水に顔を付けられない小学生・・・

という話を聞いてびっくりしたのですが・・

実際いたことにびっくりしました

朝、顔を洗う時どうしてるんだ???

・・・タオルを濡らして吹いてもらっているらしい

そんな状態で「先生、うちの子供を泳げるようにしてください」

・・・っていわれてもなぁ。


学校で勉強の基礎基本を学ぶ前の、

基礎基本を学べる力が、根本的な人としての力が落ちてる気がしました。

「見える学力」を支える「見えない学力」を構築する土台となる、

まさしく根本であろう「人」の力。

家庭の教育力、家庭の文化的活動の質的低下は?

ねっ転がって、ワイドショー見ながら子供に勉強しろって言われてもなぁ・・・。
一週間ぶりの更新です。

先週はいろいろと忙しくてですねあせる

「現代教育を考える」と「日記」、

今週からがんばりまーす。


そろそろ進路を考えないとなという時期です。

院試か教員採用試験かはたまた蹴活か・・・汗

「自分のやりたいこと」と「自分ができること」と「自分がやらないといけないこと」

をバランスよく考えながら行きたいと思いますDASH!
前回の「見える学力」の続編です。

前回の話と比較しながら呼んでいただければと思います。

今回は「見えない学力」


突然ですが・・・・・・

子供は生まれながらに自ら学ぶことを本能的に持っていると思いますか?

生きていくうえで必要なことを学習はすると思いますが、

自分の意思で学校に行って、

自分の意思に基づいて、学校で習うことを吸収しようとするでしょうか?

もしそうだとしたら、この世から私もよく言われたあの忌々しい言葉

「勉強しなさい!」はなくなるでしょうね。

基本的には子供は自由人なのです。

ここに、「なぜ学校に行くのか?」「塾、予備校と学校の違い」があると思います。


見えない学力は「自ら、勉強する意味を見出す力」であったり

「夢や職業を選択することができる力」、「夢に向かっていくために必要なことを探す力」であったり

あるいは、「教師が言っている言葉の中からメタメッセージを読み取る力」

「新しいものを生み出す力」であったりするのだと思います。

感覚的なものです。

そういう感覚的な力を身につけることで、自由人である子供が社会に順応していく。

共生を覚えていくのです。

自由人から社会人へと成長していく際に築き上げられていく土台のことを

「見えない学力」と考えます。

そして、そういう力が今は落ちているのではないかと感じます・・


この「見えない学力」という人としての基礎・土台の上に「見える学力」があると思います。

塾や予備校はこの土台の上の部分に特化した勉強です。

非常に効率的で評価がしやすい部分です。

逆に土台の部分は評価がされづらく、非効率的で、非経済的です。

でも必要な土台なのだから、学校が必要なのです。


次回は、二つのバランスについて書きたいと思います。