★第十六章 湖南省の奥の奥、フライングタイガー基地跡 | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジアの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

 

第一部 暴走老人、西へ(16)

第十六章 湖南省の奥の奥、フライングタイガー基地跡


 ▲毛沢東と劉少奇の生まれた湖南省を一周しよう

 湖南省と言えば、毛沢東の生誕地、ライバルだった劉少奇の生誕地でもある。

 

いまや「革命聖地」となって、毛沢東旧居跡には凄まじい観光ラッシュ。

 

バスが数珠のごとくにつらなって、あたかも巡礼地のごとし。

 

毛沢東バッジから紅衛兵が振りかざした、あの赤い表紙の『毛語録』などが並ぶ売店街にはアーケートが建設され、そのまわりは「毛家料理」のレストランがずらーり。

 

 

 観光に来るのは九割方が中国人だから、土産話にと、毛沢東レストランで食事をするのだが、よくあんな不味い田舎料理をたべるものよ、と逆に感心してしまう。

 

 この旧居跡には小さいけれども水連の浮かぶ池があり、これを前掲に旧居を撮影する図柄はカレンダーにもなって売っていた。

 

 

 

ところで、毛沢東旧居から車で30分ほど飛ばすと、劉少奇旧居跡がある。

 

こちらはもっと宏大な敷地に公園が造成されており、劉少奇博物館、記念館、図書資料館。毛沢東より、はるかに立派なのだ

 

 つまり地元民が、どちらを尊敬しているか、この二つを比較しただけでも明瞭となる。劉少奇は革命後の経済改革を推進し、国民の期待を集めたが、それに嫉妬した毛沢東の策謀によって「売国奴」と罵られ、不遇のなか仆れた。

 

二人に共通するのは豪農の息子だったこと、周囲の貧困をみて育つから社会悪には敏感である。

 

 

 劉少奇がなくなったのは河南省の開封である。

 

 ある時、開封市内をあちこちタクシーでまわっていて、「劉少奇逝去跡地」という看板が目に入った。急遽、タクシーに急ブレーキ。

 

すこしバックしてもらい、その「邸宅」を拝観した。

 

息を引き取るまで酸素ボンベを用意しつつ、有能な医師団が丁重に面倒を見たなどいう後知恵の演出をこらした建物が造られていた。そんな美談、信じる人は少ないだろうなぁ。

 

これは芝居のセットではないか、という印象が残った。

 

 

 さてフライングタイガーのことだ。

 

 大東亜戦争の宣戦布告前から、米国は日本と戦う蒋介石軍を秘かに支援していた。

 

「志願兵」という形で偽装したが、じつは米軍の正式軍人らが「中華民国」空軍パイロットに化けていた。それがフライングタイガーの正体である。

 

 

 この作戦はルーズベルト大統領が知っていた。というより彼が示唆したのだ。

 

 「志願兵」を組織した「隊長格」はシェンノート、彼の中国名は陳納徳と言う。

 

しかも彼の妻はれっきとした中国人で陳香梅という。同じ「陳」姓は偶然の一致? 

 

陳の北京語発音はチェンで、シェンに似ていないことはない。

 

 

 妻は米国籍をもち、或る目的を持ってシェンノートに近づいた気配が濃厚である。

 

マタハリか、「中国版・くの一」ではなかったのか。

 

 

 病気を理由に退役直前だったシェンノート(当時かれは米国陸軍航空隊少尉に過ぎない)を中核に、蒋介石はアメリカ人パイロットおよそ百名を「中華民国航空隊」への志願兵として招いた。

 

 とくにシェンノートを、「中華民国航空参謀」として特別待遇で迎えた。

 

のちに米国が参戦し、蒋援ルートを担った「志願兵」なる偽装の必要もなくなるのだが、そうした謀略の流れの中で、まんまと米国空軍を抗日戦争に実質的に投入させ、華南の制空権を持っていた日本軍を大混乱に陥れた。

 

だから中国国民党にとって恩人であり、その後、横から政権を簒奪した中国共産党にとっても、フライングタイガーは恩人と高い評価が与えられる。

 

この点ではアメリカのご都合主義歴史解釈に悪のりしている。

 

 

 

 昭和十三年、日本軍の第十一軍は岡村寧次将軍が率い、中支那派遣軍として治安維持にあたった。

 

翌昭和十四年、歩兵三個連隊からなる第四十師団が発足し、各地で活躍、無敵と言われた。

 

 長沙陥落、衝陽陥落を受けて、日本軍は50万を投じて南下させ、このシェンノートのフライングタイガー基地を壊滅させようと、山道を急いだ。

 

 武漢作戦から長沙陥落までも相当な苦労を強いられたが、真珠湾攻撃以後は主力が対米戦線に向けられ、以後は十分な補給も続かないまま、後智慧で言えば日本軍の兵站に大いなる問題があった。

 

 

 実際に長沙、衝陽、常州、益陽会戦のいずれも日本軍が圧倒的に強かった。シナの兵隊は敵ではなかった。

 

しかし制空権がなく、日本軍の行軍途次をシェンノート率いるフライングタイガーの空爆によって叩かれ、最後には「渋江作戦」を中止、日本軍に撤退命令がでるのである。

 

 このため補給がズタズタになって山岳地帯を撤退した日本軍は戦闘死わずか二千弱、飢死ならびに戦病死の合計が二万八千。

 

「シナ大陸のインパール」と呼ばれるほどの夥しい犠牲を出した。

 

 

 

 ▲米国は初めから対日戦争を仕掛けていたのだ

 そのシェンノート率いたフライングタイガー記念館が湖南省の山奥にあると聞いてはいたが、ルートを調べるととてつもなく不便な場所のようである。

 

 近道は広州か、上海から国内線を掴まえて懐化空港まで行くか、貴州省の銅仁空港からバスで五時間ほど。

 

 

 我が人生において、ここまでは行くことはないだろうと思っていた

 

 ある日、高山正之氏が興味を示して「行ってみよう」と衆議一決。黄金週間を利用して現場へ行くことになった。上海から国内線で武漢へ飛び、汽車で長沙へ。

 

いずれも一泊し、さらに日本軍が南下したルートを南岳、衝陽とたどり、五日目にようやく渋江へ辿り着いた。

 

  シェンノート記念館が別名の「フライングタイガー基地記念館」は中国語で「虎飛行隊」である。

 

これは湖南省懐化市渋江県にある。

 

 

建設時は付近の住民数千を動員して突貫工事で飛行場をつくった。

 

現在は旧飛行場に隣接し懐化空港となっている。

 

ローカル便が一日に一便か、二便しか飛んでいない。

 

 山の稜線が厳しく、大雨のあとで道路事情も悪く、付近は湖南省の穀倉地帯といっても農村の過疎化とともに生産には支障がでているようだ。

 

 

 日本軍との戦闘跡地には「愛国教育基地」が建ってはいるが、地元民どころか中国全土から押し寄せる観光客はまるで興味を惹かないらしい。

 

因みに衝陽市観光協会の出しているパンフレットを見ると戦跡や、愛国教育基地の紹介は稀であって、むしろエンタメ、遊び場が写真入りで紹介されている始末。

 

滝、ボート下り、温泉、湖、洞窟、茶畑、お寺などなど。。。

 

 

 記念館は人影もまばら、展示物は例によって反日オンパレードだが、ひときわ目を引くのは、ブッシュ元大統領が訪問したときの写真である。

 

パパ・ブッシュは飛行機乗りだった関係で、フライングタイガー基地に興味を抱いていたのだ。

 

 

 

 ▲日本軍の降伏現場も蝋人形で再現されていたが、展示が可笑しい

 フライングタイガー基地の近くにもう一つ、日本が最終的に降伏した「抗日受降記念塔(日本の今井赳夫と何王欽が出席、降伏文書に署名)」という建物施設があり、これも反日愛国記念館となっていた。蝋人形で降伏式を再現している。

 

 ゆっくりと内部を見学した。若い女性ガイドが案内してくれる。

 

 ーー日本からわざわざですか? 日本人が来たのは十年ぶりですよ

 

 ーーえ、宮崎さんは以前に何応欽将軍と会ったことがある? 降伏式の通訳を務めた王武さんとも会った?

 

 ト質問を発するのはむしろガイド側だった。

 

筆者は展示をみて国民党の評価が正面に副えられてきた変化を見逃さなかった。

 

どの展示室にも蒋介石の肖像画、国民党の旗が飾られているではないか。

 

 あの戦争が間違いなく中国国民党と日本との戦争であり、抗日戦争の主体は蒋介石軍であった「歴史的事実」を客観視できるようになったのだ。

 

蒋介石パネルの展示は1985年からの由だった。

 

 

 

 ▲偽満洲国、偽軍って誰のこと?

 だが展示パネルの戦死者比較のところで、引っかかった。

 

戦死者、日本軍28000余、「偽軍」20000余。 

 

 「この『偽軍』とは誰のことですか?」と若いガイド嬢に故意に聞いてみる

 

 「偽軍とは中国側です」

 

 「中国軍って当時、国民党でしょ。だから偽軍となる?」

 

 「。。。」(無言、こんな質問おそらく受けたことがなかったのだろう)。

 

 

 

 偽満州国と展示してはばからない中国だから、国民党軍ないし親日派軍閥はいまも「偽軍」。

 

しかしあの時代は「国共合作」で周恩来もアリバイ証明的に各地の戦線に顔を出していた。

 

 渋江の田舎町で夜、カラオケ店をからかったが、水商売の人々もまるですれていない。

 

というよりさっきまで野良作業をしていたような頬が真っ赤の娘たちが、にわかホステスになったような雰囲気だった。

 

 

おさまっていた日本語の歌は、いずれも留学帰りの中国人がつくった海賊版で、たとえば「つじない」(つぐない)、歌詞も全てがヒラカナ。

 

この町は住民の九割がトン族、北隣の鳳凰はミャオ族が主流である。中国の矛盾を肌で感じる旅となった。

 

私たちがツアーに雇ったガイドは、そういえばトン族の若い男だったが、その流暢な日本語には舌を巻いた。

 

それでいて日本留学経験はないという。

 

 

 中国共産党の上からの情報操作、押しつけられた歴史解釈を知識としては知っていても、それがどうした、明日の生活のために、何か裨益するのか。

 

庶民の目はそう語っている。

 

 

 情報の真偽の確認はインテリジェンスの根幹であり、俗説、逆宣伝、政治宣伝など心理戦争上の巧妙な世論工作が、いまなお、日本の歴史学界、ジャーナリズムに生きていることを我々は片時も忘れてはなるまい。