髪を切りに行った。2年ぶりの美容室はなにも変わらなくて、みんなに置いていかれているなんて嘘だった、と思った。今日の髪はサラサラだけど、明日にはシャワーをするし、安いドライヤーで髪を乾かして、安いヘアアイロンで毛先を巻く痛んでいく髪はわたしが生活している証拠だ。


あらゆる媒体で、あらゆる対話で、生活とは地続きであるといい続けている。過去やったことは変わらず今のわたしを苦しめるし、今やったことは未来のわたしに必ず全てが残るし、なにもしなくても未来は今の延長としてやってくる。わたしはまだそのことを習得できていないので(全ての物事には理解→納得→習得のプロセスがある)、給料日から1週間経った財布の中身は一枚の500円玉と大量の10円玉だけだったりする。計画性を持って生活することこそが地続きの生活の要なのではと考えたけれど、それならわたしは一生地続きの生活を習得できない。

いつか来る終わりのために、物を買って、髪型を変えて、物を食べて、そういう、生活が、たまに苦しい。指差し確認のようにやることリストをなぞるとき、いつかこれが終わって、もっと楽しい毎日を過ごせますようにと、祈る。でもこれは、努力とか献身とか、そういうのを終わらせた先ではなく、そういうのを続けた途中にポンと置かれているものである。わたしはそれが今すぐ対価なしで欲しくて、それって傲慢なのかな。地続きの生活を実績解除したら、その先にあるのはなんだろう。きっときらきらしていて、確実で、揺るがないもの。そんなものをもらった日には、己の不甲斐なさで潰されてしまうな。得られた生活に見合う体でいたい。