書評 『宮本武蔵 超越のもののふ』竹本忠雄 「慄」と「美」と。武蔵流の文武両道の極意とは | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報より

 

「慄」と「美」と。武蔵流の文武両道の極意とは
   武より文への、めくるめく飛翔だった

  ♪
竹本忠雄『宮本武蔵 超越のもののふ』(勉誠出版)
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 画期的な宮本武蔵論である。

 

そのうえカラーで武蔵の残した屏風画、水墨画が納められている稀覯本だ。

 

 本書は先にフランス語で書かれ、フランスで最初に出版された。

 

ランスの騎士道とわが武士道を比較する文化論でもある。

 

基底は精神論。

 

そして美術論である。武蔵はかなり多くの水墨画と屏風画を残しているが、それらが巴里で展示されたこともあるのだ

 

本書を通読して、おそらく下記の箇所がもっとも竹本氏が言いたかったことではないかと思った。

 

「剣聖としてのみならず、画聖としての宮本武蔵が、騎士道を憧憬する西洋によって知られるに値する理由がある。

逆にわれわれ日本人にとっては、日本人自身、日本を見失いつつある時代なればこそ、異文化の鏡像が必要とされる」(110p)

 

 

 フランス文化に通暁し、マルロオの理解者として通訳、翻訳を通して、竹本氏はとことんアンドレ・マルロオを相手に武士道を、三島を、そして騎士道を語り合った。

 

その経歴が本書を生み出す根本となっている。

 

 宮本武蔵といえば、通説に従うと備中美作うまれの暴れん坊、十七歳のときに関ヶ原で西軍についたため以後、浪々の身となる。

 

やがて剣豪として認められ、吉岡一門と闘い、佐々木小次郎と闘い、最後は肥後の洞窟に隠遁し、絵を描き、思索をめぐらした。

 

 しかし、その後の研究で通説より十歳上、関ヶ原の参戦は二十八のとき、また生まれは兵庫県で、五歳のときに美作の宮本家に養子にだされたことが判明した。

 

 生涯、五十数回の真剣勝負に全勝した。巌流島の佐々木小次郎との対決は遅参ではなかった。

 

 なによりも武蔵は思想家だったのだ。そして哲学書とも言える『五輪書』を後世に残した。

 

 

 『五輪書』は英訳され、仏訳され、世界二十ヶ国語に翻訳されて広く読まれたが、西欧人は、これを孫子の兵法書と並べて読む過ちに傾きかけたこともあった。

 

『五輪書』は孫子とは正反対の書であり、謀略と卑怯を斥け、正々堂々の魂魄を説いているのである。

 

 だが、多くが誤解し、「毒をもった危険な書」と坂口安吾が評し、司馬遼太郎にいたっては、「武蔵は性格異常者で法螺吹き男、剣法は屠殺剣」と誹った。

 

 日本国内ですら、じつは宮本武蔵は吉川英治の小説が普及した結果、かなりの誤解が広まっている。

 

吉川は劇的効果をあげるために史実を誇大化したうえ、お通という武蔵に憧れてあとを追う美女を創造したが、実在した女性ではない。

 

架空のヒロインである。吉川文学のモチーフは「求道者」としての武蔵だった。

 

 映画にも何回かなった。

 

五十本の映画が作られ、漫画の『バカボンド』は2000万部が売れたという。評者、学生の頃、中村錦之助主演の武蔵をみたが、高橋英樹主演でも製作された。

 

 レーガン大統領が来日し、中曽根首相の「日の出山荘」の囲炉裏を囲んで政治談義。このとき中曽根は吉川英治未亡人を招いていた、英訳された『宮本武蔵』を贈呈するという演出もした。

 

 青梅にある吉川英治記念館は広い庭園、書斎がそのまま残り、評者も一度見学したことがある。吉川英治は評者の父親がつねに愛読していたので、よく読んだ。

 

父は『新平家物語』をよむために毎週、連載の週刊誌を買うことを楽しみにしていた。

 

 高校生時代に、三週間ほどかけて吉川英治の『宮本武蔵』(この時は全四巻だった)を熟読したことを思い出した。

 

この小説は志操、信念、潔癖を人生目標とした物語の設定となっている。

 

吉川英治は辞書にない形容詞をつかうので意味不明の箇所があったり、崖から落ちたお通が、その後、どうなったのかと懸念していたらある日、茶店にいたり、物語の繋がりが不思議な箇所もあった。

 

 

 

 「正しい武蔵像」とは何か。

 

剣豪でもあったが、武蔵は芸術家、思想家だったという重大なポイントが普遍的な武蔵論から欠落しているのである。

 

 本書はひたすら、芸術家、思想家としての武蔵を追っている。ほとんど知られなかった武蔵の自画像が表紙を飾る。

 

 

 竹本氏が半世紀近く前、巴里から帰国されて、つくば大学教授に就かれる前、渋谷に書斎を借りて評論をさかんに綴っていた時代がある。

 

当時、貿易会社をやっていた評者は、パートナーだったT氏から、「宮崎さんと同じことを言っているひとがいる」と竹本氏の名をあげた。

 

Tは青春時代に米国へわたり各地を浪々とした経験があり帰国後、自衛隊に入って、夜間に横浜の関東学院大学に通った。そのときの講師が竹本氏だったという奇遇。

 

二人して渋谷の書斎を訪ねた。初回は三島論、延々と話し込んでそのまま下町へ降りて食事したものだった。

 

 氏はカンボジアの平和活動にながらく従事していたので、精霊について多くを語った。基本になるのは精神、魂魄、志操である。

 

 マルロオと三島に通底するのは、騎士道と武士道の精神だと竹本氏は熱っぽく語り、人脈的には村松剛氏と繋がっていく。

 

御二人ともマルロオと三島由紀夫の研究家である。

 

 

 熊本県八代市に松代城代だった松井家の文庫がある。

 

偶然、熊本県の文化関係者の案内で見学したことがある。

 

武蔵関連の展示が幾つかあった。

 

御当主の松井氏が何点か案内してくれたのだが、その時まで松井家が細川家家老であり、武蔵の事実上の保護者だったことを忘れていた。

 

現在、武蔵の画は鶉図、屏風、達磨などが目白台の永青文庫に展示されている。

 

 

  武蔵の辞世。
  「天仰げば実相園満、兵法逝き去りて 絶えず」。