こんばんは。

いつもブログを見ていただきありがとうございます。

4月1日(月)に新元号が発表されまして、翌日の新聞にも書かれておりました。いつでも確認出来るようにこちらでは河北新報(第43978号)4面の内容を抜粋させていただきましたので、ご興味がある方はご覧いただけたらと思います(´っ・ω・)っ 文字数が多く一つに纏められなかったため二つにわけてあります(´・ω・`)

 

【河北新報(第43978号)1~3面】

は以下のリンク先よりご確認ください。

新元号 令和 河北新報(4月2日)内容抜粋2019①

 

 

 

 

 

4面

元号1300年 独自文化に

中国発祥 周辺に波及

現在は日本のみ使用

 

 元号は古代中国の前漢時代に始まり、時の権力者が領土のみならず、時間をも支配するとの考え方に基づく。影響下にあったベトナムや朝鮮半島など周辺地域に伝わったが、いずれも廃止され、現在も元号を使い続けているのは日本のみとなっている。

 

 本家の中国では、即位のたびに元号が改められた。人心をを一新し、民意を統合する狙いがあったとされる。その後、1911年に起きた辛亥革命で清王朝が倒れたのを機に、2千年以上続いた元号は消滅した。

 

 日本に初めて元号が登場するのは飛鳥時代で、孝徳天皇即位時(645年)の「大化」とされる。それ以前は中国の元号をそのまま用いたり、干支(えと)で時間を表したりしていたとされ、701年、大宝律令で元号使用が制度化した。

 

 その後、皇位継承のほか、天災や疫病の流行などを理由として改められ、明治以降は旧皇室典範などで天皇一代に一つの元号という「一世一元」制が導入された。

 

 しかし、日本にも存続の危機が訪れる。太平洋戦争後に旧皇室典範が廃止され、元号の法的根拠がなくなったためだ。「昭和」は法的根拠のない慣習として使われ、1979年に①元号は政令で定める②元号は皇位の継承があった場合に限り改める―とする元号法が成立し、再び法的に裏付けられることになった。

 

 

 

 

 日本の元号は飛鳥時代から1300年超の歴史を有する。世界で唯一制度が残る国として、独自文化に定着してきた。かつては、天皇が関与していた選定方法も時代の流れとともに変化。今は戦後制定された元号法に基づき政府が決定権を持つ。

 

 

 

元号の歴史

ルーツ

 中国 → 朝鮮半島、日本やベトナムへそれぞれ伝わる

 

日本で最初の元号「大化」

 途切れながらも継続

大宝律令で制度化

 天災や疫病の流行で頻繁に改元

明治政府が「一世一元」制を規定

 終戦で法的根拠失う

元号法制定(1979年)

1.元号は政令で定める

2.元号は皇位の継承があった場合に限り改める

 

 

 

近代以前 採用漢字 貴族が激論

 

 元号にどんな漢字を採用したらいいのか。近代より前には朝廷などで激論が交わされた。

 

 元号は天皇が決めるものとされていたが、平安時代ごろからは、学者に中国古典から縁起の良い文字を選んで案を出させるようになった。

 

 その後、上級貴族の公卿が、どの元号案を採用すべきかについて議論する「難陳(なんちん)」を行い、日本や中国の先例を調べた上で、適切かどうかを徹底的に吟味した。「この元号案にある漢字が以前使われた時には不祥事が起きた」「長く続かなかった」「縁起が悪い」などと激しくやり合うことが多かったとされる。

 

 絞り込んだ案は基本的には天皇がそのまま承認するが、拒否する場合もあった。1229年の「寛喜」への改元では、多くの公卿が意見をぶつけ合い、審議はもめにもめた。「喧嘩(けんか)か」と記した文書もある。

 

 鎌倉時代以降は武家が関与を始め、江戸時代には事前交渉が必要になった。幕府は朝廷から送られた案を将軍や老中、儒学者で検討し、幕府側の意向を伝え、議論を主導した。

 

 

 

「明治」はくじ引き

「平成」政府が初選定

 

 平成に代わる新元号が誕生した。一世一元制を採用した明治以降の改元作業を振り返った。

 

 【明治】

 朝廷で新元号候補について激論を交わす「難陳」を廃止し、改元前日の1868年10月22日夜、学問をつかさどる公家の菅原家などが提出した複数候補の中から新天皇がくじを引き「明治」に決めた。くじによる元号決定は前例がない。考案したのは式部大輔の菅原在光とされる。

 

 【大正】

 明治天皇の逝去直前、西園寺公望首相が元号を考案するよう指示。学者らが提出した案から大正、天興、興化の3案を天皇の諮問機関「枢密院」へ提出し、新天皇が1912年7月30日に「大正」と勅定した。考案者は内閣書記官室嘱託の国府種徳とされる。

 

 【昭和】

 病弱の大正天皇が21年から療養に専念したため、一木喜徳郎宮内相が宮内省の吉田増蔵図書寮編修官に新元号の考案をひそかに命じ、吉田は元化、昭和など10案を提示。国府も5案を出したが、大正天皇逝去後の26年12月25日に、新天皇が「昭和」と決めた。

 

 【平成】

 79年6月に成立した元号法に基づき、政府が決めた初の元号となった。政府は選考経緯の詳細を公表していないが、元号法成立後から水面下で中国史などの専門家に考案を依頼した。89年1月7日の昭和天皇逝去直後、有識者による「元号に関する懇談会」を開催。平成、修文(しゅうぶん)、正化(せいか)の3案を示し、臨時閣議で「平成」に決めた。当時、内閣内政審議室長として元号を担当した的場順三氏は後に、平成の考案者は山本達郎東大名誉教授(東洋史)だと証言した。一方で、歴代首相の指南役だった陽明学者の安岡正篤が先に提案していたとの説も根強い。

 

 

 

令和「政府誘導なし」

有識者懇「評価高かった」

 

 政府は1日、新元号決定の過程で有識者9人による「元号に関する懇談会」を開き、複数の案を示して意見を求めた。全員が発言し、新元号に決まった令和は「一番人気があった」(作家の林真理子さん)、「素晴らしいとの意見が多かった」(山中伸弥京都大教授)とされる。複数の有識者は終了後、政府が特定の元号案に誘導する場面はなかったと記者団に明らかにした。

 

 有識者の説明を総合すると、官邸の会議室で開かれた懇談会では、複数の元号案とそれぞれの出典が記された1枚の紙が配られ、杉田和博官房副長官がそれを読み上げた。出典は国書と中国古典がそれぞれ複数あった。

 

 有識者は順番に元号案に見解を述べた。情報漏れを防ぐため、事前に政府側から携帯電話を預けるよう求められていた。意見が出そろった段階で懇談会は終了。多数決などの取りまとめはなかった。

 

 9人は、新元号を発表する菅義偉官房長官の記者会見が終わるまで官邸に留め置かれた。令和に決定したことは発表まで知らされなかった。

 

 懇談会後、林さんは記者団に「初めて国書から選ばれた。万葉集ブームが起こるのでは」と予測した。

 

 大久保好男民放連会長は、政府側の意見の誘導について記者団に問われ「ないと思う」と語った。宮崎緑千葉商科大教授も「忌憚(きたん)のない意見を言える雰囲気だった」と証言した。

 

 山中氏は「令和の時代にiPS細胞(人工多能性幹細胞)を患者に届けたい」と決意を語った。

 

 

 

首相、官房長官会見要旨

 

 【選定理由】

 首相

 人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている。一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込めた。未来に向かってどういう日本を築き上げていくのか。新しい時代への願いを示す上で最もふさわしい元号は何かという点が一番の決め手だった。

 

 

 【決意など】

 首相

 平和の日々に感謝の念を抱きながら、希望に満ちあふれた新しい時代を、国民と共に切り開く決意を新たにした。広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根差していくことを心から願っている。若者たちにとって希望に満ちあふれた日本を国民の皆さんとつくりたい。

 

 

 【選定過程】

 首相

 他の案が何かも含めて申し上げるのは差し控える。閣議決定後、宮内庁を通じて天皇陛下と皇太子さまに新元号をお伝えした。

 

 官房長官

 考案者を明らかにすれば、新元号と特定の個人との結び付きが強調されることになりかねない。他の案と比較されて議論されることは適当でないと考えており、決定されたもの以外の案については、その数も含めて答えを差し控えたい。

 

 

 【万葉集からの引用】

 首相

 わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ。

 

 

 【首相会見の理由】

 首相

 私自らが会見を開いて国民の皆さまに直接申し上げるべきだと考えた。

 

 

 

根強い不要論

西暦普及も影響

 

 「なぜ必要なのか」「国民主権の憲法と相いれない」。1300年以上前に天皇が時間を支配する象徴として用いられた元号は、西暦の使用が普及していることもあり、「不要」「不便」との意見も根強い。

 

 元号は敗戦に伴って法的根拠を失い、不要論が高まった。1950年に開かれた参院文部委員会では、戦後初めて元号の存廃について本格的な議論が交わされた。西暦の方が使いやすいなどとして、日本学術会議会長や外務省局長、大学教授ら参考人の意見は大半が元号廃止だったが、廃止には至らなかった。

 

 再び国会で元号が問題となったのは79年。先立って福田赳夫内閣が元号法制化を打ち出し、反対議員からは「天皇中心主義の戦前に逆戻りする」などとの意見が出されたが、廃止の機運は高まらず、同年の元号法成立で法的な根拠が再び与えられた。

 

 ただ40年たった現在でも元号使用に反対する声が上がる。日本学士院会員の興膳宏京大名誉教授(82)は「もはや天皇が支配する世の中ではない。元号は国民が望むようなものでなければならず、なぜ必要なのかというところから議論を始めないといけない」と話す。「反天皇制運動連絡会」の新孝一氏(60)は「国民に主権があると規定する憲法に反する」と廃止を訴えている。

 

 

 

元号選定手続き全文

 

 元号法に定める元号の選定については、次の要領によるものとする。

 

 

 1 候補名の考案

 (1)首相は、高い識見を有する者を選び、これらの物に次の元号とするのにふさわしい候補名(以下「候補名」という)の考案を委嘱する。

 

 (2)候補名の考案を委嘱される者(以下「考案者」という)の数は、若干名とする。

 

 (3)首相は、各考案者に対し、おおよそ2ないし5の候補名の提出を求めるものとする。

 

 (4)考案者は、候補名の提出に当たり、各候補名の意味、典拠などの説明を付するものとする。

 

 

 2 候補名の整理

 (1)官房長官は、考案者から提出された候補名について、検討し、および整理し、その結果を首相に報告する。

 

 (2)官房長官は、候補名の検討および整理に当たっては、次の事項に留意するものとする。

 ア 国民の理想としてふさわしいような良い意味を持つものであること。

 イ 漢字2字であること。

 ウ 書きやすいこと。

 エ 読みやすいこと。

 オ これまでに元号または贈り名として用いられたものでないこと。

 カ 俗用されているものでないこと。

 

 

 3 原案の選定など

 (1)首相の指示により、官房長官は、内閣法制局長官の意見を聴いて、新元号の原案として数個の案を選定する。

 

 (2)官房長官は、各界の有識者の参集を得て、元号に関する懇談会(以下「懇談会」という)を開催し、新元号の原案につき意見を求め、その結果を首相に報告するものとする。懇談会のメンバーは若干名とし、官房長官が選考する。

 

 (3)首相は、新元号の原案について衆院および参院の議長および副議長である者に連絡し、意見を伺う。

 

 (4)全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。

 

 

 4 新元号の決定

 閣議において、改元の政令を決定する。

 

 

 

元号総覧

 

※時代区分、元号の読み方は資料により異なるものもある

※◆は各世紀の始まりを含む元号

 

 

飛鳥時代

大化 たいか 7世紀

白雉 はくち

(元号なし)

朱鳥 しゅちょう

(元号なし)

大宝 たいほう 8世紀

慶雲 けいうん

 

 

奈良時代

和銅 わどう

霊亀 れいき

養老 ようろう

神亀 じんき

天平 てんぴょう

天平感宝 てんぴょうかんぽう

天平勝宝 てんぴょうしょうほう

天平宝字 てんぴょうほうじ

天平神護 てんぴょうじんご

神護景雲 じんごけいうん

宝亀 ほうき

天応 てんおう

 

 

平安時代

延暦 えんりゃく ◆9世紀

大同 だいどう

弘仁 こうにん

天長 てんちょう

承和 じょうわ

嘉祥 かしょう

仁寿 にんじゅ

斉衡 さいこう

天安 てんあん

貞観 じょうがん

元慶 がんぎょう

仁和 にんな

寛平 かんぴょう

昌泰 しょうたい ◆10世紀

延喜 えんぎ

延長 えんちょう

承平 じょうへい

天慶 てんぎょう

天暦 てんりゃく

天徳 てんとく

応和 おうわ

康保 こうほ

安和 あんな

天禄 てんろく

天延 てんえん

貞元 じょうげん

天元 てんげん

永観 えいかん

寛和 かんな

永延 えいえん

永祚 えいそ

正暦 しょうりゃく

長徳 ちょうとく

長保 ちょうほ ◆11世紀

寛弘 かんこう

長和 ちょうわ

寛仁 かんにん

治安 ちあん

万寿 まんじゅ

長元 ちょうげん

長暦 ちょうりゃく

長久 ちょうきゅう

寛徳 かんとく

永承 えいしょう

天喜 てんき

康平 こうへい

治暦 ちりゃく

延久 えんきゅう

承保 じょうほ

承暦 じょうりゃく

永保 えいほ

応徳 おうとく

寛治 かんじ

嘉保 かほう

永長 えいちょう

承徳 じょうとく

康和 こうわ ◆12世紀

長治 ちょうじ

嘉承 かしょう

天仁 てんにん

天永 てんえい

永久 えいきゅう

元永 げんえい

保安 ほあん

天治 てんじ

大治 だいじ

天承 てんしょう

長承 ちょうしょう

保延 ほえん

永治 えいじ

康治 こうじ

天養 てんよう

久安 きゅうあん

仁平 にんぺい

久寿 きゅうじゅ

保元 ほげん

平治 へいじ

永暦 えいりゃく

応保 おうほ

長寛 ちょうかん

永万 えいまん

仁安 にんあん

嘉応 かおう

承安 じょうあん

安元 あんげん

治承 ちしょう

養和 ようわ

寿永 じゅえい

元暦 げんりゃく

文治 ぶんじ

 

 

鎌倉時代

建久 けんきゅう

正治 しょうじ ◆13世紀

建仁 けんにん

元久 げんきゅう

建永 けんえい

承元 じょうげん

建暦 けんりゃく

建保 けんぽう

承久 じょうきゅう

貞応 じょうおう

元仁 げんにん

嘉禄 かろく

安貞 あんてい

寛喜 かんぎ

貞永 じょうえい

天福 てんぷく

文暦 ぶんりゃく

嘉禎 かてい

暦仁 りゃくにん

延応 えんおう

仁治 にんじ

寛元 かんげん

宝治 ほうじ

建長 けんちょう

康元 こうげん

正嘉 しょうか

正元 しょうげん

文応 ぶんおう

弘長 こうちょう

文永 ぶんえい

建治 けんじ

弘安 こうあん

正応 しょうおう

永仁 えいにん

正安 しょうあん ◆14世紀

乾元 けんげん

嘉元 かげん

徳治 とくじ

延慶 えんきょう

応長 おうちょう

正和 しょうわ

文保 ぶんぽう

元応 げんおう

元亨 げんこう

正中 しょうちゅう

嘉暦 かりゃく

元徳 げんとく

 

 

南北朝時代

※南北朝時代には南朝と北朝の元号が併存した

▽南朝

▼北朝

 

▽元弘 げんこう

▼元徳 げんとく

 

▼正慶 しょうきょう

 

▽建武 けんむ

 

▽延元 えんげん

▼建武 けんむ

 

▽興国 こうこく

▼暦応 りゃくおう

 

▽興国 こうこく

▼康永 こうえい

 

▽正平 しょうへい

▼貞和 じょうわ

 

▽正平 しょうへい

▼観応 かんのう

 

▼文和 ぶんな

 

▼永文 えいぶん

 

▼康安 こうあん

 

▼貞治 じょうじ

 

▼応安 おうあん

 

▽建徳 けんとく

 

▽文中 ぶんちゅう

 

▽天授 てんじゅ

▼永和 えいわ

 

▼康暦 こうりゃく

 

▽弘和 こうわ

▼永徳 えいとく

 

▽元中 げんちゅう

▼至徳 しとく

 

▼嘉慶 かきょう

 

▼康応 こうおう

 

▼明徳 めいとく

 

 

室町時代

明徳 めいとく

応永 おうえい ◆15世紀

正長 しょうちょう

永享 えいきょう

嘉吉 かきつ

文安 ぶんあん

宝徳 ほうとく

享徳 きょうとく

康正 こうしょう

長禄 ちょうろく

寛正 かんしょう

文正 ぶんしょう

応仁 おうにん

文明 ぶんめい

長享 ちょうきょう

延徳 えんとく

明応 めいおう ◆16世紀

文亀 ぶんき

永正 えいしょう

大永 だいえい

享禄 きょうろく

天文 てんぶん

弘治 こうじ

永禄 えいろく

元亀 げんき

 

 

安土桃山時代

天正 てんしょう

文禄 ぶんろく

 

 

江戸時代

慶長 けいちょう ◆17世紀

元和 げんな

寛永 かんえい

正保 しょうほう

慶安 けいあん

承応 じょうおう

明暦 めいれき

万治 まんじ

寛文 かんぶん

延宝 えんぽう

天和 てんな

貞享 じょうきょう

元禄 げんろく ◆18世紀

宝永 ほうえい

正徳 しょうとく

享保 きょうほう

元文 げんぶん

寛保 かんぽう

延享 えんきょう

寛延 かんえん

宝暦 ほうりゃく

明和 めいわ

安永 あんえい

天明 てんめい

寛政 かんせい ◆19世紀

享和 きょうわ

文化 ぶんか

文政 ぶんせい

天保 てんぽう

弘化 こうか

嘉永 かえい

安政 あんせい

万延 まんえん

文久 ぶんきゅう

元治 げんじ

慶応 けいおう

 

 

近現代

明治 めいじ ◆20世紀

大正 たいしょう

昭和 しょうわ

平成 へいせい ◆21世紀

令和 れいわ 2019年5月1日改元

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、

『河北新報(第43978号)4面』より抜粋をさせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは失礼致します|∀・))))