★第二章 上海から杭州へ、温州へ | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジアの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

第一部     「暴走老人 西へ」(2)

 第二章 上海から杭州へ、温州へ


  ▲上海ー南京、上海ー杭州線は同時開通

 上海虹橋空港というのは昔の上海飛行場のことである。

 

にじばし、と書いて「ハンチャオ」と発音する。旧飛行場を拡張したうえ大改修し、規模が数倍となって、国内線専用空港レベルから国際線のターミナルも新設し、羽田とを結ぶ便が、コロナ災禍前、一日五、六便ほど飛んでいた。

 

 あたかも羽田─台北松山を結ぶラインのように、この便は恒に満席に近いドル箱だった。

 

 
 浦東に新空港ができて市内とリニアで繋がると虹橋は国内線専用となり見違えるほどに新改築され、その虹橋第二ターミナルに連結して新幹線の駅をつくり、開業したのが2010年だった。

 

鉄道駅も新築のぴかぴかに輝いていた。

 

 

 2010年の上海万博がおわると、目に見えない変化があった。上海人に一種傲慢ともいえる、妙な自信がついてきたことである。

 

 (もう日本なんか相手にしていないゾ)と露骨な態度を示す上海人が増えた。

 

 この虹橋始発駅から上海ー南京、上海ー杭州と二つの新幹線ルートをいっぺんに開業した。その迅速さには舌を巻かされる。

 

 

 虹橋空港の国際線ターミナルは、昔の上海飛行場の古い建物を利用していた。免税店も貧弱で国内線ターミナルからバスで二十分も離れているため、乗り換えにはことのほか不便だ。

 

しかし日本人駐在員らが羽田発、虹橋着を好む理由は虹橋地区に日本領事館があり、古くから進出したJALホテルも近いし、日本企業が虹橋地区から新古北区に密集しているからである。

 

 新古北区なんて、日本相手の食材店、カラオケ、古本屋。惣菜も、日本風のサラダも販売している。回転寿司も数店舗ある。

 

 このとき筆者は成田から上海浦東空港へ飛び、路線バスで虹橋(旧飛行場)の新幹線駅へと向かった。

 

あとで直近の地図を買って分かったのは同ルートに地下鉄が出来ていた!(しまった、地下鉄に乗った方が早かった)

 

 

 空港間の連絡バスは二時間はかかると踏んでいたが、道が空いていて50分で着いた。

 

バスには日本人が十人ほど乗っていて、上海から乗り換えで中国各地へ商用で行くことが分かる。

 

かれらも郷に入れば郷に従えとばかり平気で車内でも携帯電話、大きな声で日本語を喋るからすぐわかる(最近のスマホは文字通信が主流となったので、車内は意外と静かだが。。)。

 

 新幹線の虹橋駅は壮大な規模を誇るのだが、ロボット世界のように冷たい印象がある。東京や名古屋や大阪駅のように洒落れた珈琲店もなく、レストランや書店は見窄らしい。

 

 

 この虹橋駅ですぐに杭州行きの次の列車がとれた。

 

 杭州行きは短距離と雖も、十六両編成。途中カーブで五度ほど傾いたが電光版をみたら216キロを出していた。

 

座るとすぐに珈琲を売りに来た。インスタントで8元。

 

クリープつき、おしぼりは呉れない。途中の最高速度は346キロを達成した

 

ちょっと怖いほどに早すぎる。

 

 途中の新駅の風景はといえばたんぼ道、牛馬がいる。前時代的な農業の光景があった。どの駅も旧市内とアクセスが悪い。

 

沿線の風景といえば防音壁がない所為で車内から景色を楽しめるが、あちこちにニョキニョキと高層マンション群、ハイウェイ沿いはドライブインがまだ整備されておらず、ともかく広告塔、広告塔、広告塔!

 

 その後、日本からの旅客は急増し、全日空は杭州、武漢へ直行便を就航させた。

 

 

 

 ▲ハード・ランディングの予言を思い出した

 車窓から景色を見ながら、連想したことがある。新幹線が、意外とがらがらだったことに関連して、ルービニ教授の言葉が脳裏を去来したのだ。

 

ノリエル・ルービニNY市立大学教授といえば、あの2008年リーマン・ショックを予告した、世界的なエコノミストだ。

 

 

 ルービニは七年前にも中国に警告した。

 

「中国はGDPの50%を開発に投下している。ソ連の末期と同じように、この異常な経済の構造は2013年以後にハード・ランディングをもたらすだろう」

 

 しかし資源企業ならびに強気のエコノミストらは反論した。

 

「年率経済成長が10%もあり、たとえこのスピードが5%に低下したところで成長することに変わりはない。

 

インフラ整備のため建材、セメント、鉄鉱石需要は衰えることはなく、たとえば向こう十年にあと二億人が都市部へながれこむ予測に立脚すれば、それを吸収する住宅需要があるではないか」。

 

 

 だがルービニ教授は次のように反論したのだった。

 

「中国が鳴り物入りの宣伝をした新幹線に乗った。上海から杭州へ50分でつながる新幹線の乗客は半分だった。新駅は三分の一が空っぽだった。

 

平行して走るハイウェイは、じつに三分の二ががらがらだった。

 

これは何を意味するか。60年代のソ連、97年通貨危機に直面する前までのアジアといまの中国の状況は酷似している」

 

 

 まさにその通りの惨状がコロナ以後の中国経済の実情だ。

 

 日本では被災した東北新幹線の沿線風景は防音壁が高いためMAXの二階に乗らないと景色がまったく見えない。

 

 中国ではちゃんと沿線の風景を楽しめる。しかし景観に変化がとぼしい区間では旅客は窓の外を見ないで車内テレビの映画を見ている

 

著者はたまたまチャプリンの音声のない映画をみたが、著作権が切れた古い映画を上映しているのには興ざめだ。

 

 

 杭州新幹線は僅か四十三分、あっけなく到着した。北京ー天津間は30分だから、すこし距離が長いだけという感覚だ。

 

 となりの人と喋る時間もない。

 

もっとも一等車内なのに乗ってからおりるまで大声で携帯電話で怒鳴っている人がいる。

 

前席の若い女はずぅっと寝ている。

 

通路に足を出しても誰も注意しない。

 

即席麺をずるずると音を出して食べる人も多い。

 

これも中国の日常風景。

 

日本にきた中国人はバスや地下鉄のなかで携帯電話を使わない日本人が不思議だという。

 

いまではスマホの文字通信だから大声組はめったに見かけないが。。。

 

 

 杭州から福建省までずっと南下する新幹線に乗るのは翌日に廻し、とりあえず杭州市内で一泊、駅前の高層ホテルに旅装を解いた。

 

の杭州にはアリババ本社もあるが、駅からは随分と遠い。

 

 ダフ屋、旅館の番頭風、あやしげな按摩斡旋(たぶん売春)、得体の知れない飲み物を売るおっさん、他人にタバコをたかるホームレス。

 

 杭州は浙江省の省都だ。ましてや古都であり歴代王朝の首都だった

 

市内どこでも風光明媚、駅前の雑踏や繁華街の乱雑さからは想像しにくいが、あちこちに湖畔の別荘、嘗ては自然が美しかったに違いないと思う。

 

地下鉄の工事をしていた。オペラ劇場がある。古典劇を尊ぶ風情が強い土地柄のようだ。

 

 

 翌朝、早起きして市内を散歩。新聞を買ってぱらぱらめくりながら、ホテルで食事。朝風がつめたい。杭州は三回目だったが、鉄道で市内に入ったのは初めてである。

 

駅前の裏道は貧困、パジャマで歩いている初老の人々は饅頭、ねじりパンなどで朝飯を済ませていた

 

 

 

  ▲一路「中国のユダヤ人」=温州へ

 杭州から寧波への特急もあるが、途中、上海と杭州湾をまたぐ35キロの鉄橋(世界最長)を眺め、寧波の手前から新幹線は南へカーブする。一路、浙江省最南端の町、温州へ向かった。

 

 ーーおっと。この路線はトンネルばかりではないか。

 

 

 途中、二十数個で数えるのを止めた。山岳、急な山稜、トンネルとトンネルの間、左側に海が見える。

 

 しかし海が見えたとカメラを向けると、またトンネルだ。

 

 この景色、既視感がある。大磯あたりから熱海、三島へ向かう東海道線の景色と似ている。

 

鬱蒼とした森、竹藪、棚田。

 

農家はすこぶる豪勢、茶畑、トラクター、過疎。

 

そして束の間に田舎風情の景観からトンネルの闇。

 

 

 トンネル内でも247キロ、耳が痛い。

 

台州駅通過は236キロ、メモをとる手も震えるほど。

 

何本か河を渡ったが、海に近いため川面は茶褐色、いたるところで浚渫工事をしている。

 

途中駅から隣席にバングラデシュ人が座った。

 

真っ黒に日焼けして、笑うと歯が白い。たぶんベンガル系だろう。

 

浙江省に出稼ぎにきているという。中国では英語で生活しているが、外国人の世界だけでも暮らせるので不便はないと言った。

 温州に関しては特筆しておきたいことがたくさんある。

 

 温州の新幹線駅(温州南駅)は新築、ぴかぴかだが、はやくもタイルが剥げおちた箇所があり駅構内の売店はない。

 

整備が追いつけないのである。エレベーターもエスカレーターもまだ動いていない。

 

駅舎だけは工期が間に合ったが構内の諸施設はまだ工事中だった(2011年三月の話だ)。

 

 コンコースから一キロ近くも歩いて、やっとこさ、バス駅。市内へ向かうバスは二元。

 

道は全部工事中で渋滞。

 

えんえんと車列が埃をあげて、予想した通り温州市内まで一時間かかった。

 

 

 温州市には製薬、運送業、眼鏡、鋳型、繊維工場が多い。

 

とくに目立つのが眼鏡製造メーカーだ。

 

バスの道沿いだけで五軒。福井鯖江の眼鏡企業、温州から誘致され、親切にも機械設備を持ち込んで工場を開き、中国人に懇切丁寧にノウハウと技術を教え、やがて彼らは独立して類似製品を半額でつくり、日本の顧客を奪った。

 

そのため鯖江の眼鏡産業は壊滅寸前になった。

 

そういう阿漕なビジネスを展開するのが、温州人である。

 

 

 この乱雑で埃だらけで都市計画の美が一つもないような町が、なぜ「中国のユダヤ人」と言われるのか。

 

温州人の町をあてどなく散策しても、いかなる場所にも富の象徴を発見できず、優雅さも豪壮さも片鱗さえないのだ。

 

 

 温州駅前の雑踏のなか、空腹でレストランを探すが、ろくなものがない。仕方なくKFCに飛び込み、適当なものを食して店を出る。

 

温州の銀座通りの筈だが、通行人が着ている服装が野暮ったい。若い女性のファッションも田舎くさい。

 

 ーーそうか、温州人って実務一点張りで外見は構わないんだ。

 

 

 数年前に来たときも、あまりに乱雑な都市作りに驚愕した記憶がある。映画館、デパートのとなりに煙を上げる工場、ロータリーは舗装されておらず、濛々とした砂塵透かしてみると交差点の一角に屋台が営業している。

 

町中に石炭火力発電があり、マスクをしても顔がまっ黒になるのに平気である。

 

高級ブティックの隣りが怪しげなマッサージ屋。

 

いったい都市設計という発想は、この町にはないのかと思った。

 

 結局、温州には泊まらず、そのまま福州へ向かうことに決めた。 

 

 

 温州南駅へ埃だらけの道を戻り、次の目的は福建省福州、切符はすぐに買えた。

 

速度248キロ、途中駅は開発途次の開発特区が多く、工場がぼつんぽつんと建っている。地盤改良工事の現場が夥しい。塩を含んだ海浜工業地帯だからだろう。

 

 

 この区間だけ車内販売がなく、お茶も飲めず、福州市が近ずくにつれ、農家の風格が豊かに見える。

 

六階建ての農家が目に付くので駅名を確かめた。

 

連江だった。なるほど、この連江は密航者のメッカだったところだ。