「22時 文京区 東京ドーム」
東京ドームを出た友香は1人水道橋駅近くのファミレスで時間を潰しながら、ジャイアンツの名ストッパー・下山投手―ショウちゃん―からの連絡を待つ。友香は、ショウちゃんにとって、金曜日の夜だけは一緒に過ごせる「2番目の彼女」。微妙な立場だけに2人の関係についての「自問自答」してばかりで‥。
◇
いつもより連絡が遅いのか、いつもより自分自身のタバコのペースが速いのか分からないが、とにかく「何かしらの嫌な予感」が友香の脳裏にぼんやりと浮かび始めた。こういう時は、つい「ショウちゃん」の名前や「恋人」といわれるアナウンサーの名前をネットで検索してしまう。「悪い癖だ」と思いながらパソコンに指を走らせる。
―なんでだろう…。
検索してももいい事なんて何にもないのにどうして辞められないんだろう。
友香自身、昔はいわゆる「愛人」や「浮気相手」、その人の「2番手」という存在になる人の気持ちが分からないでいた。実際の所、周りの友達にはそう言う人も多くいて、中には「私、実は誰々と、2人で会ってるんだよね」と、その関係を自慢する友達だっていた。家賃をその相手に面倒見てもらっている友達、身の回りの物から、身に付けるものまで色々と「高い水準の物」を買ってもらっている友達。彼女たちの話に、友香はいつも「いいなー」と相槌を打ちながら付き合っていた。でも本当は、全然羨ましいとは思っていなかった。それは「その恋愛って、先にちゃんとしたゴールないじゃん」って思っていたからだ。だから1度、「企業社長と人気ミュージシャン、2人の2番目」をやっている友人に「ちゃんとしたゴールがないのに、付き合うって意味なくない?」って聞いたこともあった。その時、友達からは「ちゃんとしたゴールが必要っていう意味の方が分からない」って返された。この回答に「そういう考え方もあるのか…」と納得はできないが理解はして以来友香は「みんなのことは関係ない。ウチは嫌だからウチはそういうことをしない」と自分の中で決心を固めた。それなのに…
気が付いたら、ショウちゃんとそういう関係になってもう3年を超える…。
―どうして辞められないんだろう?。
最近、その理由がひとつ思い浮かび、日を重ねるうちに気持ちの中では明確になっていた。
―どこか「意地」なんだろうな。
「ショウちゃんとのことが世の中に存在してない」ということが、本当は自分自身どこかで嫌なのかもしれない。特定の誰ってわけじゃないが「誰かに話したい」という気持ちがあるのかもしれない。そして、その誰かに「いいね」って言われたいのかもしれない。その「いいね」があるだけで、ショウちゃんとのことが世の中に存在することになる。でも…それを存在させると、ショウちゃんに迷惑がかかる。だからやるべきじゃないことだと思う。でも…。
このループについて考えた時、友香は結局いつも、楽しい方向に着地ができない。そのストレスから、タバコに手が行くスピードも早くなっているのかもしれない。気づくと今夜は4本目を吸っていた。3本を超えるのは、これは珍しい。多分、今シーズンの試合終わりのファミレスでは初めてだと思う―。また少しだけ大きくなった不安を紛らわせようと、友香はラインをもう1回チェックしたが「ブンキョウリュウ」の「喰っちまおうぜ!」すら既読になっていなかった。
―せっかくショウちゃんにもブンキョウリュウのスタンプ、プレゼントしたけど…。
何かトラブルあったのかな‥。
友香は、ついに5本目のタバコを口にした。そしてスマホで変わらずあれこれと情報検索を続けていた時に、ひとつのキーワードが目に留まった。
「バスジャック」
それは、「今この時間の日本のネット界」をにぎわせているワードだった。調べてみると…1台のバスが何者かにまさに今、「乗っ取られて」いるらしい。そのジャックされたバスは、友香のいた東京ドームのそばも走ったらしい。ネットの記事には「バスジャックされた車は、東京ドーム沿いを走り本郷にある東大の赤門前で7分間停車した後、再び走り始めた」とある。
それに続く詳細もざっと読んで、友香はもう一度ショウちゃんへラインした。
「お疲れ様。今、バスジャック起きてんだって。東京ドームの近くにも来てて、東大の赤門の方に走って行ったらしいよ。怖いよね。」
…そのメッセージを送ったその瞬間、ほぼ同時にラインの着信音が鳴った。スマホ画面に、メッセージの送信主の名前が表示される。
「ショウちゃん」
指を走らせ、メッセージをすぐに確認する。そこには友香の送ったバスジャックについてのリアクションでも、今日これからの2人の予定のことでもない、全く別のことが書かれていた。
「先に帰ってて。病院行ってから帰る。」
ドキッとした。でも変にあれこれ聞いたら、ショウちゃんに「面倒だな」って思わせてしまうかもしれないと思った友香は、送る言葉を選ぶ。
「分かった。気を付けてね。大丈夫な時に連絡待ってるよ」
・・と、今度は返信も早かった。
「肘、ちょっと痛くて(笑)」
「大丈夫?監督とか球団の人には言ったの?」「大丈夫」
「分かった。何でも言ってね。
こちらは帰ります」
「了解」
「了解」という言葉をもらったら、そこからは返信しないのが何となくのマナーだと思ってはいるが、「肘が痛い」と聞いてどこか不安で…メッセージのやりとりに、漂った暗い雰囲気を消したくて…友香は「ブンキョウリュウ」のスタンプを付けた。ショウちゃんが恐竜を押せば「ファイトだぜー」と叫でくれるはずだ。
―ショウちゃんの肘、大丈夫かな。
それは、友香は知っているがメディアも、多分チームの人達も知らない情報だった。ベッドで2人並んでゴロゴロしながらテレビを見ていた時、ショウちゃんが腕枕してくれていた腕を―投げる右腕じゃない左腕だけど―友香の頭の下から抜きながらポソッとこぼしたから知った情報。
「手、頭の下から抜いてもいい?
ちょっと痺れてきた」
「あ、ごめん。痛い?」
「大丈夫大丈夫。てか、左だから痺れても
大丈夫。右やないからな」
「うん、でも…ごめん」
「ホンマ大丈夫。てか‥」
「ん?」
「まぁ誰にも言ってないけど最近、右‥3日続けて肩作って本気で投げたら、なんかピリッてする時があるねんけどな‥誰にも言ったらダメだよ?」
ショウちゃんは、大阪弁と標準語の混ざった口調で冗談めかして言ったが、決して明るい話題ではなかった。そして、友香はショウちゃんの言いつけどおり誰にも言ってなかった。知っているのはショウちゃんと、友香だけ―。だから「下山投手のひじの痛み」は世の中に存在してない物。だが、世の中に知られて「存在」してしまう物になるかもしれない‥。2人だけの「事実」を、世の中が共有してしまうかもしれない―。
―とはいえ、「下山投手の肘の痛み」が世に
バレるって、完全に決まったわけじゃない。
友香は、指を滑らせ「下山 右肘 痛み」でネット検索した。だが…それらしい情報はひとつもヒットしなかった。少しホッとした。それでも「大丈夫かな」の思いは消えず、スマホで検索を続けながらファミレスの席を立つ。
ほとんどスマホから目を離さずに、会計を済ませて店を出る。やはり、ショウちゃんの右ひじの話題はネットのどこにも出ていない。「大丈夫だ」と先ほどまでの動悸も若干収まった。その落ち着きが他の記事を読む余裕に繋がったのか、友香は無意識のうちに「バスジャック犯」のトピックをクリックしていた。
「バスジャック犯は19歳の大学2年生。
先ほどツイッターアカウントを取得し、
ツイートの中で『犯行声明を出す!』
と宣言している模様」
―19歳かぁ…私何してたっけ…。
水道橋駅に向かいながらふと考えた。19歳といえば友香がグラビアタレントを辞めた年齢だ。
―仕事じゃなくて初めて東京の遊園地に
行ったのが19歳だったかも。
目の前、高い位置でうねっている後楽園のジェットコースターを見て10年近く前のことを思い出す。
19歳のバスジャック犯は、確かに「主張!」としてツイートをUPしていた。
「主張!自分は自らの命をかけて戦い、
自らの無実を証明する!
ツイッターフォロワーが77万人を
超えた際、その全てを語る!」
77万人か。アカウントを見た。すでに7万人近くがフォローしていたが、友香はふと「なんで77万人なんだろう?」と思った。
それから…
―いきなり『命をかけて戦う』って書いちゃうのとかって、子どもっぽいかも。
19歳バスジャック犯のツイートは、友香にその思いをさらに強くさせる言葉で締めくくられていた。
「たとえ我が身朽ち果てようと、
俺らはいつでも仲間を守る!」
―うん。19歳にしては子どもっぽい。
そう感じると、それ以上はもう興味を持てなくてスマホから目を離そうとしたタイミングで、ショウちゃんからのラインが届いた。
「今日は病院にこのまま泊まります。一応、球団に言った。
こっそりだけど検査してもらう。
明日、朝イチで見てもらってそのまま球場入ると思う。
だから今日はゴメン」
「分かったよ。大丈夫だといいけど‥。
何かあったら何でも言ってね」
「了解」
―仕方ない。
ホームで電車を待ちながら、今後の試合スケジュールを確認した。来週の金曜日は名古屋で試合。その次の金曜日は大阪になっている。
―てことは、ショウちゃんがウチに来るのは
早くて3週間後の金曜か。
今日の夜から明日の午前中まで、全部が空いた。すぐに代わりの予定を入れられるわけもないから、友香はスロットアプリに戻る。無心で、ただただスロットを回す。中央線の四ツ谷駅で―京王線の笹塚駅の辺りで―乗り換えて明大前駅から永福町駅に向かう途中で―それぞれ『7』が揃った。今日はすごく当たる。揃うたびに友達から「いいね!」「すごい!」とラインが届く。グラビアのマミからは「今、西麻布で飲んでるよー。時間あったら来ない?スロット大当たりのお祝いしようよ」とまで来た。
―多分、合コンの人数が足りなくなったから急に誘ってくれたんだろうな。でも‥
「今日の金曜日」が「ただの金曜日」になったこともあって、もう全部どうでもいいかもって思った友香は西麻布を断った。そして永福町駅についた時にスロットゲームのアプリも閉じた。
電車を降りて、何もしないでプラプラとホームを歩く。みんな友香より歩くのが速い。「まっすぐ家に帰って、みんな何か予定あるのかなぁ。いいなー」と無意味な嫉妬までを覚えながら、無意識にまたスマホを開いていた。ラインがもう1回届いてた。
「明日の夜、行っていい?」
ショウちゃからの意外なラインだ。
―なんで?
明日の夜、ウチに来れるわけないじゃん。
アナウンサーの彼女がショウちゃん家に
いるじゃん。
疑問に思いながらも急いで「明日来れるの?」と返すと、すぐに返事が戻って来る。
「今日は会えなかったから、
明日ゆっくり飲もうな!乾杯!!」
思いがけないメッセージだ。肘の事も気になるし、何で明日来れるなんて言えるのか?その理由も気になって聞きたいが、友香はそれを我慢して選んだ言葉を返す。
「うん!乾杯しよう!」
ショウちゃんからの返事が速い。「乾杯!」と叫ぶブンキョウリュウのスタンプまで返って来た。
―あ、ウチがプレゼントしたスタンプ、
使ってくれた!
なんか、気持ちがスッとしかけた。
それでもやっぱり、気にかかる。
―なんで明日も大丈夫になったんだろう??
なんとなく「ショウちゃんのアナウンサー彼女」のツイッターを検索してみると、すぐにその理由が分かった。
「報告です!実は今週から…
毎週土曜の朝だけじゃなくて
日曜朝も出ちゃいます!」
―そういうことか・・。
日曜朝の番組に出るということは、土曜日も夜のうちからテレビ局入るということ。だからショウちゃんは明日の夜も空く―ということ。
理由が分かって、嬉しい気持ちとがっかりな気持ちが入り混じった。それでも、もしかしたら今度から金曜だけじゃなくて、土曜も友香との時間になるかもしれないということは事実だ。
―「勝ちのない、ゴールのない恋愛」かもだけど、金曜だけだったのが「土曜も」になったら確率が2倍になるかも。何の確率が2倍か分かんないけど。
足取りも軽くなったのか、友香は前を歩く人を1人抜かしていた。「ちょっと乾杯したいな」とも思っていた。誰と乾杯すればいいかは分からないけど―。
―どこかで飲もうかなぁ。
家に帰ってもご飯ないし、
何か食べて帰ろうかなぁ。
ぼんやりと考えながら、自宅近く―永福町界隈―の店には全く詳しくない事を少し悔やむ。この辺は、水道橋とは違って気軽には入れるお店も少ない。とりあえずは、自宅の方向へ―井の頭通りを西永福の方へと歩く。
―ウチん家の方向って、この先は赤提灯の
店とかがちょっとあるだけだしなぁ。
「さっきのファミレスで食べればよかった」とも思いつつ、赤提灯のお店の横を通り過ぎながら、脚を少しゆっくりにして、中をチラッと覗いてみる。カウンターだけの、その店の奥の席では、初老の男性がウツラウツラしている。その手前では、友香と同年代くらいの女性と若い男の子が飲んでいた。
―ウチの年齢でもこういうお店来るんだ。
意外。入ってみようかな。
一瞬思ったが、友香はまっすぐ帰ることにした。
―家に帰って1人で乾杯しよう。
ショウちゃんからまた急にラインが
来るかもしれない。