私たちが自分自身を客観的に見る事が出来るようになると、理性と感情と肉体の関係を理解し、感情を制御(チューニング)できる様になります。調和です。正しく感情を調整すれば、私たちは、精妙なメンタル質料で出来た想念形態をつくり出せる様になります。

 

 メンタル質料で出来た想念形態は、人類の助けになる道具として使用する事が出来ます。アストラル質料のように粗雑な材料では無いので、驚くほど強力な働きをします。私たちも「想念」の原理を知ることで、マスター方の道具として、また、神の働きの「水路」として自分自身を使って頂く事が可能になります。ケイシーが「奉仕」をしなさい、あるいは「祝福の水路」となれ、と言ったのは、私たちが「善」に目覚めて、地上に「平和」を確立するための働き手となれ、という事を言いたかったのではないかなと思っています。

 

 それでは、私たちに出来る「奉仕」とは何なのかを探求して行こうと思います。まず、実際にボランティアに参加して、身体を使って働く、あるいは身近にいる人が困っていたら、すぐさま手を貸してあげるなどが考えられます。もちろん、これは素晴らしい事です。ケイシーは、まずは「目標を定めよ」と言います。私はこれを「人のために奉仕をする」決心をしなさいという事だと捉えました。人のために働く「決心」が第一歩です。私自分の経験から、心に決めてなかったら、いざというときに積極的に動く事ができないのを知っています。

 

 しかし、私たちに出来る「奉仕」は他にもあるのです。たとえ、その場にいなくても出来る事が…。もしも、次に紹介する事が本当ならば、「世界平和」も夢では無いという事になります。これが現在、酷い目にあっている人々だったりしても、同じ原理ですから効果が無いとは言えません。あなたは信じられるでしょうか。 


 

そうそう、伝え忘れていた事がありました。私は「何かモノを考えると、考えている通りの形態が、顔の前に浮かんでいる」と書きました。実際、私たちはそれを見ているのです。それだけでなく、オーラや自然霊(妖精など)さえも見ているのです。

 

私たちは、場所や人間に「雰囲気」というものを感じます。大抵の人は、何か行動する時、意識しないまでも、その「雰囲気」を判断基準にしています。そして、それは大抵の場合当たっています。これは、自分の身を守るために必要な能力です。危険な場合、すぐに逃げる事ができるのです。

 

見えないと思っているけど見てるのです。まだ、教育を受けていない子供が、一人でおしゃべりしているのを見たことはないでしょうか。その子に聞いてみてください。誰とお喋りしていたのかと

 

 

 

 

 

本題に戻りましょう。私たちは「想念」を使って、素晴らしい「奉仕」をする事ができるのです。(以下、転載します。)

 


 

[「神智学大要」第二巻アストラル体(上)より転載]


 

想念形態は意識的に他人に向けることもできる。その結果左記のうちのどれかが起きる。


 

(1)  向けられた人のオーラにこの想念形態の波動に同調しうる質料があると、その想念形態はその人の近くか、またはその人のオーラの中に留どまり、適当な機会が来ると自動的にそのエネルギーを放出し、かくてその人の内部で同じ波動率を強める傾向になる。

 

 向けられた人がその時たまたま多忙であるか、あるいはすでにあることについて考えている最中であるときは、その人のメンタル体はすでに特定の振動率で波動をおこしているため、向けられた想念は、その人のメンタル体にそのエネルギーを放出することができないので、その人の近くをうろつき、その人のメンタル体がその動きを休止して入り込めるようになると、ただちに入り込んでそのエネルギーを放出する。

 

その際この想念形態はまるで相当の智恵と臨機応変の才とを兼備しているかのように振る舞う(実は、想念形態は抵抗の一番少ない線に従って行動する一種の力なのである)。

 

すなわち、始終一方向に押し進み、手がかりを見つけ次第それに乗ずるのである。そのようなエレメンタルが同じ想念の繰り返しによって強くなり、その寿命もまた伸びることはいうまでもない。

 

(2) これに反して、その人のオーラに反応しうる質料がなければ、想念形態は何の影響もおよぼしえない。

 

したがって、オーラにぶつかった力に比例する力で跳ね返って原発者に戻って彼を打つ。

 

たとえば、酒を飲みたいという欲念は浄潔な、酒を飲まない人の体に入ることはできない。その人のアストラル体にぶつかりはするが、それを貫いて入ることはできないので、元の送り主に帰る。

 

「人を呪わば(祝せば、と付け足してもよい)穴二つ」という古くからの諺はこのへんの道理をよく伝えており、また、周知の通り、善良にして高尚なる人に悪念を送ってもその人に何らの影響もおよぼさぬどころか、かえって送った本人に跳ね返り、時には恐るべき、破壊的な結果となる幾つもの事例をよく説明している。

 

この事実と道理とから、純潔なる胸(ハート)と心とは、悪意に満ちた感情と想念との攻撃に対する最良の防御である、という明々白々な結論が出てくる。


 

 

 

 

 その反面、自分の愛する者に対して強く向けられた愛念や、護(まも)ってやりたいという想いは、防禦者、保護者としての働きをする。

 

それはあらゆる機会に奉仕し、守護しようとし、彼または彼女のオーラに当たってくる友好的な勢力は強め、非友好的な勢力は弱めてやるのである。

 

それは不純なるもの、短気、恐怖などから彼または彼女を護ることもある。

 

 切なる親愛の思いや、真摯(しんし)なる祈り心は相手がどこにいようと、その人のかたわらには常に事実上「守護の天使」の働きをするものを創造(つく)りかつそれを維持する。

 

世の多くの母親達の子に対する熱き想いや祈りがその子らを助け守っているなどはその実例である。

 

その在りようは霊眼者がしばしば霊視しているところであり、まれには物質化して肉眼に映ずる場合さえある。

 

甲が乙に対して愛念を送ると、それはある量の力と質料(マター)とが実際に甲から乙に対して移し送られていることが、以上によって明らかである。


 

 

 

 想念が強ければ距離など全く問題にはならない。しかし想念が弱かったり散ったりすると、その効果の及ぶ範囲はおのずと限られ、その範囲外では無効となる。

 

 前者の変わった例としてある人が甲という場所にいながら、乙という場所に自分がいる、と強く念ずる場合がある。

 

その際に生ずる想念形態の質料は大部分がメンタル質料である。それはやがて彼の姿を取り、初めのうちは小さいが、やがてそのまわりに相当量のアストラル質料を引き寄せついに等身大となって乙の場所に出現する。

 

そのような形態(現れ)はよく霊眼者が霊視しており、本人のアストラル体が、時には本人自身と見間違えられる場合も少なくない。

 

こういう現象をおこすには、想念や願望が①メスリズム的影響力をおよぼして、自分が現れたいと思う人の心に自分の姿を思い浮かべさせるか、②メスリズムの力によってその人の心霊能力を一時掻き立て、アストラル体の姿を見得るようにするか、または、③肉眼でも見うるような物質化を臨時に起こすか、すればよい。(以上、転載終わり)


 

 想念の使い方、およびその効果についてでしたが、想像以上の働きをするのだという事がお分かりいただけたと思います。私たちの「自由意志」がその力の方向性を決めるのですから、日頃から意識を高いレベルに保っておく事が大切ですね。悪く使えば「責任を負う」と説かれていますから、おそらく、カルマとなって自分に降りかかって来るのでしょう。

 

 ケイシーは「祈り」や「瞑想」の際に「視覚化(イメージング)」を示唆していましたから、やはりリーディングと「神智学」は、共に補完し合う関係なのでしょうか。視覚化もそうですが、メンタル体は使う(意識的に生きる) 事により、更に進化して強力になります。



 

(「神智学大要」第三巻『メンタル体』より転載)


 

 人間の精神を形成し発達させるにあたって、外部から少々の加勢はできるかもしれないが、大部分はまず本人自身の自発的な意識的行為の結果として形成され、発達するものでなければならない。故に、もし彼が強健で、活力に富み、活発で、高尚な思想を把握しうるようなメンタル体を持ちたいと望むならば、彼は終始一貫して正しい考え方をするように、努力しなければならないのである。

 

 人間は実はみんな自分で自分自身のメンタル体に絶えず影響を与えているのである。自分以外の人間たとえば著述家や自分に話しかける人たちから時々は影響を受けるが、常に影響を与えているのは自分自身なのである。自分のメンタル体の構成に与えている自分自身の影響は他人のそれよりも遥かに強く、自分の精神の通常の波動率は自分自身が固定させているのである。その波動率と調和しない想念が彼の心に触れるとそれはたちまち跳ね飛ばされてしまう。たとえば真実を考えれば虚偽はその心に巣食うことはできぬ。愛を思えば憎しみが彼の心を乱すことはできぬ。英智を思えば無明が彼を麻痺させることはできぬ。

 

 

 

 

 心は休閑地みたいに無為に過ごさせてはならない。そうしないと、どんな想念の種子が他所(よそ)から入り込んで根を下ろして生い茂るかしれない。また心を勝手に波動させてもならない。そうしないと、その中を過ぎる波動がどんなものであっても無差別にそれと同調してしまうからである。心は自分のものである。故に、自分という魂(エゴ)が選ぶ想念だけが入るようにしなければならない。

 

 大多数の人々はいかにして考えるべきかを全く知らない。普通の人より少しは進歩している人でさえ、全面的注意を必要とする何らかの仕事、それもその一部に従事しているわずかの時間を除けば、明確にかつ強く考えることはまれである。したがって、大多数の人々の心は常に無為に過ごし、どんな想念の種子がその中に蒔かれてもすぐにそれを受け入れてしまう。

 

 もし、圧倒的大多数の人々が自分の想念をよく調べてみるならば、そのきわめて多くが実は全然自分の考えではなく、他の人々のー言わばー脱ぎ捨てた想念の流れからなっていることに気付くであろう。普通の人は、各瞬間ごとに自分が今考えていること、そしてなぜそのように考えているかを正確に知る人はほとんどいない。自分の心をある特定のことに明確に向けないで勝手気ままに走らせているか、無為に過ごさせているかしており、したがって、その中に流れ込んできた風来坊(想念)の種子が芽を吹き出して実を結ぶことにもなるのである。

 

 平均的人間の思想より幾らかでも自分自身を向上させようと真剣に努力している学徒なら、自分の心に押し寄せ、しかもそれを受け入れさせようと絶えず押しつけてくる想念の圧倒的大部分が自分自身の想念よりも低い段階のものであり、したがって、その影響を受けないように自分自身を護る必要のあることをよく心に留めておくべきである。あらゆる種類の瑣事(さじ)に関する想念が巨大なる海原のように犇(ひしめ)き拡がっているゆえ、それを厳しく排除しなければならない。あらゆるフリー・メイスン会員が「戸口(ドアー)に万人を置いて(集会場)を侵入者より守る」ことを「普段に心掛け」ている理由の一つはここにある。

 

 もし難儀を厭うことなく、時間をかけ、集中して物事を考える習慣を形成するならば、彼の頭脳は魂(エゴ)[本当の思考者]から伝わって来るものにだけに聴従するように訓練され、頭脳が用いられないときは沈黙を続け、周りの想念からやって来る取り止めもない流れに対しては反応することもそれを受け容れることも拒否するようになり、したがって、明敏なる洞察と、下位の界層では思いも及ばぬ確実なる判断の根源である高級界層ー複数ーより発する影響力とに対して無感覚ということはもはやありえなくなる。


 

 心を常に揺れ動くことなく普遍かつ静謐の状態に保ち、自我の思いを働かすことなく、常に無我の状態に保った時のみ、高次元の意識は出現する。その時初めて彼はいずれ詳述するように、瞑想とヨガの実習に入る用意ができたのである。以上がメンタル体の実際的な訓練方法である。これを実習する人は、考えることにより自分の生涯が一段と高尚、祥福となること、および英智によってこそ苦悩は終焉を告げることが真実であることを知るであろう。賢明なる人は自分の想念を最大の注意をもって調べる。なぜなら、想念は強力なる道具であり、それを正しく用いるべき責任を負うていることを彼はよく知っているからである。自分の想念が勝手気ままに振る舞い、自分自身と他の人々に悪い結果を来さないように自分の想念を支配するのが彼の義務である。想念の力によって無数の善をなすことができるが故に、想念の力を発達させることは彼の義務なのである。

 

 

 


 

 読書だけではメンタル体は形成されない。考えることのみがそれを形成する。読書は嗜好の材料を提供するだけで、その点にだけ価値はあるのである。人間の精神的成長は読書の際に費やす思考の量に比例する。規則正しい、永続的、ただし、度を過ぎぬ練習によって思考力は増大する。それはちょうど筋力が練習によって増大するようなものである。

 

 そのような考え方をしないと、メンタル体は漠然とした、整わないものになってしまう。精神集中(思考を特定の一点に固定する力)を伴わなければ、思考力の練習はできるものではない。

 

 成長は訓練によって生ずるという生命の法則は、肉体と同様に、メンタル体にもまたあてはまるのである。考えることによってメンタル体を振動させるようにすると、メンタル圏より新鮮な質料が引き寄せられてそれがメンタル体の形成にあずかり、かくしてメンタル体は増大し、その組成も複雑さを増す。思考の量がメンタル体の成長を決定し、思考の質がその成長にあずかる質料の種類を決定する。


 

(以上、転載終わり)

 


 

「想念」の力による「奉仕」の仕方について伝えたつもりです。正しく伝わっただろうか。同じ事を、ケイシーは次の様に言っています。ケイシーの言葉を引用して、今回は終わります。



 

(問)私の人生で何を変える必要がありますか? 


 

(答)魂が、実体が、同胞への祝福の水路にならんことを求めるにつれて、一歩一歩導きが与えられる。自分で正しいと思うこと、正しい関係と思うことを実行するならば、その者は成長する能力を日々に得る。 なぜなら、霊的法則の知識が自分の精神活動に活かされるにつれて、真理は成長するものとなる。 日々に道が示される。 途中でくじける者にはその道は見出せない。 それ故、(人生において)変えるべき唯一のものは、同胞への祝福の水路にならんがために《無限なる神》の力に用いられることを、自己の内においてさらに確固として決意することだけである。(423-2)


 

(リーディング検索システムより引用)