肩の手術やらなんやらでいろいろと忙しかったものであせる

久々ブログの更新しました
音譜
これからもいろいろと教育について

いろいろと書いていきたいと思いますので

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体罰は必要か②の続きです。・・・コメントの返信で一部使用したのですが。


体罰に関して議論される中で、

「先生、一発殴ってやってくださいよ」や

「殴らにゃいかん時もある」といった声はよく耳にします。

また、「最近は生徒を殴る根性もない教師が増えた」などという声さえも聴きます。

ごもっともですが・・・

なぜ、私は全否定の立場を取らなければならないのか?

「時には殴ってでも止めなくてはならないとき」っていつなんだ?

という疑問が心に引っ掛かってとれないからです。

殴った時の痛みぐらい知ってます。

かわいい弟や後輩たちを殴ってしまったことを今でも忘れません。

あの時の心の痛みを忘れるわけがありません。

今でも自問自答の日々です。あれは本当に正しかったのか?・・・と。

それでも殴らないといけない時ってあると思うんですが・・・それっていつなんでしょうか?


もし仮に自分の子供が悪い方へ進もうとしていた時に、その原因が親に有ったのならば?

そこで手を出すのはいくら愛があったとしても親の自己満足に過ぎないと子供ながらに思っています。

それでも子供は親を信じてついていきます。唯一無二の親なのだから。

暴力と愛情の狭間で苦しんでいる子どもはたくさんいます。


話を戻して、なぜ私は全否定せざるをえないのか?

生徒が問題を起こして、その原因が何なのか徹底的に話して究明します。

そして、解決方法が殴らないといけないと出た時は容赦なく行く覚悟はあります。

しかしながら、現実、

「原因究明」と「解決方法」を正しく選択する能力は私にはまだまだあると言い切れる自信はありません。

何を基準とし、どんな信念が正しいのか?

そんな状態で子供の人生を変えるような無責任な行動、言動はとれません。

皆さんはどうでしょうか?

どんな基準で線引きをしているのでしょうか?

よかったら教えてください。




体罰は必要かというテーマなのですが、

私の個人的な考えは全否定です。

体罰と称されるものが「教育的指導」なのか、「暴力」なのかは誰も判断できません。

殴った本人もです。

殴った側の感情に(いらだち)や(いかり)という

個人的な感情は絶対にないと言い切れるのでしょうか?

それは殴った本人ではどんなに考えても分からないものです。

逆に、殴られた方はそのような感情を細かな部分まで感じ取ります。

「ストレスの吐け口となるやつあたり」を・・・それも幼いほどに敏感に。

今、少年犯罪が凶悪化し子供たちが暴れまわっているのは、

社会の最も弱者である彼らが、弱者であるために

過度の競争社会のストレスを一番に背負っているからです。


体罰を部分否定にしてしまうと、

「やつあたり」を「指導」しているという勘違いまで認めてしまわなければいけなくなります。

「やつあたり」か「指導」なのかは個人の主観による任意なのだから判断なんてできません。

客観的に正論を説いたとしても、

平然と暴力を指導と言い切る価値観の持ち主に聞く耳なんてあるはずがありません。


殴った人間は・・・

殴られた人間の人生を背負う覚悟があるのでしょうか?

体罰をくらい、ねじ曲がってしまった子供の人生を背負う覚悟はあるのでしょか?

殴られた人間の人生の責任を取る覚悟はあるのでしょうか?

・・・・続く。