているようです。
以下転載
ジョニーデップ氏プロデュ―ス
自ら監督スタッフを人選して取り組み
ついに来年2021.2.21
イギリス・アイルランド皮切りに
日本、各国公開となりました!
水俣の汚染は埋め立てにより既になく
1997年安全宣言で漁業も復活
タツノオトシゴがたくさん泳ぎ
さかなクンも度々訪れてます
ー裁判は継続中ー
水銀問題は地球的規模で拡散
火力発電は石炭燃焼で大気中に水銀放出
産業革命時代の石炭燃焼による水銀も
未だに大気や海水に漂うという
水銀は金の採掘に古代エジプト時代から利用
現在も世界で1500万人が金採掘に従事
地球上の生物では食物連鎖上位が
より多くの水銀を体内に吸収蓄積
水俣病被害者の実情と無念を
風化させてはならない
世界に知らせる事を
被害者の皆様は望んでいます
以下ウィキより抜粋転載
1972年1月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生した[6]。ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った[7]。
ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなく、暴行の容疑者は不起訴処分となった。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。そして『ライフ』誌の1972年6月2日号に、チッソ水俣工場の排水管から不知火海にメチル水銀を含んだ工場廃液が流される様を撮影した写真「排水管からたれながされる死」を発表した。ユージンはチッソを告訴することも勧められたがそれを拒み、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けた[1]。
1945年の沖縄戦での負傷の後遺症で、ユージンは歯の噛み合わせが悪くなり、ほとんど食べられなくなっていた。またアルコール依存症にも苦しみ、アイリーンによれば「毎日10本の牛乳と、オレンジジュースに生卵を入れて混ぜた飲み物が栄養源で、それにサントリーレッドの中瓶を1日1本ストレートで飲んでいた」という[1]。チッソ五井工場での暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、激しい頭痛に悩まされ「(風呂の薪割り用の)斧で頭を割ってくれ」とアイリーンに頼むこともあった[1]。それでもユージンは撮影を続け、1973年4月には西武百貨店池袋店で写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」が開催された[1]。
1974年10月、写真集『水俣』の掲載写真の選定や文章もほぼ終えて、スミス夫妻は3年間暮らした水俣市を去り、ニューヨークへ帰国した[1]。翌1975年5月にはアイリーンとの共著で、悲願であった写真集『MINAMATA』英語版の出版を果たし、世界中で大反響を呼んだ[1]。しかしその直後、ユージンとアイリーンは離婚することとなった[1][5][8]。
離婚後のユージンはアリゾナ州ツーソンで晩年を送り、アリゾナ大学で教鞭をとっていた。チッソ社員からの暴行の後遺症による神経障害と視力低下により、カメラのシャッターを切ることもピントを合わせることもできなくなっていたが、日本や日本人を恨むことはなかった[9]。1977年12月には脳溢血で倒れ、翌年には奇跡的に回復して一時はセミナーを行うまでになったが、1978年10月15日に自宅そばの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、発作を起こして死去した。享年59歳[1]。日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、ユージンの死後の1980年であった[1]。
死後
アイリーンはのちに再婚して子をもうけた。アメリカ国籍[10]であるが現在は京都市に在住し[3]、京都市左京区田中関田町22-75-103に1994年[11]、ユージンとアイリーンが水俣で撮影した全写真の著作権管理を行う組織として「アイリーン・アーカイブ」[12]を設立した。大阪人権博物館(リバティおおさか)をはじめ、京都国立近代美術館や東京都写真美術館などの美術館にユージンの作品を収蔵するとともに、出版社や新聞社、テレビ局などマスメディアへの作品貸出や使用許諾を行っている[11]。また反原発・環境保護団体「グリーン・アクション」[13]の代表を務める(所在地は「アイリーン・アーカイブ」と同一)[14]。なお大阪人権博物館は2020年5月31日をもって閉館し、ユージンの『水俣』オリジナルプリントを含む収蔵物は大阪市の他の施設へ移管される予定である[15]。
スミス夫妻が水俣へ移住した年の1971年12月に撮影された、胎児性水俣病の少女を母親が抱いて入浴させている写真「入浴する智子と母」は、ユージンの『水俣』の写真の中でも名高い1枚で、「ピエタ」を思わせる構図の母子像は、写真展や水俣病についての書籍でもたびたび紹介されてきたものだが、遺族である両親とアイリーンの話し合いにより、1998年6月に「アイリーン・アーカイブ」では今後は同写真の使用を許諾しない方針であることが発表された[1][8][10]。このため、ユージン生誕100周年を記念して2017年11月25日から2018年1月28日まで東京都写真美術館で開催された「生誕100年 ユージン・スミス展」[16]でもこの有名な写真は展示されることはなかった。
この「封印」に対しては、写真家や美術館関係者などから様々な意見があり、当該写真を所蔵する清里フォトアートミュージアムの広報担当者は「自分はこの1枚に出会って水俣病や現代の世界につながる環境問題に関心を持つきっかけとなったので、ぜひ多くの人に見てほしい」と語り[10]、同館の学芸員は「この件は国際会議でも話題になっており、海外の所蔵館の中には展示できなくなるのなら購入費用を弁済してほしいという声もある」と述べた[10]。また同館館長の細江英公は「日本の著作権法では著作者の許諾に関係なく、美術品などの現所有者は作品の展示ができるし、教科書に掲載することも可能である」と指摘した[10]。
また水俣でスミス夫妻と寝食を共にしながら、ユージンの助手を務めた石川武志は「(写真が)封印されたことがすごく残念だ。普遍性をもつこの母子像は人類にとって失ってはならない芸術作品だ。ユージンが生きていたら展示や掲載を望むと思う」と語り、アイリーンによるこの「封印」に強く反対した[1]。
影響を受けた写真家
石川武志
写真家の石川武志は、ユージンらが来日した1971年当時は写真学校を卒業したばかりで、東京の原宿に住んでいた。ユージンの写真展を見て感銘を受け、原宿で偶然ユージンを見かけて声をかけたところ、アシスタントとして水俣へ一緒に行かないかと誘われた。当初は3か月の予定で引き受けたが、スミス夫妻が水俣にいた丸3年間アシスタントを務めた。石川はアイリーンと同い年で、スミス夫妻が水俣で借りた家を本拠に行動を共にした[9]。
スミス夫妻が水俣での撮影を終えて帰国した後、英語版写真集『MINAMATA』の出版と個展の手伝いを頼まれ、石川も後を追って1975年にニューヨークへ渡った。石川自身は当時水俣で撮影した写真は発表していなかったが、当時と現在の患者たちの写真をまとめ、2012年に『MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣』[17]として出版した[9]。
森枝卓士
水俣市出身の写真家・森枝卓士は、新日本窒素肥料(後のチッソ)水俣工場近くの自宅で生まれ育った。両親は同社の社員で、1959年11月2日の4歳の頃、水俣病で被害を受けた漁民が工場に押しかけたこともあった。少年期は社会問題に関心を持たず過ごしたが、ユージンの写真を雑誌で見かけて「社会的なテーマを扱っているのに美しい」と感動した。高校生のときにスミス夫妻が水俣に移住してからは親に内緒で通い続けた[18]。
森枝の父親はチッソ労働組合の方針を批判して新労組に加入し、チッソを擁護する集会にも参加していたが、スミス夫妻と行動を共にする息子の姿に驚いて「こん、ばかもんが!」と激怒した。森枝はのちに「水俣の人間の側からすると、水俣というのはそのチッソのおかげでみんなが食べていたような町」「僕の父も母もチッソで働いていたし、そのおかげで自分たちが叶わなかった夢だった、東京の大学に僕と弟妹の3人の子供を送り卒業させた。だから複雑な感情があったわけですね。」として、父親が森枝の行動に怒って寝込んだことや、水俣病の取材中にユージンらが暴行を受けたことを語っている[18]。
表現方法
ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。[19] そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。
日立製作所の仕事に助手として参加した森永純は、「暗室作業についていえば、渡された1枚のネガから、いくらプリントしてもOKをもらえず、悪戦苦闘したことが忘れられない。こうなると私も意地で、知っているだけの技術を使い、とうとう1週間かかって100余枚のプリントを焼き、やっとその中の1枚だけにOKをだしてもらったことがある」と書く[20]。
それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりした。例えばアルベルト・シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされた。そもそもユージン・スミスは、リアリズム(写実主義)を排除していたとされる。
「 これは客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる[21] 」
「 ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている[22] 」
「 写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない[23] 」
著名な写真
第二次世界大戦の戦場サイパンで米兵により発見された傷ついた幼児の写真(1944年)
硫黄島で日本兵の塹壕を一掃する米海兵隊(1945年)
『楽園へのあゆみ The Walk to Paradise Garden』(1946年)
『カントリー・ドクター Country Doctor』(1948年)
『スペインの村 Spanish Village』(1950年)
『助産婦 Nurse Midwife』(1951年)
『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』(1954年)
『ピッツバーグ Pittsburgh』(1955年)
『ハイチ Haiti』(1958年-1959年)
『ミナマタ Tomoko Uemura in Her Bath』(1971年)
ユージン・スミス賞
彼の死後、ユージン・スミス・メモリアル基金(W. Eugene Smith Memorial Fund)によりユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)が設けられた。人間性や社会性を重視した写真作品を対象としている。主な受賞者にセバスチャン・サルガドなどがいる。
著書
ユージン・スミス、アイリーン・M. スミス共著『水俣 生―その神聖と冒涜』(創樹社、1973年)
ユージン・スミス、アイリーン・M. スミス共著、中尾ハジメ訳『写真集 水俣』(三一書房、1980年/普及版・1982年/新装版・1991年)
写真集・図録
『ユージン・スミス展:真実と人間愛に生きた写真家』(PPS通信社、1982年)
『ユージン・スミス展:真実と人間愛 スミスの遺志を受け継ぐ12人の写真家とともに』(PPS通信社、1992年)
(東京都写真美術館編)『ユージン・スミスの見た日本』(東京都歴史文化財団、1996年)
(ジル・モーラ、ジョン・T.ヒル編、原信田実訳)『ユージン・スミス写真集:1934-1975』(岩波書店、1999年)
(ロバート・キャパ、ジョン・スウォープ(英語: John Swope (photographer))、三木淳)『第二次世界大戦日本の敗戦:キャパ、スミス、スウォープ、三木淳の写真 開館10周年記念展』(清里フォトアートミュージアム、2005年)
(桑原史成、塩田武史、宮本成美、アイリーン・美緒子・スミス、小柴一良、田中史子、芥川仁)『水俣を見た7人の写真家たち:写真集』(弦書房、2007年)
(京都国立近代美術館編)『W.ユージン・スミスの写真:アイリーン・スミス・コレクション』(京都国立近代美術館、2008年)
関連書籍
土方正志『ユージン・スミス:楽園へのあゆみ』(佑学社、1993年/増訂版・偕成社、2006年)
石川武志『MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣』(千倉書房、2012年)
山口由美『ユージン・スミス:水俣に捧げた写真家の1100日』(小学館、2013年)
脚注
[脚注の使い方]
^ a b c d e f g h i j k l m n o p “「写真はときには物を言う」――水俣を世界に伝えた米写真家の軌跡” (日本語). Yahoo!ニュース (2017年12月26日). 2020年9月25日閲覧。
^ 『美術手帖』1971年10月号
^ a b c “終わらない水俣病 世界に問う米国人カメラマンの元妻” (日本語). 朝日新聞デジタル (2020年5月1日). 2020年9月25日閲覧。
^ “元村和彦(もとむら かずひこ): 美術関係者 : 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2020年9月25日閲覧。
^ a b “デップさん主演で映画化 「ミナマタ」伝えた米国人写真家、元妻が語る「最後の勝負」” (日本語). 西日本新聞 (2018年12月3日). 2020年9月25日閲覧。
^ ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」NHK教育テレビ、2018年11月18日放送
^ 宇井純『技術と産業公害』第4章「水俣病」、東京大学出版会
^ a b “ノンフィクション大賞受賞者が巨匠写真家題材の受賞作を語る” (日本語). NEWSポストセブン. 小学館 (2013年6月14日). 2020年9月25日閲覧。
^ a b c “MINAMATA: W. ユージン・スミスへのオマージュ 石川武志インタビュー” (日本語). ニッポンドットコム (2019年10月8日). 2020年9月25日閲覧。
^ a b c d e “写真のあるべき姿──私の想い”. アイリーン・アーカイブ. 2020年9月25日閲覧。
^ a b “わたしたちについて”. アイリーン・アーカイブ. 2020年9月25日閲覧。
^ “TOPページ”. アイリーン・アーカイブ. 2020年9月25日閲覧。
^ “グリーン・アクション | Working Together to Create a Nuclear-Power-Free Japan” (日本語). 2020年9月25日閲覧。
^ “代表の逮捕──不起訴の経緯について” (日本語). グリーン・アクション. 2020年9月25日閲覧。
^ 美術手帖 (2020年9月8日). “「無名な人々」は存在するのか。大下裕司評 大阪人権博物館(リバティおおさか)「35年展」” (日本語). Yahoo!ニュース. 2020年9月25日閲覧。
^ “生誕100年 ユージン・スミス写真展”. 東京都写真美術館 (2017年11月25日). 2020年9月25日閲覧。
^ “『MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣』石川武志” (日本語). 千倉書房. 2020年9月25日閲覧。
^ a b “「ときを結ぶ」(4)「伝える水俣」人生決めた世界的写真家 差別と分断の地を撮影 魂の言葉、子どもらに フォトジャーナリスト・森枝卓士” (日本語). 47NEWS. 共同通信社 (2019年9月16日). 2020年9月25日閲覧。
^ 「ユージン・スミス写真集一九三四-一九七五」より
^ 「ユージン・スミス展」パンフレット
^ 写真集『水俣』英語版の序文
^ 写真集『水俣』英語版の序文
^ ユージン・スミス写真集 一九三四-一九七五