「僕の一番好きなことは「勝つ」といふことです。一番嫌いなのは「負ける」ことです。」

冒頭に記述された、木村政彦の言葉です。そして、この言葉が木村政彦という人間の全てだと思います。

この小説は、小説家増田俊也が18年間の間取材し書き上げた、渾身のノンフィクション小説です。

私は格闘技が好きで、PRIDE、K-1全盛の頃は(テレビでだが)観戦していたし、プロレスもたまに会場に足を運ぶ程度だが観戦し、ネット動画で海外のTNA、WWE、UFCなども観戦しています。

しかし、木村政彦という人間はほとんど知らず、柔道が強かったが力道山に負けたくらいの認識でした。しかし、小説を読んで、これほど凄い人間がこの世に存在したのか、と驚きました。

そして、その生き方に非常に感銘を受けました。

日本最強と言われた柔道家牛島の弟子となり1日9時間の猛練習。そして柔道選手権15年間無敗エリオ・グレイシーに勝利した唯一の日本人。負けることは「死」とする執念。それでいて、悪童と呼ばれる程度の魅力的な人間味も持っていました。

その後プロ柔道の道に進みますが、病床の妻の薬代を稼ぐため、お金が稼げるプロレスに転向します。しかしショービジネスにおける成功は収められず力道山のシナリオ破りにより引導を渡されます。

力道山にリベンジを申し込むも全て無視され、39歳で力道山が刺殺されたから後、リベンジを果たすことも適わず失意のまま人生を過ごしました。

しかし、失意の人生の中に師匠牛島が手を差し伸べます。牛島の心意気に触れた木村は拓大の柔道部コーチとして就任、拓大を日本一に導きます。そして、岩釣という本物の弟子を獲得します。木村は岩釣を鍛えに鍛え、自身の分身ともいうべき人間に育て上げました。岩釣も期待に応えようと努力しました。

木村の師匠である牛島も木村を鍛えに鍛え、自身の分身ともいうべき人間に育て上げました。木村も期待に応えようと努力しました。まさしく執念で「最強」を継承する師弟の歴史です。そして「本当の努力は裏切らない」ということを継承したのです。

その後木村はガンにより75歳で亡くなります。

亡くなる前、夫婦で散歩をしているときに、木村は「これでよかったよね…」と言いました。涙が溢れ続け頬を伝ったそうです。

力道山が39歳で亡くなり、リベンジも果たせず一番嫌いな「負ける」を背負い続けた人生はどれほどの苦しみだったのでしょう。

しかし、私個人の考えですが、「岩釣」という弟子を持てたことで晩年は幸せだったと思います。弟子を持てたのは自身が新しい命を得たのと同意ではないだろうかと。

人の命は限られています。どんなにあがいても永遠に生きられないのです。

岩釣はその後木村の敵討ちとばかりにプロレス参戦に名乗りを上げますが、結局セメント思考が嫌われ、プロレスでは戦えませんでした。しかし、当時はアンダーグラウンドだった現在でいう「総合格闘技」で勝ち続けました。「最強」「努力」の血脈は止まらなかったのです。

力道山に負け、失意のどん底で苦しんだからこそ、「勝利」を得るために「本当の努力を重ねること」を後に続く者に「継承」したのだと、木村政彦は雄弁に静かに教えてくれました。

すっ、と引き込まれる文章力、客観視、執念の取材。増田さん、本当に良い小説を残してくれてありがとうございます。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/新潮社

¥2,808
Amazon.co.jp