愛歩はそれからしばらく銭湯通いが続いた。愛歩は次の仕事がまだ決まっていなかった。純平の親戚の仕事を1日も早く請負たかったけれど、あと少し待ってと言われつつ、なかなかまともな面接の日時を決められずいた。

愛歩の所持金は再び、目に見えて減っていくから気持ちが切羽詰まった気持ちになっていた。あてにしていたのに、あてにしてしまうと裏切られてしまう。

(また浮浪者寸前に落ちていくなんていやだよ。カードも使えない)

プルルー、プルルー、愛歩の携帯が鳴った。

「もしもし。どなた様ですか?」

「あっ、ユースの水口です。飯田さんの携帯で大丈夫ですか?」

「はいっ」

「あのね、急にお願いしたいお仕事が出てきたのよ。大丈夫ですか?」

「ええっ、お願いしますっ!」愛歩は神の救いだといわんばかりに、急に声が明るくなった。

「ホント?助かるわ。リニューアルしたばかりのカフェがあるのよ。2週間限定なんだけれど、ティッシュを配って欲しいの。時間が10時から19時で時間が長いけれど、その分、稼げるからどうかしら?」

「やりますー!ぜひやらせてください」愛歩は食らいつくような勢いのいい返答を返した。

「ありがとう。あなたが住んでいる最寄りから少し遠い場所になるけれど大丈夫ですか?」

「場所はどこですか?」

「うん、それが少し遠い場所で原宿なのよ。朝10時からなんだけれど大丈夫かな?」水口は少し心配そうに聞いた。

「は、原宿ですか?多分一時間くらい電車に乗っているだけでかかりそうだけれど、大丈夫です。ティッシュ配り楽しそうだからやらせて下さい!」愛歩は嬉しさを隠せずに答えた。

「じゃあ、今日、契約書を渡したいから、会社に来てくれますか?」

「はい、すぐに行きますっ!」愛歩は威勢よく即答した。


運命というのは、時に不思議なことが起こるものだとつくづく今日という日ほど思った事はあっただろうか?

愛歩は渡された契約書にサインをしながらも、凍りついていた。

「あのね、2週間限定なんだけれど、あなたに明後日から働いて欲しいお店というのが、<オードアド・ミラブル>というお店がリニューアルしていて、たくさん集客をはかりたいということで依頼がきているのよ」愛歩は<派遣先:オードアドミラブル>の名前に愕然とした。

ー今日、行きたいお店があるのよー純子の顔が浮かんきた。

愛歩はこないだ亡くなった純子と行った場所なのでその意味を図りかねていた。

「どぉ?ダメかな?急に浮かない表情(かお)しちゃって・・・」水口は顔が少し強張っている愛歩をみて少し、心配そうに問いただした。

「あっ、大丈夫です!」

「ホント?嬉しいわ。2週間限定で1人だけっていうから休みもないけれど大丈夫ですか?週2日くらい休みます?もし休むようならその日だけ他の人にお願いしてもいいから、今もし休みたい曜日があるようなら言ってもらいたいわ。ここは時給が1200円だからまとまった生活費が稼げると思うけれど・・・」水口はまるで愛歩の苦しい生活状況を知っているとでもいわんばかりに飴とムチをちらつかせるように言った。

「・・・やります!働きたいですっ!」愛歩は私情を捨てて生活費のためにその仕事を受けることにきめた。



愛歩は仕事がある日、オードアドミラブルに向かう満員電車の中で何か不思議な因縁を感じずにいられなかった。純子と会った場所かもしれない。でもそれ以上に藤本真広のポストカードを見つめていた。

藤本真広ーあの日、自分の夢が人生で一番の夢のチャンスがついえたあの日、たしか凄い大雨が降っていた。彼女の死を絶望的な気持ちで駅前のテレビモニターで愛歩は見つめていた。倒れて亡くなったとはニュースで流れていたけれど、それ以上の報道はなかった。

ーあのカウンターに座っていた男の人って何か重たいものを背負っている気がするー純子の言葉を思い出す。何も言わずにウイスキーを差し出す女の姿を思い出し、愛歩はあの男性が普通の客ではないことが容易に想像つく。なんとも言い難い不思議なあの空間の集客集めのティッシュ配りに向かっていることが何かの因縁に思えて仕方がなかった。愛歩は人生は不思議だという気持ちに囚われたことはなかった。

愛歩は原宿駅に降り立つと気だるい気持ちに囚われた。まだ開店していないPingとかいう店を通ると否がおうでも純子とあったこないだのことを思い出させずにはいられなかった。もうこの世にはいないことが何よりも信じ難かった。愛歩は足早に店の前を通りすぎた。

<オード・アド・ミラブル>の店の前に来ると、愛歩は深呼吸をした。気持ちを整え、まだ開店していない店の前に緊張した面持ちで立っていた。愛歩はユースに到着連絡をするとそっと店の扉を開いた。かりんな音を立てて扉は開いた。薄暗い店の中から見知らぬ女性が愛歩をみている。

「あっ、今日、お店のティッシュ配りできました飯田愛歩と申します」愛歩は礼儀正しくお辞儀をした。

「あっ、派遣からきた人ね」

「はいっ」

「そこの椅子に腰かけていて!」

店の女性に言われて愛歩は近くの椅子に腰をかけた。女性は段ボール箱をもってきた。

「今日はね、ティッシュの他に先着200人に使いきりのコーヒースティックをティッシュと一緒につけて配って欲しいの」

「はい」

「駅前の所で。ここに道路使用許可書が入っているから何かあったらこれを見せればいいか」

「あっ、はい」

「休憩は1時からで、また5時以降になったら適当に15分とっていいから」

「はい」

「あっ、そうだ、何かあったらすぐに連絡ちょうだい。あとあなたの連絡先を書いて」女は紙とペンを差し出した。愛歩は差し出された紙に自分の携帯の番号を書いてペンを返した。

女はポケットから名刺を取り出して愛歩に手渡した。

「何かあったらすぐにここに連絡してちょうだい」そういって女は微笑みながら名刺を渡した。

「・・・はい」愛歩は名刺を受け取るとうなづき、キャリーカートに荷物をつけると店を後にした。

キャリーカートを運ぶみちすがら、愛歩は先ほど渡された名刺を眺めていた。

「・・・本城麻里」

愛歩は小さく呟いた。


夕刻の時刻を過ぎる頃、愛歩の疲労がピークに達した。愛歩の足の裏がパンパンになり、急に痛み出した。

(あー、乳酸がたまってむくみの原因になるわ。足が痛いよ)愛歩はだんだんと動きが鈍くなっていった。

(なんか辛いんだけれど・・早く帰りたいよ・・)愛歩は半ば棒立ち状態になっていた。

「まだ、仕事中だよ」愛歩の背中に見知らぬ男が声をかけた。愛歩は慌てて振り返ると見知らぬ男が優しく声をかけた。愛歩は思わず後ろを振り向くと男が微笑みを浮かべながら立っていた。

「時給が発生しているんだからさ。でも少し休んでもいいよ」

「すみません。」

「本当に休んでいいよ」

「いえ、今、仕事中でございまして!」愛歩は気まずそうにいった。男は近づいてきて胸元のポケットから財布を取り出すと一枚の名刺を取り出すと愛歩に差し出した。

<オード・アド・ミラブル   オーナー・沢村誠一>と記されていた。

「あっ、・・・お店の方」

「そう。だから休んでいいよ」

「はぁ・・」

誠一は近くの公園でジュースを買って愛歩に手渡した。

「ありがとうございます」

誠一は缶ジュースを飲みながら愛歩を見つめた。

「あー、君、こないだ店にきていなかったか?なんか見たことがあると思ったけれど・・」誠一は愛歩の顔をしげしげと見つめた。

「ええっ。カウンターに座っていた・・?」

「そうかも」誠一は記憶の糸を手繰り寄せるように呟いた。

「事前に友達とうちの店に来てくれたの?」

「いえ、たまたま、一緒にいた子がいきたいといいまして。偶然です」

「・・そうか。なんだっていいけれどさ。うちもリニューアルしたから今まで以上に集客をはからないとこの店の存続も危ないから、たくさん配ってくれ・・」

「はい、頑張りますっ!」

「本当に店の経営って難しいんだよな。はぁー、なんかこのティッシュとコーヒー豆を一緒に配っているのも起死回生でさ、派遣に仕事を依頼するのもきつい。こんなこと、君に言っても仕方ないのはわかっているんだけれど、潰す訳にも行かなくてさ。彼女が浮かばれないからさ」誠一は遠い目をしながら言った。

「浮かばれない・・?」愛歩は首を捻りながら聞いた。

「あぁ、いや、元々亡くなった彼女の店だからさ、潰す訳にはいかないんだよ」

「・・藤本真広さん・・ですか?」愛歩は恐る恐る聞いた。

「・・・あぁ・・よくご存知で・・」

「この間、いただいたポストカードのポエムにはすごく感動しました」

「ポストカード?あぁ、まだ残りがあったんだ。あのポストカードももう残りが少なくてね、もうやめようと思っていたんだ。まだ残っていたんだ」

「すごく良かったですよ。夢を追いかけている人に対するエールみたいなポエムで素敵でした」愛歩は誠一に微かに微笑みを浮かべた。

「そう言ったら彼女も喜ぶと思う」誠一は愛歩に優しい微笑みを浮かべた。

「5~6年前ですよね。亡くなったのは。たしかニュースで・・」

大雨の雨。ただいま、人身事故により電車が止まっております。愛歩はホームの中の時計に目をやる。絶望的に時を刻んでいた。無情な時を刻んでいたのは自分だけではなかったということにニュースをみて思ったけれど、それでも自分の失望の方が強く、他人ごとのようにみていたあの日のニュースに出ていた彼氏が今、こうして目の前にいることが何よりも不思議だと愛歩は思った。子供たちが公園で遊んでいる。

「あのぉー」愛歩は恐る恐る誠一に話しかけた。

「藤本真広さんはどうして亡くなったんですか?」愛歩はあの時みたニュースを思い出し誠一にきいた。


「あっ、すみません。失礼なことを聞いてしまって」愛歩はふいに思ったことを何となしに聞いてしまったことを慌てて後悔した。

「さぁな。俺もわからん。未だにわからない。世の中には不思議なことがあるものだ。遠い世界のおとぎ話のように思っていたけれど、まさかこんなことが起きるなんて、さっぱりわからない」誠一は急に声のトーンが下がり寂しげな声になった。

「すみません。変なことを聞いてしまって。少し気になってしまったものですから」

「なんで君にこんなこと話しているんだろうな。今日、もう帰っていいよ」誠一は少し潤んだ声でいった。

「えっ?」愛歩は誠一の思いも寄らぬ言葉に一瞬たじろいだ。

「安心して。ちゃんと日当は払うし、別にクビにしたりしない。君も足が痛いだろうし、今日は帰っていいよ。明日からちゃんと来てくれたらいいよ」誠一は愛歩に言い放つと公園のベンチから立ち上がった時、誠一の目からふいに一粒の涙がサラッとこぼれ落ちたことを愛歩は見逃さなかった。

愛歩の心は激しく動揺した。どうしていいのかわからずにたじろいだ。

「今日は帰ります。また明日、宜しくお願いします」愛歩は慌ててその場を後にした。

(なんなの?あの人?どうなっているの)愛歩は真理に事情を話すと帰路についた。


愛歩は帰り道、ぷらぷら足を引きずるように歩きながらも本屋に立ち寄った。本屋の中に入ると何となし様々なジャンルをみていたら目の前に置かれている一冊の本が目についた。

「聞こえないはずの君の声が聞こえる」というタイトルだった。愛歩はそっとハードカバーのその本を手にとった。

ーごめんねー取り調べ室で突如、聴こえた純子の声を思い出した。

愛歩は本を手に取るとペラペラとめくってみた。愛歩は鞄から財布を取り出すと本の定価の1300円はあることを確認すると、レジに持っていった。

愛歩は家に戻る途中のファーストフード店で食い入るように「聞こえないはずの君の声が聞こえる」というノンフィクションの本を読んでいた。

聞こえないはずの声が聞こえるー。純子の声があの時聴こえたのは何故なのか?ごめんね。そして最期のメールでも同じようなことを書いてあった。

ー亡くなった誰かともしつながりたいと思った時、心の中でその人の名前を呼んで、メッセージをつたえればいい。もし、肩の荷が重たくなったり、肩こりを感じたりしたら塩水を少し飲んで浄化するとよい。そして亡きその人を呼び出す時、軽く鈴を鳴らすといいー愛歩は純子にどうして亡くなったのか聞きたいと思った。家の近くのスーパーの文房具屋で200円の鈴を買った。愛歩は鈴を買って電球一つの薄暗い中で本をめくりながら鈴を鳴らした。

「三沢純子さん、あなたはどうして私を呼びつけてそのまま1人で亡くなったの?」愛歩は神経を研ぎ澄まして目を閉じた。けれど何も聞こえてはこなかった。

ー未だにわからない。世の中にはおとぎ話のような不思議なことがあるものだー誠一の言葉を思い出した。

愛歩は軽く鈴の音を鳴らしてみた。

「藤本真広さん、あの日、何があっあんですか?教えてくれませんか?あなたの意識につながってみたい。何があったの?」愛歩は神経を集中させてみた。何も聞こえてはこなかった。愛歩は我にかえって自分のしていることが奇異なことに思えてきて、本を閉じた。

「何やってんだろう?気持ち悪い」愛歩はそういって立ち上がるとシャワーを浴びようと思ったけれど、未だ純子の死の光景が浮かんできて部屋の風呂に入る気持ちになれずにいた。愛歩は迷いながらも、今日も銭湯に向かった。銭湯で体を洗っていた。お湯で泡をすすいで湯船に浸かろうと立ち上がろうとした時、愛歩はふいによろけ、シャワーのジャグジに頭を軽くぶった。

愛歩の頭は鈍い音がした。

「いたっ」思わず手で頭を押さえた。

「いたたっ」愛歩は小さな悲鳴をあげた。周りにいる利用客も思わず振り返った。周囲の様子も目に入らないほどの鈍い痛みに愛歩は涙が出そうになった。

(痛すぎる・・)愛歩は鈍い痛みでこめかみを押さえた。

ーイタイ?ワタシハモットイタカッタヨー

(えっ?)愛歩の脳裏に誰かの声が微かに異質な声が小さくこだました。

ーイタイ?ワタシハモットイタカッタヨー