
ザリガニの鳴くところ ディーリア・オーエンズ
むかし母から聞いた、母の幼かった頃の話を時々思い出します。
「近所の父親が大雨の翌日、川で死体で見つかった。酔って川に落ち溺れたのだろうと巡査は言った。これであの家も平和になった、仕方なかったのだ、警察は関係ないと、近所の者みなが言っていた。」
どんなに発達した文明社会にあっても、人間も生き物の一種。生き残りを賭けた一瞬には本能だけが働くこともある。そんなとき意思や社会のルールは意味を成さない。
「ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこに悪意はなく、あるのは拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるとしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって替わるものだと捉えられている。」 (抜粋)
この小説が映画化されていることをブロ友さんの記事で知り、そういえばわたしの読書リストに載せていたっけと思い出し、読んでみた次第です。
舞台は1950年代からの主に20年間のノースカロライナ州の湿地。
沼地で他殺体で発見された青年の捜査の行方と、「白人トラッシュ(貧乏人)」と蔑まれながら湿地でひとりで生きる少女の成長譚です。
定職もなく癇癪持ちのうえ、酒癖の悪い父親が振るう暴力に耐えかねた家族が次々と去り、幼少期からひとりで生きていかざるを得なかった少女。
少女には湿地がすべて。湿地の動植物に馴染み、貝を採り、食料に替え、地域社会との接触を最小限に抑え、普通に暮らす人々から逃げて生きていく。
その胸には消えない疑問があります。
きょうだいや父親はともかく、感性豊かで優しく、愛情深かった母親までもがなぜ自分を置き去りにしたのか。
母親への断ちがたい思慕とともに年月を重ねた少女は、その答えを生き物のサバイバル本能のなかに見出します。ああ、少女の胸にストンと落ちただろうなあ。生き物としてお母さんを理解し、それはあなたも同じだったんだよね。読者の多くが本書で最も共感するであろう場面です。
ところで、少女の成長譚と書きました。ロマンスが付きものです。野生児がまともな人間になった話ではないのです。
少女の最大の理解者である少年が早い段階で登場しています。この少年がとてもいい。
年若いながら、感情に流されない節度ある態度を見せる少年には心底感じ入りました。今日び、こんな紳士には滅多にお目にかかれない。
共通の関心事があることを独特の方法で少女に伝え、その心を開かせ、共に湿地を歩き、ボートで湖を巡り、文盲だった少女に識字能力を身につけさせることもします。
これが湿地のエキスパートととしての少女の能力をのちに「文明的」に開化させることに繋がっていきます。
そして年月をかけて相思相愛だと確信するまでに至りますが、カイア(少女の名前)がカイアであるゆえにふたりに距離ができたり、復縁したりとジュブナイル向けとしても読ませどころに満ちています。
本書には湿地の季節ごとの風景や気候、そこに棲息する生き物、植物の描写が実に多くあります。
ストーリーテリングが好きなわたしは話の進展を早く知りたくて、ともすればこういう箇所にまどろっこしさ感じ、読み飛ばすことがあります。
今回はそうしませんでした。描写に用いられる比喩が詩的で臨場感ををもたらし、文字からならではの想像力が発揮されたからです。
「その瞬間、一陣の風がどっと吹き、おびただしい数の黄色いプラタナスの葉が命の支えを断ち切って空に流れ出た。秋の葉は落ちるのではない。飛び立つのだ。飛翔できる一度きりのチャンスに、彼らは与えられた時間を精いっぱい使って空をさまよう。日の光を照り返して輝きながら、風の流れに乗ってくるくると舞い、滑り、翻る。」 (抜粋)
登場人物には思いやりのある誠実な人柄をうかがわせる人も何人かいて、少女が蔑まれ差別されるばかりではなかったことは読み手には救いで、話に陰鬱さを感じません。
サスペンス要素あり、登場人物の心情には得心がいき、動物学者でもある著者による生き物の描写を堪能できる、読み応えのある一冊でした。