いい日旅立ち

 

 

 

今年の3月、母が他界した。

この桜は、母の納棺に立ち会って、家に帰るときに咲いていた早咲きの桜。

私と同じくらいの背丈のこの桜は、私に微笑みかけてくれているようで、私のこころを和ませてくれた。

 

母の納棺の際に、おくりびとが、母の顔をきれいにクレンジングして、お化粧してくれて、髪の毛をセットしてくれた。

 

一緒にいた姪っ子がそのときつぶやいた。

「生きてたときよりキレイ!」

思わず私はふきだしてしまった。葬儀屋さんもふいていた。

母も「ちょっと、笑わせないでよ。もう死んでるんだから。」と、今にも笑い出しそうな、安らかな顔をしていた。

 

最後に私は、母からもらった着物と羽織を棺の中の母にかけた。母のすみれ色の口紅と羽織の色がピッタリとマッチして、本当にキレイだった。わたしはとても幸せな気持ちになった。

 

実は私は、子どもの頃、父から暴力を受けている母をみて、母を不幸だと思っていた。母が泣いたり、不機嫌だったりすると、私も辛くなった。

そして、母には幸せになってほしいと思っていた。

でも、「生きてたときよりキレイ」な母を前に、私は、母のあるがまま、そのまんまをまるごと受け入れられた気がした。そして思った。「幸せな人」「不幸な人」なんて二元に分けられるものではなく、ましてや、私が判断することではないよね…と。

 

そう思ったら、私の中の「母にもっと笑ってほしかった」「あるがままのわたしを認めてほしかった」という幼いこころは、成仏したような気がした。

 

生の延長線上に死がある。

人間の都合とは関係なく、毎年咲いて、こころを和ませてくれる桜。

ただ、そこには自然の摂理があるだけ。

 

来年も、大好きな人と桜の下で笑いあえたら、奇跡。

人生は、諸行無常。一期一会。だから尊い。