またブログに戻ってくる事ができました。iPadが無かった間、自分自身をじっくりと見つめる事ができました。自分の周りには「ワクチンを打ってはいけない」と言っていたのですが、自分の肉親が全員ワクチン摂取済みであったことも判明しました。これにはさすがに心が折れましたが、できれば髪の毛や爪など捨てずに持っていて欲しいと伝えました。これも自分からもっと話し合いをしなかったのが原因です。これでメドベッドを待ち望む気持ちがいっそう大きくなりました。しかしながら、まだ情熱を失っていない自分自身を確認できたのは、大きな収穫だったと思います。自分の問題はこのくらいにします。

 

 

 さて私は以前、「すべての始まり」と題して「光」そのものであった私たちが神から与えられた「自由意志」を使って「被造物」に入り込み、そしてそこから出られなくなった話をしました。

 

 

 

 

 

 そしてそれに気づいた「まだ地上に降りていない光の仲間たち」が救済のために降りてこられました。のちに聖白色同胞団と呼ばれる事になる一団です。彼ら自身も地上の法則である「輪廻転生」にまきこまれながらも、ついにイエスが神に帰る道筋を完成させます。私たちはイエスを模範として神のもとへ帰還する方法を手に入れたのです。

 

 

 今日お話しするのは、おそらく白色同胞団の一人であろうと思われるポール・ソロモンさんが講義された内容を本にした、「ワンネスを生きるホワイトブラザーフッド」(ポール・ソロモン著 高橋恵美訳 松本ひろみ監修)をご紹介します。同じテーマですが別の視点から書いているので、私たち人間がどこで道を踏み外してしまったのか明瞭になるはずです。

 

 

            

 

 

 (以下、「ワンネスを生きるホワイトブラザーフッド」より転載)

 

 

 しばらくの間、現在の我々の天地以前の天と地、つまりこの世界ができる前、神を偉大な光、暖かな球、光、生命の源として描写できる時代の天と地を想像してみてほしい。

 

 この存在、我々が神と呼ぶこの生命に関して最も驚くべきことは、その愛の能力、大きさである。そのような大きな愛をもつ存在である神にとって、唯一必要とするものがある。もてるあらゆる能力、あらゆる属性、あらゆる創造力にもかかわらず、神はひとつのことを必要としている。それは神が愛を向ける対象である。完全に満たされ、偉大な愛の質で息づく存在は、その愛を注ぐ相手、愛が働く対象を必要としている。拡大していくことと、愛する対象を必要とする結果として、創造が始まったのだ。その最初の創造物がこの神の息子の誕生である。

 

 さて、もしあなた方が時の始まりをプラスとマイナス、あるいは男性エネルギーと女性エネルギーとして想像できるなら、時の始まりを偉大な闇の海として描写できるかもしれない。これは女性としての神、魔女であるマーラ、イエスの母でありイエスを出産したマリアの現れである。時の始まりは処女マリアとして象徴される。それらはひとつであり、同じ原理、同じものを教えようとしている。さて、我々はすでにこのグループに対する主な教えの一つに触れた。次にはホワイト・ブラザーフッドについて話そう。

 

 ホワイト・ブラザーフッドについては、今私があなた方に教えをシンボルと言葉を使って表現しているように言葉によって教えることは不可能であり、教えを象徴するようなことを起こさせることで教えねばならない。私が言わんとすることは、イエスの母親である処女マリアの誕生は、秘教の原理を反映させるために、ホワイト・ブラザーフッドによって設計あるいは準備され、指揮されたのである。それはキリストの全生涯、およびほとんどの歴史についても同じである。それによって歴史自体が一冊の本、パターンとなり、意識が神へと戻るための一連のイニシエーションとなるためである。

 

 それゆえ、始めに可能性を秘めた海、偉大な静寂の海があった。それを最初の主要な静寂、平安と呼ぶ人もいる。静寂と潜在的可能性以外の何ものでもない。そしてそこから、潜在的可能性である母としての神、女性神からスピリットが活動をもたらした。あるいは男性神の活動、活動的原理、創造的原理を生ぜしめた。次にその創造的原理、その潜在的可能性から息子が誕生した。その神の息子は神がそこに表出したもの、あるいは神の表現である。

 

 ヨハネはその物語をヨハネの書物、つまりヨハネの福音書で伝えようとしており、彼はそのなかで最初の言葉を描写している。「はじめにロゴスがあった」と述べている。これを書いた時に彼が使った言葉は”ロゴス”という単語であり、それは表現、現れを意味するギリシャ語である。つまり、最初に神の現れがあった、ということである。男性的な側と女性的な側が一緒になって自らを表現する。それまではそれらは両方とも潜在的可能性でしかなかった。言葉は続く。その言葉は次に肉となり、我々の中に住む。

 

 

 

 

「神の現れが肉をまとった」はここでの教えである。ここでは次のようなことが生じた。神の愛において、神の現れが現出した。それは神の愛人(神が愛する対象物のこと。以下同)である。愛に対する内なる可能性が、今や神の愛の対象物となって存在するようになった。この対象物が息子であり、神はそれを外側に表現したのだ。

 

 さてもしあなた方が、最初、大きなセントラル・サン、熱、暖かさ、光としての神をイメージするなら、神が生んだ息子は神から外側に放射される光である。さて、それは同時に単数でもあり複数でもある。つまり、神から出て行ったものは一つの光であったが、同時にそれは神の多数の光として現された。それゆえ、神は一人の息子だけを生んだのであるが、多くの光のスパーク(火花)があったとも言える。それらはすべてひとつであった。そして最初、彼らは自分たちが一つの偉大な光であることを知っていたのである。神が自分自身を表現し、そして自分自身のために愛人を創造し、そして次の創造のステップがあった。

 

 次のステップは神の愛の対象物であるすべての愛人が望むもので、それは贈り物を創造することであった。あなたの愛を表現し、示し、証明するために相手に何かを与えることである。ここでは神がその創造力を様々な異なった仕方で示し始める。つまり、いろいろなものを創造する。神の愛の対象物のために贈り物を創造するのである。そのようにして星々や空、天体、そして地球が創造された。

 

 地球は愛人である花嫁に対する最も偉大な贈り物として創造された。それは美しく、魅力的なものとして創造された。ヨブ記(旧約聖書)では神の息子たち、そして夜明けの星々がこの贈り物、新たな時代、星々、光、空、大地、これらすべての創造の夜明けに唄を歌っている。愛人に対するこの贈り物に対して、愛人は注意を向けた。神から生まれた愛人、神の息子はその贈り物に魅惑された。そして次のステップは、神の現れである愛人、神の子供たちそのものであった。なぜなら表現されたものはひとつであったが、また多数でもあったからである。

 

 

 

 多くの現れ、それらすべてはひとつであった。またそのことを知っていた。またその現れはこの段階で、大地や、大地に属するものに魅惑されてもいた。神の息子たちであり、神の現れである彼らはまた本質として創造者であった。そして創造者として、神との共同創造者として彼らは地上において創造を体験し始め、その創造物によって大地に影響をもたらした。物質を生み出すことによって大地に影響をもたらしたのだ。

 

 さて、科学的にも、創造はこの理論あるいは表現の試みにかなり一致する。私はこれをドグマとして掲げて、実際にそのようにして生じたと言っているのではない。私はそれをアナロジー(類比)として述べている。これは参照点のない何かを描写しようとする試みであり、それによって心のなかで理解してもらうためのものである。科学は何らかの理論によって、まず、最初に大地が創造されたと言うかもしれない。次に湿気、光が地上で働いて光合成というプロセスが生じ、それは大地から水へ、そして植物としての生命その他が生じた。それゆえ土、空気、火、そして水などのエレメントが働いて、大地に様々なものをもたらした、と科学的説明はなされるであろう。

 

 

 さて、このプロセスの間、意識はある知的なフォース(力)にある影響をもたらした。ある目的を持って創造に影響を与えた………それによって大地が知的な表現を帯び、植物という生命が生じるためである。神秘家たちはそれがレムリアの時代であったと述べている。レムリアとは場所と時代であり、歴史の進化における一時期であり、その時代に神の息子の意識が神の共同創造者として、地上に植物生命を発展させたのである

 

 それゆえ、植物は創造者の意識を反映し始めた。レムリア時代初期の植物は美しく、愛と調和を表現していた。さて、その当時の植物になかったものはサボテンのトゲ、嫌な匂いをもつ毒のあるハーブ等である。あるいは次のように言う方が良いかもしれない………当時存在したあらゆるものにはいかなる防御システムもなく、またそのようなものを具える必要もなかった。なぜなら、脅かされる敵がなかったからである。もし敵が存在するとしたら、それは体のある部分が同じ体の別の部分と戦う事であったかもしれない。なぜなら、その当時はすべての存在物はあらゆるものがひとつであることを知っていたからである。これが農業の発達、および農業意識の発達であった。

 

 さてこの時期に興味深いことが起こり始めた。それは創造者たち、それら神のスパークたち、神の息子であるそれらの現れが、あることを認識し始めたのだ。そして自分たちが創造したそれらの生物たちを体験するようになったのである。植物はお互いに他の存在を、そして雰囲気を感じ取り、反応することができるようになった。それらは感じ、体験することができ、神の現れがそれまで行(おこな)っていたのとは異なったやり方で感じ、体験することができるようになったのだ。

 

 それを体験するためには、ただその植物と一体になるだけでよかった。想像的であり、神の本質を具え、純粋なスピリットであったので、それらの意識は植物と一体化して植物となり、あるいは植物の中に入ることができたのだ。それらは魂であり、植物の生命であり、植物が体験することを体験できたのである。そしてさらに、物質的存在の中に囚われるのがどのような感じであるかを体験し始め、その観点から反応し始めた。しかし、そこには副次的結果があった。つまり、彼らの意識が狭まって下がり、その特定の植物の一部となったのだ。

 

 その同じ頃に始まりはじめたアトランティス時代、それは歴史的には少し後になるが(そして私が歴史的に少し後と言う時、それはおそらく数百万年後のことを意味する)、それらの有機物は動物生命の側面を帯び始め、お互いに離れていき、もはや植物ではなくなり、新たなレベルへと進化していった。これは創造のもうひとつの日であり、聖書では動物誕生の日として書かれている。

 

 それゆえ、これはアトランティスの時代であり、動物のような体、植物以外の三番目の現れが発展した時期である。肉体のなかでの自らを表現すること、そして植物の中で自らを表現することには同じような結果が伴う。つまり、物体の中に入ることで意識が狭まり、他との分離感が生じるようになった。そして、その感覚のなかに長く留まらない限り、身体と同一化しない限り、定期的に物体から抜け出て存在するものすべてとひとつになり、自分が何であるかを認識している限り、それは全く安全であり、それは意義あることである。聖書には、それらの存在たちが初めはその新しい創造の美しさの中で喜び、遊び戯れる様が描かれている。それが本来の目的なのだ。それらの意識たちが創造物と共に楽しんで体験すること自体には何の問題もない。そのためにそれらはあるのだ。しかし、あなた方はそれらを想像できるだろうか?

 

 さて、もしあなた方が人類の堕落について理解したいと望むなら、それは常に明確ではない。もしあなたに愛する人がいて、そのあなたの花嫁に可能な限りもっとも美しい、オリジナルで創造的なものを与えるとしよう。あなたの愛はとても大きいので、かつて創造された最も偉大な贈り物をしたいと願い、そうする。しかし、もし、花嫁があなたよりも贈り物の方に魅了されてしまい、あなたを忘れて「これは何と素晴らしいことでしょう。あなたはもう向こうに行ってください。私はこの贈り物に心を奪われてしまったので、もはやあなたと一緒に時間を過ごしたくはないのです」と言われたなら、あなたはとても失望することだろう。さて、これが堕落の本質である。

 

 個人としての神の息子たち、つまり神の体から出たものたちを創造するという行為において興味ある点は、神はその論証力、偉大な創造的マインドにおいて「さて、今や私が愛を注ぐ対象があり、私という存在から生まれ出たもの、神の息子がある。私自身の現れを誕生させた。しかし、一つだけ欠けているものがある。それは、これらの現れは操り人形みたいであり、私を愛すること以外に選択の自由がないことだ。彼らには私と同じ本質があり、私と同じであるべきだ」と考えたのである。

 

 さて、それがこの偉大な贈り物に贈り物を創った本質的な目的である。花嫁のためのこの贈り物は神が次のように言うためである………「私の現れであるあなた、私の愛の対象であるあなた。そのあなたが私に向ける愛は、もしあなたに選択の自由があるなら、その時に初めて意味をもつ。私に対するあなたの愛が意味あるものとなるために、私は非常に驚くべき、そして魅力的な贈り物をあなたに与えねばならない。それは、私ではなくその贈り物の方を愛する可能性という贈り物である。それでもあなたが私の方を選ぶなら、そのとき私に対するあなたの愛は意味のあるものとなるであろう」

 

 そして、この選択の自由こそが神のこの現れ、神のこの創造物を、神が創造した他の創造物、つまり天使たち、動物たち等とは異なったものとしているのだ。それらの創造物も進化するのであるが、唯一の違いは神の息子たち、神の愛の対象、神の現れには選択するという能力があることである。つまり「私はあなたを愛しています。私は大地を体験できます。私は物質をあなたからの贈り物として、それと同一化することなしに、そしてあなたから意識をそらせることなく、それらを体験することができます」と述べる選択があったのだ。しかし、それは起きなかった。なぜなら神が愛する愛人は、贈り物に心を奪われてしまい、贈り主よりも贈り物を体験するようになってしまったからである。

 

    (以上、転載終わり)

 

 

 

 

 いかがでしょうか、本来「神の子」である私たちが道をあやまった最大の理由がここには記されているのです。人類のかかえる「原罪」とはこういうことなのかなと私には感じられます。この本はポール・ソロモン氏の講義ですから、ブラザーフッドの思いがダイレクトに心に伝わってくるのでは無いでしょうか。

 

 

 ケイシーやポール・ソロモン氏を知ったあなたは、次の動画を見てどう思うだろうか。私には彼がどこにでもいる普通の人には、どうしても見えないのです。彼こそが主の道を清める使命を仰せつかった方では無いのか。私の目には、聖白色同胞団の高位のマスターに見えてしょうがないのです。

 

 

 いろんな方がYouTubeに UPされてますが、唯一動画が見れるのはこのブログの下の方にあるTwitterの動画のみになってしまいました。あらためてトランプさんとQは、今まさに世界を牛耳っているとてつもない悪魔と戦っている事に気付かされます。