★ 第十三章 北朝鮮国境は、いま | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジアの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

 

第一部「暴走老人 西へ」(13)

 第十三章 北朝鮮国境は、いま

▲瀋陽の日本人街は壊され、新しい町並みに変わっていた

 こんどは北朝鮮との国境の町へ行ってみよう。

 

 大連から特急で瀋陽に入った。

 

当時、新幹線が開業したばかりで満員が続き、朝の従来線の列車しか切符が取れず、瀋陽着は昼ごろになった。

 

旧満鉄の「亜細亜号」を思い出しながら沿線風景を愉しんだ。

 

 瀋陽でも、いくつか衝撃的なことがあった。

 

 第一に東京駅を真似た駅舎として有名だった旧駅のどっしりと赤煉瓦の建物がとうとう取り壊され、反対側の西口に巨大な駅ビルとターミナルが出現しているではないか。

 

新幹線は西口に入る。東口は駅舎もろとも商店街も埃を上げて突貫工事中だった。

 

 しかもいつの間にか地下鉄が開通している! 日本では報道がなかったので、現場に立つまでは知らなかった。

 

 

第二に「奉天」と言われた日本時代には各地に日本人租界のごとき日本人街、商店街があった。

 

中山公園の大和ホテルを中心に「浪速街」など隆盛をきわめた百貨店「松浦洋行」は露西亜系ユダヤ人の秋林(チュウリン)に看板を換えたが、往時の建物のままだった。

 

付近は安酒スナックや簡便食堂が数知れずあった。

 

 戦前、日本が建てた「大和ホテル」の豪華ロビィは数々の映画のロケでも使用された。

 

その真ん前に毛沢東の巨大な銅像が聳えている

 

右手を前に挙げたポーズの毛沢東像をみて、若者が言うのは「タクシーを止めようとしているおっさん」の由。

 

 

 付近は高層ビルの建築ラッシュが続き、クレーンが唸り、古色蒼然とした旧街と対照的だ。

 

ところがセピア色の古き良き時代の風景を求めて、わずかに雰囲気を留めた旧日本人街が「新婚アルバム」の格好のロケ地になっていた。

 

中国人は結婚のアルバム作りにはカネをかける。なかには数百万円もかけて、婚前旅行を兼ねての海外ロケ組もいる。
 そのビルの隙間に貧民街が残っている。

 

うら寂しい横丁の入り口は青果店、飲食店のほか入れ墨専門店、潰れたダンスホールの無惨、客の少ない日本料亭は売りに出ているようだ。

 

隣が回天寿司。ぽつねんと新聞を読む老人が印象的である。

 

こうした町の風景の表と裏をみていると、どうやら貧富の差はますます開いていることが分かる。

 

 

 第三は日本領事館がアメリカ領事館と隣り併せて十四緯路にあるが、脱北者の駆け込みと反日デモを警戒して大通りからのクルマの進入を禁止していた。

 

別の機会にも、ここまでタクシーで行って撮影しようとしたら警官が飛び出してきて、「撮影は禁止だ。あっちへいけ」と怒鳴られた。

 

ソンミちゃん事件をご記憶だろう。

 

2002年5月7日、脱北の少女一家五人が日本領事館に駆け込み、中国の官憲が「日本の領土」にどかどかと踏み込んで、一家を拘束した事件だ。

 

明らかなウィーン条約違反であり、日本は珍しく主権侵害と中国を一斉に批判した

 

国際問題に発展したため、一家は幸運にも韓国へ亡命することが出来た。

 

 

 郊外にある「九一八歴史記念館」(看板は江沢民の揮毫)もどうなったか、再訪してみた。

 

ひしゃげた格好の奇妙なビルの前にパトカー、白バイが停車していて抗議活動を極度に警戒していた。

 

反日の中国人活動家が、何か騒ぎを起こそうという情報が流れていたからだ。

 

写真を撮っていると、その横の高架を轟音とともに新幹線が通過した。

 

「いつ開通した?」と待機させていたタクシーの女性運転手に訊くと「まだ試運転中ですよ。

 

年内開通では?」とあまり興味もなさそう。

 

 第四に駅前開発の犠牲で、不法屋台や露天商が一斉に手入れを受け、そのあおりでシャッターをおろし、連帯して一斉休業形式で当局に抗議した五業商店街がある。

 

ここへも行ってみて驚き、あの屋台の露天商は地下のショッピング・アーケートに移転していた。

地上はH&M、伊勢丹、ZARA、ユニクロなど外国企業がぎっしり(その後、伊勢丹は撤退した)。

 

露天商は近くの道路に移動し、極度にカメラを警戒している。ルイビュトンの偽物財布が500円だった。ビニール製で子供のオモチャである。

 

 

 

▲韓国人激減は、国境の町=丹東へ行って了解できたこと

 瀋陽であれほど目だった韓国人がほとんど消えていた。

 

理由は北朝鮮の真ん前に開けた街、丹東へ行ってみて分かった。

 

 瀋陽ー丹東間は昔のままのローカルな列車に揺られた。このルートは新幹線が通らない。

 

山間部や探鉱町を走るが、乗客のマナーの良さがむしろ不気味である。

 

四時間の車中、トンネルをのぞけば台地、平野、トウモロコシと稲作。山間には山羊がいる。

 

石炭の集積所は山盛りの在庫。

 

 車内で携帯電話に大声を張り上げる手合いが減り、デッキに灰皿があるが喫煙する人も少ない。マナーの迅速な向上ぶりは日本の影響だろうか?

 

 

 途中の炭坑街、本渓ではブルドーザやクレーン置き場が満杯、採掘現場は人出も少なく活況が失われている。

 

理由は石炭を取りすぎて在庫の山が築かれ、鉄鋼製品は売れ残りの山。

その生産現場に不況の風が吹くが、一方で強気で開発したマンション群が軒並み廃墟と化しつつある。

 

ゴーストタウンは中国全土に共通である。

 

 

 途中の駅で驀進してきた軍用列車に追い抜かれた。

 

客車部には兵員、無蓋の貨物車には戦車、装甲車、火砲を積んでいる。

 

北朝鮮国境へ移動しているのだ。

 

瀋陽軍管区(現在の北部戦区)が北朝鮮の異変を警戒し、軍の配置を換えているという直近の軍事情報を裏付ける。

 

 

 鴨緑江に面する国境の町=丹東。日本時代の安東である。戦前は、この町に銭湯が何軒もあった。この丹東でも韓国からの観光客が激減していた。

 

 

 一時は目の前に肉眼で見える北朝鮮を観察しようと韓国からのツアーがひっきりなしだったが、要するに北朝鮮観光ブームは終わっていたのだ。

 

 

 鴨緑江を一時間半ほどクルーズする観光船も、意外と空いていて双眼鏡でつぶさに北朝鮮の町並み、人々の生活を望見できるのだが、あいかわらず川向こうは活気がない。

 

生産の煙も見えない

 

 

 韓国は遼寧省、吉林省の朝鮮族を雇用して多くの工場を稼働させてきた。

 

ところが数年前から、まずは山東省から韓国人の夜逃げが目立ちはじめ、つられて遼寧省南部からも韓国企業の撤退が相次いだ。

 

北朝鮮観光に行きたくともビザを取れない韓国人グループは団体バスで丹東の河畔、鉄橋の繋がる場所でチマチョゴリを着て記念写真を撮る。

 

周辺には北朝鮮の切手、通貨、バッジなどが売られているが、いまこれらの土産を買うのは中国人観光客である。ここまで来る日本人は滅多にいない。

 

 朝鮮戦争で爆破され、切断された橋梁は、そのまま残って「観光名所」、先端箇所にカフェがあったのはご愛敬というべきか。

 

 

 丹東側の川岸に並ぶ料亭や新築のビジネスホテル。韓国資本の夜逃げでレストラン、ホテルが改称されている。

 

要するに中国資本に取って代わられており、繁華街には新築のビジネスホテルが四、五軒も建っていた。

 

 

 その後、中国も北朝鮮への経済制裁に加わったため、どこもビジネス客が少ないので閑古鳥。

 

かわいそうなくらいである。

 

ショッピング街にも客がおらず、ピンク系マッサージも海鮮料理店も開店休業状態。わずかに中国国内からの観光客がぶらぶら歩いて朝鮮人参などの買い物くらい。

 

 もうひとつの理由は北朝鮮のハッカー部隊が、丹東の安宿やホテルに分宿し、さかんにランサムウエアなどのハッカー戦争の発信基地としていたが、これも欧米の偵察と抗議で、どうやら丹東から姿を消したといわれる。

 

 

 鴨緑江の河岸に一軒だけ満員のレストランがあった。地元民で混む火鍋屋だった。

 

対岸に霞んで見える北朝鮮の新義州市の夜は漆黒の闇。工場の煙突から烟が見えない。

 

十年ほど動いていない観覧車が虚しい風景をさらに寂しくさせる。中国側はネオンが輝く。 

 

 丹東の「売り」は北朝鮮が直にみえるという観光の強み。

 

二番目は万里の長城の北東端(虎城が残る)、三番目が朝鮮戦争の展示をする「抗美援朝記念館」が山側に仰々しく建てられ、つい最近まで「朝鮮戦争は米国と南の傀儡が仕掛けてきた」と嘘宣伝を繰り返していた。

 

往時のミグ戦闘機や大砲も飾ってあるが、不思議にも反米色が薄く、むしろ朝鮮戦争と無縁だったはずの日本の悪口を並べている。

 

 

 この街は地図を広げると鮮明に地形の特色が把握できるように鴨緑江に沿って東西に長い。

 

細長い街を北東へ向かって山道を行くと遠方に長白山が聳える。

 

朝鮮の金王朝の始祖、金日成が生まれたという「神話」の聖地である。

 

 

 

 ▲日本時代の安東(丹東)には数軒の銭湯もあった

 丹東は急発展して人口は280万人に膨らみ、市内にはあちこちに摩天楼が林立した。

 

2014年あたりまで、軍の関係企業やOBが名前だけの「貿易会社」を設立し、北朝鮮との貿易利権を独占していた。

 

習近平政権となって旧瀋陽軍管区の軍人幹部を入れ換え、貿易企業幹部を逮捕したため、これらの利権も雲散霧消。

 

いまは一日数十台のトラックが食糧などを積んで北朝鮮援助に運行されているくらいだが、これもコロナ以後は、中断されているという。

 

 丹東市内の路線バスは縦横無尽に走り、タクシーも綺麗になった。街を一歩出ると白い柳、せせらぎ、白樺、野菜畑とのんびりした田園風景が広がり、なぜか心が和む。

 

 先代の金正日将軍様が、06年一月と2010年5月の中国訪問の際に鴨緑江を特別列車で渡河したが、丹東まで李克強首相が出向けて、歓迎の拠点だった。

 

おりから鉄道橋の改修工事を終えたばかりだった。

 

夏のハイ・シーズンに行ったときは、中国側の河畔沿いには高級海鮮レストランがずらーっと並んで壮観だった。

 

いけすから鮮魚や何種類もある貝を撰び、その場で焼くなり煮るなりする。

 

価格も安い。

 

アベックや家族連れも気軽に入ってくる。筆者もネオンの派手な一軒に入り石狩鍋のような盛り合わせ(量が多く半分以上を残す)にビールを二本。勘定というと500円もしなかった。

 

 

 鴨緑江には遊覧船、観光ボートがひしめき、北朝鮮を肉眼でみようと韓国からの観光客が大型バスを連ねてやってきていた。

 

それも二階建てシースルー・バスの豪華版だった。

 

貸し出し自転車は二人乗りタンデムではなく三人乗りが多い。珍奇を衒うのはかの民族の特性らしい。

 

 

河畔の観光歩道に露店が十数軒、パラソルの屋根、朝鮮特有の民族衣装を貸して記念写真を撮る韓国人相手の商売、ときおり警官が見回りにくる。

 

警官の表情にまるで緊張感がない!

 

パラソル屋台のおばさんに、「ロシア人はあまり来ないの?」と聞くと「中国はロシアの(北)朝鮮介入を牽制するために援助しているけど、われわれから言えば、あんなわけのわからない政権を助けるくらいならもっと税金を他へ回して欲しい」と率直なことを漏らす。

 

これも世論のあり方が中国の管制報道とは異なることを如実に物語っている。

 

 

 

 ▲図門へ行くと、北朝鮮との川幅は二、三十メートル。泳いでも簡単に渡河できる

  北朝鮮と山岳でつながる地点は集安だ。

 

 この街は長白山の麓、鴨緑江の上流に開けた田舎臭い町である。

 

わりはトウモロコシ、麦、稗などを栽培していて、これという産業は南へ100キロ、通化市(日本軍が敗走のおり一時的に参謀本部が置かれ、終戦のどさくさ時に三千もの日本人が虐殺された場所)まで行かないとない。

 

その通州にあった製鉄所も閉鎖された。

 

 

 集安の町も至る所にクレーンが林立して高層ビルを建てており、たぶん人口7万という公式統計より五割は多く、隠れた北朝鮮からの流民、移民がいると推測できた。市内のかたすみにぽつねんとキリスト教会があったが、人の気配はなかった。

 

 特筆しておくべきが二つ。

 

この集安に「広開土王」の石碑があること、歴史論争が続いて、はては関東軍がでっち上げた偽物説まであるが、ようするに朝鮮半島の南側に日本府があって、神功皇后の三韓征伐、白村江の戦いでは、日本が応援した戦争だったことなどが、ちゃんと書かれている貴重な歴史的遺物である。

 

 

日本の対外戦争の嚆矢は「白村江」だった。『日本書紀』には大和王権が朝鮮半島の任那、伽耶を統治していたと記されている。

 

集安の「広開土王碑」には、倭が新羅や百済を臣従させたと記されている。新羅と百済は王子を日本に人質に差しだしていた。

 

任那日本府があったように、朝鮮半島の南端は日本の統治下にあった。唐が新羅を攻め立て、ついで百済を侵略した。

 

唐の大軍に対して日本にいた王子が大和朝廷に救援を求め、斉明天皇自らが大軍を率いて瀬戸内海からの出軍、途次の福岡で急逝する。防衛路線を継いで日本は半島に出兵したが、白村江の戦いで敗れた。

 

 

この集安にまで観光にくるのは主として韓国人。

 

理由は世界遺産に登録されたピラミッド型の高句麗王陵墓に登るためである。

 

観光客に溢れ、山奥の町なのに市内に海鮮料理がある。

 

値段も高いが、韓国人がどっとやってきてカネを落とす。

 

つられて筆者も入ってみたがエビなど結構美味だった。

 

 

 別の機会に軍春の貿易特区をみにいった。中国とロシアと北朝鮮が接する要衝に開け、税関のビルだけは威容を誇っていたが、ロシア側の開発が遅れていて、とても工業特区とは言えない状況だった。

 

軍春で雇ったタクシーは、なんと19050年代のソ連製ラダだった。ホテルもレストランも朝鮮族、なにしろ吉林省延吉自治区は、住民のほとんどが朝鮮族である。

 

 軍春へも、図門へも行くには延吉が拠点となる。ホテルの部屋は入るなり、キムチの臭いがぷーんと立ちこめて往生した。

 

 延吉からボロボロの汽車で軍春へ向かい、かえりに図門に立ち寄った。

 

 

 図門も朝鮮人が多い、狭い町である。人口は13万人くらいか、筆者が行ったときは北朝鮮との貿易拠点で、そこそこ商業は活発だった。

 

 

 図門は朝鮮語で「図門江」。戦前の日本時代には、この町に天照大神を祭る図門神社があった。

 

 河岸まで足を延ばすと、目の前の北朝鮮までボート遊覧があった。 

 

川幅は最大でも50メートルくらいで、もっとも近いスポットでは北朝鮮との川幅は二、三十メートル。泳いでも簡単に渡河できる。

脱北者は、ここで警備兵に賄賂を渡し、中国側は亡命するのだ。

 

河畔にボート屋があって、すぐ国境のところへ接近するという。三十元だったか。

 

救命着をきて乗った。

 

舵取りは「カメラを向けるな」と注意された。なぜなら雑草のなかからぬっと北朝鮮兵士が顔を出すからだという。脱北を警戒しているらしいが、肉眼でも間近にみた北の兵士らに生気がなく、痩せていて飢えをあらわしていた。

 

 かくて中国の北朝鮮国境も凄まじい変化に見舞われていた。