紀伊国屋ホールに行ってきました。
いつも思うけど、紀伊国屋ホールの椅子って不自然なくらい後ろに傾いてる。
背中をあずけようものなら、「あれがオリオン座ですか」と、隣の人に話しかけたくなります。
そして、私の身の丈は標準よりかなり短い。
美容院でシャンプーのときも必ず「もう少し上に来てください」と言われ、ひざが曲げられない位置まで尻でずり上がらないといけない。
この紀伊国屋ホールでも、背中と尻の位置を座面にフィットさせようとすると同じ苦労がある。
上演時間2時間の間、ずり上がってはジリジリと滑り落ち、滑り落ちてはずり上がるを繰り返していた。
両隣と後ろの席の人にご迷惑をかけたかもしれないことを、ここで謝ります。
って、ここで謝ってもね!!!

さて、「朝日のような夕日をつれて2014」
FBや某サイトで「大学生のときに初演を見た」と言いふらしていた私だが、当日、鴻上尚史さんの「ごあいさつ」で知ったことには、初演は1981年だった
ぎゃっ、私が観たのは初演じゃなかった!!
どうしよう、逆算されたら私(一番若くても)52才ってことになっちゃうー!! 
と、どうでもいいことに動揺しながらオープニング。

85年に見た「朝日のような夕日をつれて」は、ほとんど忘れていたのだけれど、始まってしまったら色々なところで既視感。
おもちゃ会社と「ゴドーを待ちながら」のミックス話。
男5人が並んでのダンスも、当時「カッコいいー」と思ったまんま。
そう、この芝居はとてもカッコいい
カッコいい中に、さまざまなメッセージと笑いがてんこ盛り。当時、感動したハタチの自分を思い出した。
そしてこの芝居を誘ってくれた「第三舞台」大好きハコちゃん(同級生)を思い出した。「岩谷さんがバイク事故で死んじゃった」って教室で泣いていたよね。

と、芝居を放り出してうっかりノスタルジーに浸る私。その間も、ずり下がったり這い上がったり。
芝居に出てきたゲームアプリ「SOUL LIFE」は『ノスタルジー』が売りらしいが、私にとっては第三舞台の芝居自体がノスタルジーの元だ。
みよ子からの手紙で「ぶりっ子というかモラリストぶってる女達」という台詞があったが「ぶりっ子」って、もう死語だよなーとか思っている私。その間もずり下がったり這い上がったり。
小須田さんや藤井隆が汗びっちょりで、ジャケットの袖も背中も真っ黒なのに、次の登場できれいに乾いていると、「あのジャケット、同じの何着あるんだろう」とか思ってしまう私。その間もずり・・・・・・略

いかーん!!

終わってみれば、確かに面白かったのだけれど、意外なほど残るものがなかった。

それは、ゴトーを待ちながらのキャッチボールやダーツやクイズに新鮮味がなかったとか、スタイリッシュなダンスも、昔感動したレベルに比べたらキレが無い(一番踊れる玉置玲央さんが最初と最後にちょっとしか出ないのは全体のレベルをそろえる為かと穿ってしまった)とか、そういうことではなく、オバサンになった私に届かなかっただけだと思う。
現に終演後、周りからは「すごい面白かった」「よかった」の声が響いていた。
私はというと「ああ、うん、面白かったけどね、うん」くらいのテンション。

「ここではないどこか」と言うのは、虚構の劇団などここ数年に見た鴻上尚史さんのお芝居に共通するテーマだと思うのだが、彼が「ここではないどこか」を否定しているのか肯定しているのかがよくわからない。
「ここではないどこか」ではなく「どこかではないここで」「生きろ」「立て」と言ってるのだろうか。そう思えなくも無い。
しかしそれにしては、毎度毎度「ここではないどこか」への憧憬が色濃すぎる。
よく言えばピュアな、悪く言えば地に足の着かないピーターパン的少年性を強く感じる。
そして、ハタチの私はそこに琴線が触れたのだろうけれど、今は、距離を置いて観ている。
社会に対する強い憤りも無ければ、孤独でもないから、かな。(終演後の周りとのテンションの差に孤独を感じろ)

それでも、見ている間は面白かった。
「無駄にイケメン君」伊礼彼方の「アリのままで」は無駄に(ゴメン)聴かせる。
踏まれても死なないわ♪笑。

若い人に、そして少年の心を失っていない大人に、一度はぜひ観てもらいたい傑作です。

東京凱旋公演決定!
http://www.thirdstage.com/knet/asahi2014/





この『ごあいさつ』の15、6行目に、
「自分が精魂こめて書いても、観客はモゾモゾと動いたり」
と鴻上さんが言ってますが、紀伊國屋ホールなら仕方ないと許して欲しい。