ヨハネ20:12
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、
ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
マリヤにとっての大問題の解決が、一方的に神側からやって来たのです。
マリヤをはじめ、弟子たちすべて、見えることしか信じることのできない者に、
見える形で、神の国の出来事の解き明かしが、到来したのです。
20:13
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。
「誰かが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私には分からないのです。」
マリヤの肉眼で見える形で現れた御使いは、第一声、「なぜ泣いているのですか。」とたずねた。
この質問の意味はなんでしょう。 泣いている原因を聞いているのではないのです。
「泣く必要も無いのに、なんで泣いているのか。」、という問いかけです。
例えて言うなら、一歳ちょっと前ぐらいの子供が、おもちゃで遊んでいるとして、
なんかのはずみにポロンと下へ落としてしまった。
すると子供は、目の前からおもちゃが消えたので、いきなり大泣きし始める。
あわてて拾って、「ほら、ここにあるよ。泣くことないでしょ。」と言っても、
もう大泣きモードに入って泣き止まない。
ちょっとレベルは低いけど、明らかに存在しているのに、「失ってしまった。」
という悲しみ、苦しみ、大問題を、自ら作り出して号泣している。
そんなマリヤに、天的な第一報を御使いは知らせに来たのです。
「なぜ、泣いているのですか。」
御使いは、「なぜ」、を強調したでしょうね。
それでもこの時マリヤは繰り返しました。
「誰かが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私には分からないのです。」
弟子達に訴えた同じ内容です。
マリヤの心はその事で一杯だったのです。
でも感動するのは、マリヤはあくまで、「私の主」と言ったのです。
「私の主、だった人」ではなく、「私の主」って。
マリヤにとっては、イエスを失った後でも、「私の主」、だったのです。
なぜマグダラのマリヤに、いの一番に、復活のキリストが現れたのか、
この言葉によって理解できますね。