少し前まで、自分の吃音を少なくとも自分が覚醒している毎瞬間、意識してしまい、人生お先真っ暗、ブルーな30数年間を過ごしていました。

その間、数少ないきっかけで気持ち的に積極的になるなど、変化はありましたが、基本的にはお先真っ暗ブルーな気分でした。


が、このブログもそうですが、自分の吃音(の存在)、自分が吃音であることを積極的に認める、というか、受け入れる、というか、まあ、そんな捉え方に変えた辺りから、不思議な変化が起こり始めました。

お知らせも兼ねて書き留めておきます。


最近、自分が吃音であることをわすれかけているのです。


このことを何かに例えようと思ったのですが、ピッタリ当てはまることがありません…つまり、こうしたことです。


吃音に限らずかと思いますが…
そのコトを自分にとって当たり前のコトとして認めちゃいます。
(多分簡単ではありません、結構(一番)難しいです)

「俺、しゃべるとどもるけど、何か問題でも?」
位まで行ければ最高ですが、まあ実際のところは、
「そうそう俺、しゃべるとどもっちゃうんですわ」
位でしょうか。

この「認可」という思考により、その「非日常」の「本来認めたくない」コトが次第に①「仕方がない」コトとなり、②「日常的」、「当たり前」なこととなり、しまいには(多分)③「忘却」してしまうのです。

多分、と書いたのは、私自身、そこまで辿り着いていないからです。

でも今、②の辺りには来ている感じはします。

ですから、もう少し行ければ「忘却」してしまうと思います、多分。


(物理の法則に基づいたこの世に生きる限りは、物事は収束の方向に向かうのです!とも言えます)


最近1日の終わり頃、
「あれ?今日吃り、意識しなかったなあ」とか、
「今日、どもったっけ?」とか、
ちょっと前ではあり得ない感じになるのです。


ただよくよく思い起こせば、普通にどもっていて、決して「治った」というわけではありません。

どもりを病気のようにスカッと治したいと思う吃音者にとって、この情報、何がどうなんだ!?と感じていらっしゃる方が多いと思います。

私の個人的見解ですが、いきなり吃音は治らないかと。
(また吃音の治し方をどうこう言うブログでもありません、このブログは)


結果的には、
「気がついたらどもらなくなっていた」
みたいな感じかと。


どもらなくなる過程において絶対に必要であり、重要なことのひとつが、「吃音呪縛」からの「精神の解放」であり、それが自らの吃音を認め、日常化して忘れていくことだと考えるます。


以前にも書いたかもしれませんが、我々吃音者は吃音であるが故に、人生すべてを狭くしてしまっていると思います。

常に吃音であるが故に、精神的苦痛を味わっているのです。

この「精神的苦痛」を除去することが重要であり、吃音者を一番楽にすることです。


しかしその「認可」の過程で一時的な逆効果が私には出ました。

わざわざ自分で自分自身が吃音であることを「刷り込ん」でいるかのような。

でもそれは「一時的」に過ぎません。


忘れようとしても忘れられないコトを逆に意識して忘却までもって行く、逆手法といったところでしょうか。


長くまとまりのない記事となりましたが、以上です。