☆ニュルンベルク裁判 (ナチス、ホロコースト) | imaga114のブログ

imaga114のブログ

理不尽な世界に疑問
ネットの普及から
「井の中の蛙」から「目から鱗」

なぜ日本人なのか?
本物の日本人とは何なのか?
興味深い内容と雑学から学ぶことは?
ただの主婦だけど、
ただの主婦からのメッセージ
受けとる人は誰?

写真はNarine Ohanyanサイトから

https://www.facebook.com/narine.ohanyan.1

 

 

 

ニュルンベルク裁判

 

一部転載

 

ニュルンベルク裁判

 

戦後、ホロコーストで犯した犯罪に責任のある一部の人々が裁判に掛けられました。ドイツのニュルンベルクは1945年から1946年にかけてその裁判が行われた場所です。連合国--英国、フランス、ソ連、米国--の裁判官の下で22人のナチス主要戦犯の審理が行われました。

 

12人のナチス高官に死刑判決が下りました。ほとんどの被告が告発された犯罪を認めましたが、ほとんどは上からの命令に従っただけだと主張しました。

殺戮に直接関係した者が最も重い刑罰を受けました。

政府高官や強制収容所の収容者たちを強制労働に使った事業経営者など、ホロコーストで主要な役割を担った他の人々は、短い禁固刑または処罰なしで釈放されました。

 

ナチスの最高権威、ホロコーストに最も重い責任を負うべき人物は裁判に登場しませんでした。

 

アドルフ・ヒトラーと数人の側近は戦争の終わりに自殺していました。

もっと多くの犯罪者がいましたが彼らは裁判に掛けらることはありませんでした。ドイツから逃げて外国で暮らしている人もいます。米国には何百人も行きました。

 

ナチスに対する裁判は今もドイツとその他の多くの国々で続いています。

 

ナチスハンターとなったサイモン・ヴィーゼンタールは、アルゼンチンでアドルフ・アイヒマンを見つけだしました。

何百万人ものユダヤ人を移送する計画とその実行に手を貸したアイヒマンは、イスラエルで裁判に掛けられました。何百人もの証人(多くは生存者)の証言が世界中を巡りました。

アイヒマンは有罪となり1962年に処刑されました。

 

重要な日付

1945年8月8日
国際軍事裁判(IMT)の憲章がロンドン会議で発表される
国際軍事裁判(IMT)は米国、英国、フランス、およびソ連の裁判官によって構成されています。

ナチスの指導者たちが起訴され、ドイツのニュルンベルクでの裁判で、IMT憲章の第6条に基づき、次の罪状で裁かれます。

(1) 以下の容疑2、3、4の共謀。

(2) 平和に対する犯罪--数々の国際条約に違反する侵略戦争の計画および遂行。

(3) 戦争犯罪--国際的に同意された戦争遂行の規則に対する違反。

(4) 人道に対する犯罪--「すなわち、戦前および戦中の一般市民に対する殺人、殺戮、奴隷化、移送、その他の非人道的な行為、または軍事裁判の所轄圏内で行われた犯罪に伴うまたは関連した政治、人種、または宗教に基づく迫害。その犯罪が行われた国の法律に違反していたかどうかは問わない。」

 

 

1945年10月6日
ナチスの指導者たちが戦争犯罪で起訴される
国際軍事法廷(IMT)の4人の主任検事--ロバート・H・ジャクソン(米国)、フランソワ・デ・メントン(フランス)、ロマン・A・ルデンコ(ソ連)、サー・ハートリー・ショークロス(英国)--が24人のナチス指導者に起訴状を渡します。

 

被告にはヘルマン・ゲーリング(ヒトラーの後継者に指名される)、

ルドルフ・ヘス(ナチ党副総統)、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(外務大臣)、ヴィルヘルム・カイテル(国防軍最高司令部総長)、ヴィルヘルム・フリック(内務大臣)、エルンスト・カルテンブルンナー(国家保安本部長官)、ハンス・フランク(占領下のポーランド総督)、コンスタンティン・フォン・ノイラート(ボヘミアとモラビアの長官)、エーリヒ・レーダー(海軍総司令官)、カール・デーニッツ(レーダーの後継者)、アルフレート・ヨードル(国防軍指令部)、アルフレート・ローゼンベルク(東部占領地域大臣)、バルドゥール・フォン・シーラッハ(ヒトラー青年団指導者)、ユリウス・シュトライヒャー(過激な反ユダヤ主義新聞の発行人)、フリッツ・ザウケル(強制労働力配置総監)、アルベルト・シュペーア(軍需大臣)、アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(占領地オランダ駐在の国家弁務官)。マルティン・ボルマン(ヒトラーの側近)は欠席裁判に掛けられることになっています。

 

 

1946年10月1日
ニュルンベルクでの判決
国際軍事裁判(IMT)で判決が言い渡されます。

12人の被告に死刑が言い渡されます

(ゲーリング、リッベントロップ、カイテル、カルテンブルンナー、ローゼンベルク、フランク、フリック、シュトライヒャー、ザウケル、ヨードル、ザイス=インクヴァルト、ボルマン)。

終身刑の判決が3人に言い渡されます(ヘス、ヴァルター・フンク経済大臣、レーダー)。

4人が10〜20年の禁固刑を科されます(デーニッツ、シーラッハ、シュペーア、ノイラート)。

3人は無罪となります( ヒャルマル・シャハト(経済大臣)、フランツ・フォン・パーペン(ドイツの政治家、ヒトラーの首相任命に尽力)、ハンス・フリッチェ(新聞およびラジオ放送局長))。

 

死刑は1946年10月16日に執行されますが、2つの例外として、ゲーリングは予定されていた死刑執行の直前に自殺し、ボルマンは行方不明のままでした。

他の10人は絞首刑となり、遺体は火葬に付され、遺骨はイザール川に流されます。

刑務所行きとなった7人の重大戦犯はベルリンのシュパンダウ刑務所に移されます。

 

救済とレジスタンス

 

ユダヤ人の中には、潜伏したり、ドイツ占領下のヨーロッパから避難したりして、ナチスによるヨーロッパのユダヤ人殺害計画「最終的解決」から生き残った人もいました。

ユダヤ人以外のほとんどの人は、「最終的解決」を支援することも、妨害することもありませんでした。

ユダヤ人の逃亡を支援した人はごくわずかでした。

ユダヤ人を援助した人々の原動力となったのは、ナチスの人種差別主義への反対、深い同情心、そして宗教的や道徳的な考え方でした。

まれではありましたが、個人だけでなくコミュニティ全体がユダヤ人を救うこともありました。

彼らは途方もない危険にさらされていました。多くの場所で、ユダヤ人に避難場所を提供することは死刑に値するものでした。

 

南フランスのプロテスタントの村ル・シャンボン・シュール・リニョンの住民は、1940年から1944年にかけて、ナチスの迫害を逃れた数千人のユダヤ人を救いました。

彼らは危険を知りながら、宗教的信念と道徳的な義務感に触発され、決然たる態度をとりました。

多くの子供を含む難民は、個人の家、または周辺のカトリック修道院や僧院にかくまわれていました。

ル・シャンボン・シュール・リニョンの住民はまた、中立国スイスに難民を逃すための支援を行いました。

 

ドイツ占領下のヨーロッパの多くのユダヤ人は、武装レジスタンスを試みました。

ユダヤ人の個人やグループは、ドイツに対する計画的および自発的なレジスタンス活動に加わりました。

フランスやベルギーでは、ユダヤ人パルチザン部隊が活動しました。

彼らは特に東部で活動し、森やゲットーに潜伏しながらドイツと戦いました。

反ユダヤ主義が広範囲に及んでいたため、ユダヤ人パルチザンは周辺の住民からほとんど支援を受けられませんでした。

それでも2万人から3万人ものユダヤ人が東欧の森でドイツと戦いました。

組織化された武装レジスタンスは、ユダヤ人の最も強力な抵抗でした。

ヨーロッパの多くの地域では、抵抗の代わりに支援や救援、精神的なレジスタンスに尽力しました。

ユダヤ人の文化施設の保全や宗教的儀式の継続は、ジェノサイドというナチスの政策への精神

的なレジスタンスの表れでした。

 

重要な日付

1943年2月13日
プロテスタントの牧師、フランスでユダヤ人を援護して逮捕される

 

アンドレ・トロクメ牧師は、ル・シャンボン・シュール・リニョンで逮捕されます。セヴェノル学校経営者兼牧師のエドゥアール・テス、および公立男子校の校長ロジャー・ダルシサックも逮捕されます。

3人はリモージュ近郊のサン・ポール・デショオ収容所に抑留されます。

1940年から1944年にかけて、彼らはル・シャンボン・シュール・リニョンのプロテスタント共同体を主導し、約5,000人(その半数以上はユダヤ人)を救援しました。

彼らは難民を、個人の家、学校、地元の僧院や修道院に隠し、偽の身分証明書を提供しました。

 

そして、国境を越えた中立国スイスへの難民輸送を支援しました。

抑留中、トロクメ牧師、テス牧師、ダルシサック牧師は、プロテスタントの礼拝を行い、他の囚人と議論を交わします。

一か月以上におよぶ監禁後、3人は釈放されることになります。

しかし、彼らはフィリップ・ペタン元帥への忠誠誓約書に署名し、ヴィシー・フランス政府の命令に従わなければなりません。

ダルシサック牧師は誓約書に署名し、すぐに釈放されます。

トロクメ牧師とテス牧師は、誓約が彼らの信念に反しているため署名を拒否しますが、次の日に釈放されます。

ル・シャンボン・シュール・リニョンへ戻った3人は、ユダヤ人を救い続けます。

 

 

1944年8月4日
アムステルダムに隠れているユダヤ人家族の逮捕

 

1942年、オランダからポーランドの絶滅収容所への移送が始まり、アンネ・フランクとその家族は、他の4人のユダヤ人と共にアムステルダムの秘密の屋根裏アパートに潜伏しました。

大きな危険を負った友人の助けを借りて、フランク一家は2年間隠れて生き伸びました。

この間、アンネは自分の恐怖、希望、そして経験を綴った日記を付けていました。

フランク一家と同居していた4人は、1944年8月4日に隠れ家を発見され逮捕されます。

フランク一家はヴェステルボルク通過収容所に送られ、その後アウシュビッツ・ビルケナウに移送されます。

戦争が終わりに近づいた頃、アンネと彼女の姉はベルゲン・ベルゼンに送られます。

1945年の春、そこで2人はチフスのため亡くなり、父親だけが生き残ります。

アンネ・フランクは、ホロコーストの犠牲となった数十万人ものユダヤ人の子供たちの1人です。

アンネ・フランクの日記は逮捕後に発見され、戦後さまざまな言語で出版されました。

(これには懐疑的な意見あるが、それは日記だけであり犠牲者には違いない)

 

1944年10月21日
ドイツの実業家によるユダヤ人労働者の救済

 

ドイツの実業家オスカー・シンドラーは、ユダヤ人の労働者をプラショフ強制収容所からブリュンリッツ(スデーテン地方)の工場へ移します。

シンドラーは、戦時生産に工員が不可欠であると主張し、彼の工場で雇うことで1,000人以上のユダヤ人を救います。

1939年〜1940年の冬、シンドラーはポーランドのクラクフ郊外に、ほうろう鉄器工場を開設しました。

その後2年間でユダヤ人の従業員数が増加しました。

1942年まで、このユダヤ人たちはクラクフ・ゲットーに住んでいました。

彼らは、労働に向かない者を判定するためのドイツ人による選別に、常に脅かされていました。

 

シンドラーは、工場の記録を改ざんしユダヤ人労働者を保護しました。

戦力に不可欠な職業のリスト作成のために、従業員の年齢と職業が変更されました。

1943年3月、クラクフ・ゲットーが廃止され、労働者はプラショフ収容所に移送されました。シンドラーの工員のユダヤ人は、ソ連軍がプラショフ収容所を解放する1944年10月まで、彼の工場で仕事を続けます。多くの囚人は直接絶滅収容所へ送られます。シンドラーは、親衛隊との良好な関係を利用して、ブリュンリッツ工場に1,000人以上のユダヤ人労働者を移送するための許可を得ます。

ユダヤ人は、1945年5月に解放されるまでシンドラーの保護下に置かれます。シンドラーは西欧に亡命し、戦後ドイツに戻ります。