長崎の修道院は当然カトリックであるから、プロテスタント信者である私は、ミサに参加できても聖体拝領は受けられない。代わりに神父の前に進み出て「祝福」を授けてもらう。最初の頃は「同じキリスト教徒だのに」と思ったこともあったが、今では「それも当然」と思うようになった。プロテスタント信者としての自負が芽生えてきたからかもしれない。
プロテスタント教会の礼拝でも、パンとブドウジュースによる聖餐式が行われる。毎日曜日に行っている教会は少なく、大体が月1~2回が標準のようだ。
この聖餐式をめぐって日本基督教団では一人の牧師が、「教憲教規違反」として免職処分を受けた。洗礼を受けた者だけではなく、未洗礼の者にも分け隔てなく、パンとブドウジュースを授けてきたのがその理由だ。
これは「オープン聖餐」とも呼ばれ、私も未洗礼の時に単立の教会で聖餐に与ってうれしかったことを覚えている。その際、牧師は「未受洗の方でもキリストを受け入れたい方はOKです。逆に洗礼を受けている者でもきょうはキリストを与る資格がないと思う方は遠慮していただきたい」と述べていた。
オープン聖餐に対して、洗礼を受けた者に限定するのが「クローズ聖餐」だ。どちらが聖書的根拠を持っているのかは、どういう神学、つまりイエス・キリストをどのようなお方として理解するかで、判断が難しいようだ。
「で、あなたは如何なるスタンスを採るのか」。そう問われれば、正直言って非常に曖昧かつ宥和的である。両者の言い分が分かるからだ。
だから、教会によって「オープン聖餐」を採用したり、「クローズ聖餐」を守ったり、複線的な運営があってよいと思っている。そのどちらを採るかは信者次第である。分離を繰り返してきたプロテスタント教会である。嫌なら自分にあった教会を探せばよい。そう言えるのは、様々な教会が林立する都会在住者の戯言かもしれないが。
今回の日本基督教団の免職問題は、表向きは「聖餐論」になっているが、実は権力闘争に過ぎないのではないか。かつてこの教団は執行部を社会派牧師が握ってきたが、この20年ほどは教憲派と呼ばれるかつての伝道派の牧師が巻き返しに成功し、「教団を正常化する」ことに意欲的だ。
免職処分を受けた牧師は社会派に属し、彼が提唱する「自立と共生の神学」も内容豊かなもの。社会派牧師から想像されるような闘士型ではなく、非常に温和な人物である。この人が狙われたのは、政治的な意図あってのこととしか言いようがない。
重ね重ね言うが、私は社会派でもなければ伝道派でもない。教派・教会や牧師を見る際の私の基準は、「そこに霊性があるか」その一言に尽きるのだ。
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