エドガー・ケイシーは、はるか遠い昔、エジプトの「ラータ(ラ・タ)」という神官であったとリーディングによって告げられたことがあります。彼はエジプトに「美しの宮」「犠牲の宮」イニシエーションを授けるピラミッドを建造しました。なんのために建てられたのか。リーディングから拾い出して並べても良いのですが、ポール・ソロモンさんが同じことをわかりやすく説明してくれています。これを読むと白色同胞団の人間に対する深い愛情と彼らの計画の奥深さを感じざるを得ません。彼らは人類を一人も取り残すことなく我々人類を本来いるべき本源へと帰還させるという強い決意を持って我々に働きかけている事がわかるのです。

 

それでは「何故、我々は速やかに帰還する事が出来ないのか」とあなたは問うでしょう。それがケイシーの主張する「ベリアルの子ら」による人間支配に結びつきます。

 

しかし、ここでは本来の白色同胞団の計画を理解する事に専念します。かつて我々は、およそ人間とは言い難い姿から「光の子ら」(白色同胞団)の外科手術によって今の身体を手に入れました。ケイシーによると「馬の頭に人間の身体が付いている者までいた」と語っています。更に「美しの宮」において感受性、精神性を高めるトレーニングを受け、自分で考え判断を下せる能力を身につけます。ここに来てやっと彼らの教えを受け入れて「神への帰還」の道に進む準備ができたのです。

 

ケイシーの言っていることと同じですが、この本には白色同胞団の働きかけに気付かない人間の事や彼らの我々に対する強い思いが織り込まれていて、心にしみる内容です。


 

            


 

[「ワンネスを生きるホワイトブラザーフッド」(ポール・ソロモン著 高橋恵美訳 松本ひろみ監修)より転載]


 

 さてもう少し先に進もう。ここに依然として神であることを自ら認識している、肉体を持つ生き物たちのグループがいるとしよう。彼らは「年長の同胞たち」であり、グレート・ホワイト・ブラザーフッドのメンバーたちである。彼らはここに集まり、肉体に囚われてしまっている神のスパーク(火花)たちを見ている。それら神のスパークたちは動物に似ている。劣った生き物のように見え、不恰好で、羽などのような毛が生えている。ケイシーのリーディングのなかで述べられている彼らの描写は興味深いもので、彼らは羽、鳥獣たちのような折れ曲がったかぎ爪、ひずめ等があると述べている。

 

 さてもっと進化したものたち、つまり神の息子たちが彼らを見て「これらの不運なものたちに外科手術を施そう」と述べ、決意したとしよう(文字通りの外科手術ではないかもしれないが)。「私は創造者であり物質に影響をもたらすことができるから私があなた方の腕や足を完全なものとしよう。私はあなた方を癒すことができる」と。つまり肉体に変化をもたらして形態を変えるので外科手術と述べたのである。そして神の息子たちは人間の息子たちを完全なものにしようとする。

 

 後のヘブライ人の社会において、その頃の人々が人生をいかに理解しているかに合わせて語る物語の語り部だとしよう。神の息子たちが偉大な癒しの寺院(ヒーリング・テンプル)を築き、そこで人間たちの肉体は完全なものとなり、動物のような身体から人間らしい身体となった。原始的な遊牧民に向かって私がそのようなことを話すのは大変なことではないだろうか?

 

 それゆえ、おそらくこの複雑なプロセスを「これら神の息子たちはこの段階で動物的レベルにあった人間の息子たちに働きかけ、彼らが進化成長できるように助け、彼らの肉体を作り直した」と述べる代わりに、私は「神は人間であるアダムの体を創造し、そこに生命の息吹を吹き込んだ。そして彼は生きた魂となり、自分が人間であることを認識した」と述べるであろう。

 

 「年長の同胞たち」に導かれて人間が進化する過程において、アトランティスとエジプトの癒しの寺院(ヒーリング・テンプル)で起きたことを、創世記では恐らくそのように述べた、ということがわかるだろうか?

 

 繰り返すがこれは可能性であり、人間の進化の途上で起きた可能性の一つであり、創造を描写するためのモザイクの一片である。

 

 しかし実際に起きたことは、堕落した人間たちと一緒にいた「年長の同胞たち」は、彼らを肉体から救い出したのであるが、彼らが行(おこな)ったことのバランスを取り戻すために何かをしなければならないことがわかったのだ。

 

 それゆえ、彼らは自分たち自身を身体の中に置き、クレンジング(浄化)を体験し、つまり、高次のレベルに戻った。同胞の人間たちをより高いレベルへと導くという目的をもって物質の中に降下した者たちは、依然として高いレベルに留まっていた。肉体に入ったからといって必ずしも堕落するわけではない。物質に魅惑されてしまって本来の目的を見失ってしまったとき、我々が堕落と呼ぶ状態になるのだ。より正確に言えば、本来の自分とのコンタクトを失う、あるいは分離感、本来のアイデンティティーに関する気づきの喪失である。要するにそのようなことが起きたのである。

 

 さて、次に必要なことは肉体を完全なものとすること、マインドをその真の本質に再び目覚めさせること、そして気づきと神の現れを取り戻すことである。

 

 それゆえ「年長の同胞たち」は若い者たちに向かって、あるいは神の息子たちが人間の息子たちに向かって、あるいは神の息子たちが人間の息子たちに向かって言い始めた。「いいですか、あなたは創造者なのだ。あなた方は自分の身体を再創造できるのだ。あなた方は最初それを創造したのです。あなたは完全なものに変えることができる」と。彼らは若い者たちにに述べた、「いいですか、腕を完全なものとしなさい。かぎ爪は必要ない。そして手を持つことができるのです。ひづめなどは必要ないのです」と。

 

 肉体の中にいるものたちは言葉、創造的な言葉、アイディア、考えなどを話そうとしたが、自分たちにはそのパワーがないことがわかった。


 

神と同調するバイブレーション


 

 さて、話された言葉はその特定の周波数へと働きかける。要するに当時起きたこと、そして現在でも起きていることは、我々はお互いを癒すことができる。我々は創造的になることができる、ということだ。しかし、ひとつのバイブレーション、ひとつの現れがあり、それは神との同調である。そして、いわばその音で、あるいはそのバイブレーションで話された創造的な言葉は即座に強力な結果をもたらす。

 

 それは言葉で表現した内容をそのまま呼び招くであろう。ただし、正確にそのバイブレーションの高さ、調子、調和でもって、つまり神の表現と共に話さねばならない。もし神自身のバイブレーションで、神自身の調子で神を表現するなら、そのときには神の声で話したことになる。神の声で話したことは実際に生じ、即座に実現する。即座の霊的ヒーリングが生じる時がそれであり、肉体に影響をもたらして肉体を再び元の完全な状態へと戻す。つまり、私のエゴのバイブレーション、私自身の感覚、私自身の知性から話すのではなく、その瞬間に私はまさに同じピッチ、同じ同調へと到達し、神の思考および創造性と同じバイブレーションに達するのである。

 

 そしてそのために必要なことは、私の中のすべて………知性、エゴ、パーソナリティー、肉体などそれらすべて………が、私が最初にそうであった状態、つまり神と調和していることである。それは非常にデリケートな空間であり、その瞬間に私は祈り、その空間に入り、誰かを癒すのである。そしてその言葉を話す瞬間に、「へーイ、やったぞ!」と考え、わずかでも的を外してしまえば、それは自分自身に注意を向けることになり、設定したバイブレーションから引き戻されてしまうことになる。「ヘーイ、やったぞ!」と考えて離れてしまうことなく、内なる神を現すにはデリケートなバランスが求められる。なぜなら、私が行ったのではないからだ。もし私が神の声のレベル、トーン、バイブレーション、イントネーションで話すなら、それを行ったのは神だからである。私のなかの神がそれを行ったのだ。もしその瞬間に、自分が話したことの結果に注意を向けるなら、その時私は分離を現したことになり、的を外れたところに引き戻されてしまう。

 

 それゆえ、それは非常にデリケートである。神であったものたちが人間に向かって「いいですか、あなたは自分自身を癒すことができるのだ。あなたはその身体を神の身体のバイブレーションへと戻すことができるのだ。あなたは神であることができるのだ。なぜなら、それがあなただからなのだ。」と伝えようとする。

 

 彼らは神を現そうと試みる度ごとに自分自身を現してしまうような、それらの劣った形を持つ者たちと出会った。それゆえ、神であったものたちは言った、「我々はそれに関して別のやり方をしよう。彼らにそれらの体験をもたらすようなやり方を設定しよう。彼らにはそれらの言葉を理解できないのだ。」と。


 

何が人間を神から引き離すのか



 

 何が人間から神を引き離してしまうのか?神から分離している人間の中にはない神の特質とは何だろうか?あるいは別の言い方をするなら、人間と動物の違いは何か。あるいは動物の形態をとっている神と神を現していない動物の違いは何か?なぜなら、それこそが当時も現在も存在している違いだからである。

 

 ようするに、肉体のなかにいて完全に目覚めていて、神と一体になっている者がいる一方で、もう少し動物的な者がいる。完全に目覚めている者たちは、「自分たちがやるべきことはそれらの人々を目覚めさせること、内なる神に目覚めさせることだ………単なる概念として、言葉としてではなく。説明できるような物としてではなく」と考えた。

 

 たとえば、もし私が夕日を鑑賞するという能力をその人の中で目覚めさせたとすると、その人の中の神を目覚めさせたことになる。なぜなら、動物はほとんど夕陽とその色に注意を向けることはせず、そのような創造性を持たないからだ。もし私がある動物に対してそうさせることができたなら、動物の中にある神のスパークを目覚めさせたことになり、その動物はより高い本質へと進化成長したことになる。

 

 これは美の寺院(Temple Beautiful)の概念へとつながる。美の寺院の概念は、ある賢者たちが次のように言ったことが源である。「これらの哀れな、気づきをもたない動物たちを集めよう。そして彼らに美、音楽、リズム、ダンス、創造性などに触れさせよう。神を現している人間はそれらを行うが動物はそのようなことはしない。もし彼らがリズム、音楽、色、その他に興味を抱き、楽しむようになるなら、彼らは内なる神を現し始めるようになるだろう。そして次のステップは、お互いに愛を現すようになることである。愛、そして彼ら自身の肉体、その肉体の完全性を尊ぶことだ。そのとき、我々は彼らを次のステップへと導くことができる。それはイニシエーションの寺院である。

 

 さて、この段階でホワイト・ブラザーフッドについて話さねばならない。なぜなら我々は時代を通じてのホワイト・ブラザーフッドの進展、および歴史におけるその役割について話すことになっているからだ。

 

 これらの人々は時代を通じて肉体に入り、人間たちの中を歩んできた。そしてまた彼らの生徒たち、つまり彼らが当時アトランティス、レムリア、エジプトで目覚めさせることのできた者たちもいた。それゆえ後の時代になると、特定の文化圏、特定の民族にはヘルメス、ラー、民族のリーダーたち、救い主、マヌなどがいた。それら偉大なリーダーたちはそれぞれ地上において異なった場所、異なった時代に現れ、その民族の注目を集める人物となっている。そして一なること、ワンネスの概念………すべては神とひとつであり、神はひとつであることを教えた。それを指し示し、人々における神への意識を高めた人々はワンネスの現れである。彼らはすべてキリストあるいはキリスト的存在、キリストと一体であったということができる。キリストの生まれ変わりを特定の人間として区別することは非常に困難なことである。時代を通じて、それぞれ異なった場所においてキリストの特定の現れとして存在した。なぜなら、彼らは必ずしも同じ実体あるいはパーソナリティーとしての実体の生まれ変わりではないからである。

 

 しかしながら、彼らはすべて神の息子の現れであり、神が生んだものである。最初は我々全員がそうであり、あるいはマヌであったのだ。一人のキリストはキリストである。一人のキリストとは神の現れであり、自らの分離性、個人としてのアイデンティティーを失い、そこにあるのはすべて神であることを現している者である。そして彼らは最初我々が何であったか、分離を越えて今どのようになれるのか、実際に我々は何であるかを教えるために戻ってきた一人の「年長の同胞」である。それゆえ、民族の救い主たち、それらの存在たちは堕落した者ではない。新約聖書のパウロによれば、完全になった人間である。



 

              (中略)


 

 しかし、彼らが私たちに教えるために来ているが、言葉は使わない。彼らのテレパシーによる通信は彼らの仲間同士では通じるが、私たちに対しては通じない。恐らく彼らは私たちの意識に何らかのアイディアを印象付けることはできることはできるかもしれないが、私たちは物質的方法にあまりにも捕らわれてしまっているので、彼らのそのような方法ではほとんど情報を受け取ることができないのである。

 

 さて、彼らは私たちが本来何であるのか、我々がどこから来たのか、神とは何か、などを教える目的で来ているのである。

 

 自己意識がなく、言葉も持たず、直観的に通信する能力もない存在に神の概念を教えることがどれほど大変なことか、想像できるだろうか?あなたならどこから始めるだろうか?そのような存在にどのようにして教えるだろうか。

 

 おそらく、これが美の寺院のアイディアの始まりではないかと思う。いまだ進化していない存在に対してそれらを教えようとしていたとき、僧侶(priests)

たちは神の概念とはどういうものかを示唆する何らかの方法を考えついた。そしてその最初の方法はそれらの存在たちと一緒にリズム、音楽、ダンスなどを作り出すことだった。

 

 彼らは獣のような状態である。獣の注意を引いて聞かせるために、リズムや音楽を創造することを想像できるだろうか?そして獣は音楽に惹かれていき、次にリズムに合わせて動き始める。

 

 そして獣が音楽とリズムに惹かれ、それらに反応するようになると、次には獣がそれに参加してくれることを期待する。そしてまもなく、彼らはメロディーのある音を真似るようになった。そして彼らがメロディーを伴った音を真似るようになると、ほとんど成功したことになるのである。

 

 それはまだ創造性とまではいかない。もう少し先に進んで、自分たち自身でそれらのメロディーを作り出すようになるまでは。そしてその瞬間、彼らの中に新しい意識が芽生える。動物以上、獣以上の意識が発達する。言葉で表現し、哲学を生み出すことができるという意味での神の意識にはまだ及んでいない。しかし、すでに創造性によって進化の一歩を踏み出したのである。



 

               (中略)



 

 個人的に、私はその概念について議論することに興味はない。私にとってそれはどうでも良いことなのだ。その物語は一つの原理を述べている。その原理とは、音楽には単なる感覚以上の何かを私に目覚めさせる能力がある。ということだ。単なる楽しみ以上のものなのだ。ただ欲求に応えてくれるだけでなく、何かを生じさせてくれるのである。それは身体の科学的反応をもたらす。脳にホルモンの変化を起こす。

 

 何であれ脳にホルモンの変化をもたらすものは、明らかに意識状態に変化をもたらす。それは受容性を高めるのである。また、実際に音楽の質に応じて様々なものに対する受容性を高める。

 

 ある音楽は食べ物に対する私の受容性を高めてくれる。現在の私たちの文化には、否定的感情によって仕事を遂行するためのエネルギーを生み出す、という癖があると思う。つまり、仕事をやり終えるためには、自分のために最終期限を設定し、その最終期限に向かって仕事をする。最終期限に近づけば近づくほど、仕事を創造するためのエネルギーがそれだけ湧いてくる。なぜなら、人は偽りのエネルギーを生み出すためにアドレナリンを身体の組織に送り込むからだ。あるいは、もし十分な怒りを感じれば、仕事を終わらせることができるというわけだ。自分自身に対して怒り、あなたに対して怒る。怒りは仕事を成し遂げるためのエネルギーとなっているのである。そのようなときには、どんな音楽がよいか考えてみなさい。

 

 音楽は体に対してある種の症候群のように働きかける。音楽は文化の他のジャンルと同じように思える。常に音楽がある。歴史上、音楽がその時代の文化にマッチしなかったときはなかったし、将来もないだろう。なぜなら、「文化と音楽とどちらが先か?」ということになるからだ。音楽が文化を生み出したのだろうか、それとも音楽は文化の結果なのだろうか?

 

 いずれかであり、それらの反対でもあり得る。もし文化が変化すれば音楽も変わるだろう。他方、もし私たちが音楽を変えるなら、文化も変わるだろう。

 

 私たちはまだ、音楽がもたらすことのできる効果、私たちの文化において音楽が創造できること、音楽の利用の仕方などについて認識していない。意識の進化成長に対するこの素晴らしいツール、道具があり、それをどのように使うかを学んでいない。私たちは音楽をいつも利用し、その結果を偶然として体験している。音楽の結果を体験しないということはあり得ないが、音楽をどのように利用するか、そのダイナミクス(心理力学)と目的を理解していない。

 

 この世代において、私たちは芸術に対する責任を取り始める必要がある。音楽だけでなく、演劇、ダンスなどについても。そのあらゆる形態における創造性はすでに私たちに効果をもたらしている。そして我々に対するその効果は誇張され、それがまた誇張を生みます。その意味は、フラストレーションがあるとそれを芸術のなかに表現する。するとその表現されたフラストレーションは我々の前に立ちはだかり、それを我々にもたらすのだ。そして我々がそれに反応し、それ以上のフラストレーションを外に出し、それがまた返ってくる、というわけである。それ故、芸術によって下に引きずり下ろされ、あるいは芸術によって自分を高めることもできるのである。

 

 そして意識を下に引きずり下ろしたり、高めたりということは必ずしも芸術において表現された概念ではない。私は宗教芸術が世俗の芸術よりも優れていると述べているのではない。それはこのテーマとはほとんど関係ない。宗教的な歌、あるいはスピリチュアルな歌は世俗の歌よりも良いと主張しているのではないのだ。むしろ、それは音楽のトーン、ハーモニー、その音楽の流れに関係あると考える。

 

 私たちが理解すべきことは、音楽におけるフレーズの展開が私たちの身体の内分泌線、器官、組織、神経の末端などにどのように働きかけるか、ということである。



 

                           (以上、転載終わり)


 

 この本がとても重要な事を伝えようとしているのに気づいたのは、私が神智学の教えを少しではありますが理解し始めた頃です。神智学では本質をそのままストレートに表現するのですが、神智学用語が結構難しいために、読了したというだけで、秘伝を会得したような気分になってしまっていました。その点この本は読み易く、たとえを使ってそれとなく本質に迫っているので、読んでいくうちに「神智学書」で理解が不充分であった箇所、思い違いをしていた箇所をこの本の中で数多く見つける事ができました。別の本に書いてあった事柄に対して「そういう事だったか」と気づきが得られたのはこの本が初めてです。そうして分かり始めると、脳ではなくハートで理解する感覚(説明しづらいですが)自分の意識に刻み込んでくれる、なんとも不思議な本であります。

 

 ここに書かれている文章を、丁寧に意識的に読み進めていくことができれば、もっと別の意味、あるいは真理を発見出来るかも知れません。例えばカタカムナなどは、この真理の一つの現れであろうと思われます。

 

 

 

 

 純粋なバイブレーションに同調している事がどれほど大事なことか理解できると思います。今、どこの書店に行っても見つかりませんが、もしも見つけることができたなら是非とも購入することをお勧めします。

 

 


 

 今回、私がテーマとしたのは音楽でしたけれども、本書は色、絵画、演劇その他芸術と呼ばれるすべての目的とその原理、ケイシー・リーディングに出てくる「美しの宮」に関する詳細、「犠牲の宮」に関する詳細が説かれています。ギザのピラミッドがイニシエーションのために使われていたのだとケイシーは述べていましたが、実際に何が行われていたのか、洗礼とは何を象徴するものか、洗礼やイニシエーションのときに名前を変える(儀式が終われば名前を変えたようです)霊的な意味、驚愕するような事が明らかになります。

 

 音楽、絵画、演劇等、芸術と呼ばれる我々の感覚に訴えかけるものは、高次の世界との架け橋を持たない我々のために、「扉を開く…」つまり「覚醒」を促す「ツール」として計画され、人類に与えられたものであるという事を知り得たのは大収穫だったと思います。今回のブログでは、世に「マントラ」(真言)として知られるものの途方もない威力と秘密が明かされていますが、皆さんはそれに気付くでしょうか。言葉、すなわち口から発せられたバイブレーションには強力な力があるという事です。気付かなかったらもう一度意識して読んでみてください。