ヨハネ福音書20章 26から29節 私の主、私の神(15) | ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書20章 21章

ヨハネ福音書をとおしてイエス・キリストを知る

ヨハネ福音書20章 26~29節

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。
戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

「8日後って月曜日?」ってあなたは思いませんでしたか?
だって、日曜日の一週間後は日曜日。一週間は7日だから、日曜日の7日後は日曜日。
それゆえ、8日後は、月曜日となるのではないか。

しかし、この日は、日曜日なのです。

聖書は誤りなき神のことばであるとすると、この福音書を書いたヨハネは、どうしても
、という数字が必要だったのだと思います。なぜならは、聖書的に言うと、新しい始まりを現す数字だからです。
8日目の後、つまり一週間後の日曜日の出来事だった、ということです。

その時トマスは他の弟子たちと一緒だった。「私たちは復活の主を見た。」と興奮している者たちと一緒であったということは、この時のトマスはかなり、他の弟子たちに歩み寄っていたと思います。11弟子が全員そろった所に、復活のイエスは再び登場しました。

「平安があなたがたにあるように。」

イエスのこのことばを、直接聞いていなかったのは、たった一人の弟子、トマスです。  トマスに向かってそう言われたのでしょうね。

そしてトマスに言われた。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」


イエスは、圧倒的な復活のリアリティをもって、トマスの目前に立たれたのです。
トマスはどんな顔で主を見上げたのでしょうか。

「一週間前に自分が言ったことを、主は聞いていたんだ。」と唖然としたことでしょう。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったトマスに、イエスは歩み寄り、語りかけられた。

そしてご自分の手を、彼の目の前に差し出されたのです。他の弟子たちにされたように。
痛々しい無残な深い傷跡がまだ残っている主のみ手。トマスは主のみ手を間近ではっきりと見たのです。その途端、溢れかえる主への思いが、すべての否定概念を洗い流したのです。

そのトマスに、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と語られたイエス。

「トマス、わたしが復活したのは、まぎれもない事実なんだ。このまぎれもない事実を頑なに拒み、受け入れなかった時のお前は、どうだったのだ? 自分の目と手だけを頼りに歩む人生は、本当の自分に生きてはいけないだろう。今、わたしの目の前にいるお前の顔は、喜びと驚きに輝いている。さあ、神が完全に成し遂げた復活の事実を、信じない者にならないで、信じ、受け取る者になりなさい。」とイエスは語られたのではないでしょうか。

20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。 私の神」

感動的な場面ですね。復活のキリストを「私の主、私の神」と言って、深く自分自身に結びつけて、最初に礼拝したのはなんと、トマスなのです。マグダラのマリヤも、他の弟子たちも、大喜びはしたが、トマスが告白したように、「私の主、私の」として礼拝してはいないのです。驚くべきことにトマスが、復活のキリストの初礼拝者なのです。

イエスは、トマスが捧げた心からの礼拝を受け取られた。
トマスが捧げたこの礼拝を受け止められたイエスは、私たちひとりひとりが捧げる礼拝をも受け取るために、神の在り方を投げ捨てて、受肉され、この地上に下って来られたからです。

トマスはイエスの前に泣き崩れたでしょうね。そして、主の御足にひれ伏して、絞り出すような泣き声で,「私の主、私の神」と、全身全霊で、告白したと思われます。 

この日、すべての弟子が全員そろい、全員そろった弟子たちに「あなたがたに平安があるように。」と祝福された。

そして、イエスの復活の姿が実際には見えなくても、主は自分のすぐ傍におられると悟ったトマスが、「私の主、私の神」と、イエスを初めて礼拝した日、

この日こそ、イエスにとっては、新しい始まり、ニュービギニング、神の数字の、復活の日からちょうど8日目であったと、ヨハネはあえての数字を初めに使ったのです。

このトマスに向かって主は語られました。

29節
イエスは、彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

「見たから信じたのか。それじゃダメなんだ。見ずに信じる者が祝福されるんだ。
だからトマス、お前は残念ながら祝福されないんだ。」
と、そんな意味でイエスは言ったのでしょうか。

まさか、そうだったら、全員救われていないし、クリスチャンはこの世に存在していませんよね。

では、どういう意味だったのでしょう。

イエスは、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなた方を遣わします。」
と復活後に弟子たちに言われた。
イエスは、トマスの未来をご覧になって、使徒トマスの働きを見たのです。そして、
「見たから信じたのか。」と言われたと思います。

「あなたは、復活したわたしを、現実にその肉眼でしっかりと見、十字架の傷をあなたの目の前で確かに見た。それだから信じたのですね。」とイエスが確認されたと思います。

何が言いたいかというと、復活のキリストを実際に肉眼で確実に見た。
という証言は、今後、非常に重要になることを、イエスは知っておられた。
なぜならグノーシスという一派が現れて、キリストが地上に実際に来られたことを、亡きものにする、強い勢力がいずれ胎動してくる。

その時、実際に復活のキリストに出会った。実際に傷跡に触れた。
実際に足元で、「私の主、私の神」と、実存する復活のキリストを礼拝した。という確かな証言が今後、必ず必要になってくることを、弟子の中で,超スーパーウルトラ級の懐疑主義者であった
トマスに、イエスはしっかりと確認された、と思います。

では、「見ずに信じるものは幸いです。」
この意味は、なんでしょう。

実際に見て信じた者と、見ないで信じる者との比較ではなく、
トマスが使徒として遣わされて行く時、「あなたの宣教の言葉によって、実際には復活のキリストを見てはいないのに,信じる者たちが大勢、地上に現れて、あなたの宣教の地は、神の子供たちで満ちるだろう。あなたのことばを聞いて、見ないでわたしを信じる者は幸いだ。」
と主は、トマスに言われました。
実際にトマスは、福音を携えて、インドに渡ったとされます。

復活から8日目のこの日、イエスが弟子たちの前で預言されたとおり、弟子たちは使徒となって、実際に世に出て行き、見ないで信じる多くの信仰者を生み出し、育て、そして、復活のいのちを証するために、殉教していったのです。

見て信じた者たちが、見ずに信じる者たちを、宣教の働きによって生み出していった。

そして、2千年の時を超えて、見ずに信じる者が、なんと、ここにもいるではありませんか。
私たちが。まさにイエスが「幸いだ。」と言われたのは、私たちです。

トマスのように、主との一対一の個人的な関係の中で聖霊に満ち溢れ、
私の主、私の神」 と礼拝していきましょう。