★インドは政教分離の民主主義国家 | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジア7つの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

 

第二部 「暴走老人 アジアへ」 

第二節 南アジア七カ国(その6の2)

 

インド つづき

 

▼インドは政教分離の民主主義国家

 「世界最大人口の民主主義国家」がインドのうたい文句。

 

そのインドの政治は政教分離である。「最大」はいまのところ中国だが、「最大の民主主義国家」と続けるところが、西側へのインパクを狙っている。

 

 外国企業よ、どんどんインドへ進出して下さい、との呼びかけでもある。

 

 信仰の自由は保障されており、それゆえヒンズー寺院のとなりがモスクであったり、キリスト教会であったり。こういう混在光景は世界ではあまり見られない。

 

 タージマハールは十七世紀に建築されたムガール帝国の覇者の王妃の墓。これはモスクである。インドの正式名称はヒンドゥスタンン(ヒンズー教徒の国の意味)だが、インド自慢の世界遺産がイスラムのモスクとはこれいかに。

 

シャイプールのハワーマハル(風の寺院)、シティパレル(ピンクの城)はヒンズー建築である。いずれも世界遺産だ。南西部のゴアへ行くとキリスト教会ばかりが目立つ。

 

 

 不幸なことにインドのコロナ感染で最悪のクラスターは、タージマハールのあるアグラから起こり、三ヶ月以上わたって、この世界遺産はロックダウンが続いている(2020年7月9日現在も)。

 

 

 このアグラへはデリーから鉄道に揺られた。

 

早朝に駅へ行くと駅舎内は真っ暗で、目をこらすと夥しい人々が駅のプラットフォームに蹲っていた。ふっと油断したらカメラバックを盗まれて、このときはデジカメ時代ではなく、一眼レフのキャノン。

 

だから、各地で撮影が不能となり、タージマハールではカメラ屋を頼んだ。二枚だけOKだからというのに、ネガをひっくり返して別のシーンに造り替え四枚売りつけてきた(もっとも四枚で千円ほどだったが)。そのずるがしこい狡猾な手法、これがインド商人道のようだ。

 

 ホテルを一歩出ると、「乗れ、乗れ」と執拗にリキシャがついてくる。それこそ根負けするまでついてくる。あまりのことに「還れ」と日本語で怒鳴っても、先方は馴れているのか、しゃあしゃあとついてくるのだ。

 

 普通の運賃の三倍はふっかけられると踏んで、外国人につきまとう

 

 あきれ果てるというより、それがいかにもインド的で強い想い出となるのだから不思議である。

 

 

 宗教分布では最大人口を誇る伝統的なヒンズー教は昔のバラモン教から発展した。紀元前五世紀にブラマン教の改革宗教として誕生したのが仏教とジャイナ教だった。

 

仏教はインドを離れ世界宗教となるが、ジャイナ教とヒンズー教はインド亜大陸にとどまった。

 

独特のターバンを巻いたシーク教はヒンズー教とイスラム教を融合させて十六世紀初頭にパンジャブで生まれた。

 

シン前首相はシーク教徒だった。

 

 インド生まれの宗教が日本にあたえた影響は計り知れない。

 

とくに仏教の影響が最大と考えられるが、じつはヒンズー教の日本へもたらした文化的影響力も大きく、雷神のインドラは帝釈天に、「宇宙を創設するブラフマ神、宇宙を維持するヴィシュヌ神、堕落した宇宙を破壊してブラフマ神に繋げるシヴァ神はそれぞれ梵天、多聞天ないし毘沙門天、大黒天になりました。

 

ブラフマ神の妃であるサラスワティは弁財天、ヴィシュヌ神の妃ラクシュミは吉祥天」になった

(日本戦略研究フォーラム編『愛される日本』、ワニブックスを参照)。

 

 

 

▼日本とインドの友好親善の象徴は、インド象「はな子」

象徴はインド象の「はな子」だった。

 

しかしこれはタイの国王から送られ、上野動物園の人気者だった。縄文時代、日本列島は大陸と陸続きだったから、象も、縄文人ハンターの狩猟対象だったと推定されている。

 

記録の残るインド象は亨保十三年(1728)、八代将軍吉宗の時代に、ベトナムから送られ長崎に上陸、翌亨保十四年三月に長崎から江戸のへ行脚を開始し、各地では見物人が多数押しかけての大騒ぎとなった。四月に京へはいり、中御門天皇が天覧された。

 

それからも延々と一日五キロ前後の行程で、五月末に江戸に到着し、将軍・吉宗が台覧したという。

 

送り主はタイ、ベトナムだが、もともと象はインド産だったので、日本人はインド象の印象が強い。

 

 

 インドの独立戦争を支援した日本への感謝の念をインドの人々は忘れることがないという厳然たる事実を肝心の日本人のほうが忘れている。

 

 日露戦争に勝った日本の輝かしい歴史を語ったネルーの『娘に語る世界史』のなかの日本の項目はいまもインドの教科書に載っている

 

トルコの教科書に日本のエトルールル号救助の美談がいまも語られているように、学校で培われた日本への近親感は強い。

 

 

 このインドが主導する地域連合に大きな楔を打ち込み、南インドの地政学を攪乱しているのが、かの中国である。

 

 中国の狙いはSAARC(南アジア地域連合)の諸国への影響力の浸透であり、南アジア政治においてインドの主導権を弱体化することである。インド外交への、あからさまな妨害工作と言える。

 

 従来、SAARCへの中国投資は250億ドルだったが、今後、インフラ建設への協力により300億ドルを投資する用意があるとしてインドを牽制した。

 

SAARSカトマンズ会議の費用を中国が負担するなどの大盤振る舞いだった。

 

 インドが露骨に反対しなかったのは中国が提唱したBRICS銀行の融資が目の前にちらつき始めたからだった。

 

資本金500億ドル、加盟国のインフラ整備に巨額を有利な条件で融資しようという、国際金融常識を度外視した「政治工作資金銀行」がBRICSだった。最近はその動向も聞かないようである。

 

 

 

 ▲毎年のリパブリック・ディに、世界からひとり、インドは国賓を迎える

 2015年1月26日、インドは「リパブリック・ディ」の主賓に米国のオバマ大統領を主賓として招待している。2020年はトランプだった。

 

 インドのリパブリック・ディは独立記念日とならぶ重大行事。

 

インドの29の州が合邦した歴史的記念日とされる。このリパブリック・ディの主賓は「毎年ひとり」だけ。世界の指導者から選抜される。2014年は安倍首相が主賓として招かれてインド国会でも演説した。

 

そのときも、たまたまインドにいた筆者はテレビニュースも新聞も安倍首相のデリー訪問を一面トップで大きく扱っていたことを目撃した。ホテルでレストランで、日本人と分かると「OH! ミスター・アベ」と言われた。

 

 オバマを招待するという意味はインドの「外交のクーデター」である。直前の14年九月に習近平が訪印し、200億ドルという途方もない経済プロジェクトをぶち挙げたのだが、その日、人民解放軍がインド領に軍事侵攻し、習近平の顔に泥を塗った。

 

インドの対中不信感はぬぐえなかった。

 

 これまでインド最大の友好国かつ武器供与国はロシアである。プーチン大統領はその直後にインドを訪問することが決まっていた。

 

 中国、ロシアをさしおいてインドが米国大統領を招待するわけだから北京もモスクワも面白くない出来事だった。

 

 

 天皇皇后両陛下が2013年師走にインドを親善訪問され、チェンナイ(旧マドラス)にも足を延ばされて大歓迎を受けた。

 

チェンナイには日立、ヤマハなど日本企業の進出が目立ち、工業団地がある。自動車工場も林立している。

 

  14年八月下旬にはモディ首相が五日間も日本を訪問した。日印関係はあつく燃える。

 

 「インドには三つの強みがある」とモディ首相は力説する。「若い人口、民主主義、そして豊富な資源である」。

 

 デリー周辺、とくに西のグルガオンには日本企業専用工業団地があり、スズキとホンダが大工場をつくって二輪、スクータを大量生産してきた。

 

その西に広がるグジャラート州が日本企業の大規模誘致を決断、「日本企業専用団地」の造成が近道という強い政治判断をなしたのはモディ首相がグジャラート州第一首相時代だった。

 

グジャラート州にはすでにタタやフォードの工場もあり、ダイキン、日本通運なども操業中だ。ところが中国企業は殆ど存在しない。

 

 

 ハイダラバードのIT新都心では若者達が恰かもカリフォルニア州のシリコンバレーのような、のびのびした環境の中で日夜次の技術開発に鎬を削っている。

 

新設大学は日本が支援する。周囲には高層マンションが林立している。

 

 キリスト教信者が多い沿岸部(とくに西海岸から南端まで)は比較的西洋化している。

 

他方、デカン高原やアッサムの山奥、パキスタンに近い砂漠地帯など習俗も風俗も、ましてや宗教が異なり、州ごとに政令が違う。

 

いや、インドは共和制である前に二十九の州からなる連邦国家、この点で米国の合衆国に似ている。

 

 ほかにも土地収用の困難さ、労働組合の強さなどインドには難題が多い。

 

 

 

 ▼パル判事は日本無罪を主張した

 インドのパール判事と言えば、日本の無罪を主張してくれた恩人という評価で保守陣営から高い人気が続いている。

 

 安倍首相が最初にインドに足を踏み入れたとき(第一次安倍政権)、わざわざコルコタ(旧カルカッタ)に立ち寄ってパル判事の記念館などを回った。

 

 中嶋岳志・西部遭共著『パール判決を問い直す』(講談社新書)によると、パールの日本無罪論は「A級戦犯」に関して「刑事上無罪」であるとし、道義的無罪を主張してはいない。

 

張作霖爆破や満州建国、南京事件に関しては「毒を制するに毒を以てなした行為」であって非常にネガティブだと指摘されている。

 

要は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という事後法によった裁き方が当時の国際法にはない概念であり、A級戦犯は当然だが無罪であり、また連合国が主張したような「共同謀議」は成立しないとパール博士は言ったのである。

 

 パール判事は大東亜戦争を肯定してもいなければ全面的に日本が無罪とは言っていない。

 

西部遭は「パール判事より清瀬一郎のほうが東京裁判の問題点をきちんと指摘して」おり、「東京裁判が一つの事後法にもとづく不法行為であり、二つに政治的復讐劇である、と最初に指摘したのは清瀬」だったと言う。

 

そういえば筆者も学生時代に清瀬一郎を熟読した記憶が蘇った。講演も聴きに行った。清瀬一郎『秘録東京裁判』(中公文庫)には傍線を引いて何回か読んだ。

 

 そもそもパールは現在のバングラデシュ出身でベンガル人だ。身分の低いカーストであったため差別され、苦学して大学をでたが、法律研究の動機は伝統的な長子相続法だった。

 

なぜなら「インドでは『政治経済』の領域はイギリス流に、文化宗教の領域はインドの伝統を尊重するという(英国の)統治」であったがため法の分断が生まれていた。

 

 商法、契約、訴訟などはイギリス流の法律が裁くが、結婚、相続、扶養家族はインドの伝統に基づき、ムスリムにはイスラム法典が、ヒンズー教徒にはヒンズー法が用いられた。

 

 問題は統一されたヒンズー法が存在しなかったため絶対的な判定をできる法典がなかった。

 

そこで「法学者らが依拠したのが、サンスクリット語で書かれたヒンズーの古典籍」だった。学者らは古典籍を体系化し、ヒンズーの法律は「古典回帰によって統一され、全インドに施行されて行きました」(中嶋)

 

 西部遭は「(だからパール判事は)イギリスの植民地であるインドが如何にプライドを取り戻すか、(中略)いかにインド文化のレジティマシー(正統性)とジャストネス(正当性)を保証するための歴史的拠点を見いだすかという、インドの思想家としての姿勢がある」とまとめる。

 

 

 つまり東京裁判を通して、「パールは旧宗主国であるイギリスに、思想的な反撃を加える機会として書いた」わけであって、パールには、「親日の前に反英があった」のだ。

 

 パールは法廷に逐一出席せず、また東京裁判の最中にもインドへ帰国したりで判決文を書き上がることだけに熱中した。

 

日本軍がインド独立の指導者として熱心に支援したチャンドラ・ボースにパールは一言も言及していない。

 

したがって西部遭はパールの思想は結局、日本の保守派は受け入れないとする。

 

 筆者はパール判決文を精密に読んだことがない。殆どは清瀬一郎のもの、裁判記録は富士正晴の著作、そして最近明らかになった証拠書類として申請し東京裁判で却下された夥しい証言などを小堀桂一郎が編集した。

 

印象深かった言葉は清瀬一郎が「ベトナム戦争で日本が心理的にベトナム側を支援している理由は大東亜戦争の復讐をそこにみているからだ」だった。

 

 

 

 ▼植民地を解放したのは誰だったのか?

 インド亜大陸は英国が植民地とした。

 

強引に地図を線引きしてインドからパキスタン、バングラデシュ(当時は東パキスタン)、そしてミャンマーをわけた。

 

 これに果敢に立ち向かったのはインド、ミャンマーの知識人で日本軍に協力し、戦後、かれらが中心となって独立を獲得した。

 

背後には日本の徹底した独立運動への理解と支援があった。

 

 

 英国の植民地支配は被征服民族の分裂と内訌を煽り、たとえばミャンマーでは国王夫妻をインドへ強制移住させ、王女はインド兵にあたえ、王子たちは処刑した。旧ビルマから王制は消えた。

そのうえでムスリム(イスラム教徒)を60万人、いまのバングラデシュから強制的にミャンマーへ移住させ、仏教の国に激しく対立するイスラムを入れた。これがロヒンジャ問題の根幹なのだ。

 

一方、北部のマンダレーには大量の華僑をいれ、少数民族を山からおろしてキリスト教徒に改宗させ民族対立を常態化させて植民地支配を円滑化した。

 

西洋列強の植民地経営は、これほど阿漕、悪質だった。

 

 

 ベトナムでフランスが同じ事をやり、インドネシアでオランダがそれを真似、インドにも英国は民族の永続的対立の種をまいた。

 

つまり言語と宗教の対立をさらに根深いものとして意図的に残し、あるいは強化し、インド支配を永続化させようと狙った。

 

 アジアの植民地を解放したのは日本である。旅行記の筈が、この項目では政治史になった。