私は中学になって、今度こそ、ちゃんと学校に行こう。
そう思って、中学校に通い始めました。
勉強も、友達関係も、部活も、ピアノ、歌、塾、演劇。
そのすべてを頑張るんだ!と思って一生懸命学校に行きました。
そのおかげで、最初はクラス委員にも選ばれました。
友達、上級生、先生、親。そのすべての人々にほめられようよく思われようとして頑張っていました。
3:00~4:00まで部活に出て、そのあと5:30までピアノ、6:30まではまた部活というような生活をしていました。
でも、そのうちに息苦しくなっていきました。
あまりによく見せようとしていたのが災いして、同じ学年の男の子たちに軽くいじめられたりとか、されるようになっていきました。
発表とかはきちんとできても、友達作りは苦手だったので、女の子の友達もできなかったし、その忙しい生活に体力と精神力の限界でした。
まず、いつもの吐き気頭痛腹痛が始まりました。
そしてだんだん、勉強ができなくなっていきました。
数学の教科書を見るとほんとに辛くて泣きそうになってしまうとか、破り捨てたくてどうしようもなくなるとかそういう感情がおこるようになっていきました。
演劇も、ピアノも歌も何もかもがうまくいかなくなりました。
その時期は、祖母も倒れ、父と母もうまくいっていませんでした。
そして、学校に行けなくなっていきました。
母はとても心配しました。怒り、叫び、嘆きそして、殴ってでも、私を不登校にさせまいと頑張ってくれました。
でも、そのすべてをもってしても、私は学校に行けませんでした。
でも、お芝居だけはいっていました。
家の中だけに居なくてはならなくなるのが怖かったからです。
母は、私が家に居る間家事をしなさいといいました。
でも、私はそれすらできなかった。うつ状態で、泣きながら学校にはもう行けないといって、真っ暗な部屋の中で眠り、本を読むことしかできなかった。
母は、たたいてでも、将来私が何とか暮らせるようにしてくれようとしたけれど、そのことは私にとっては辛いだけだった。
そのとき、私には太陽の光さえが辛かった。まぶしすぎてきれい過ぎてすっごくみるのがつらかった。
そのときは、空も木々も何もかもが灰色にしか見えなかった。
外を歩くときは、息を殺して誰にも見つからないように、私だとばれないように歩いていました。
私が居られる風景は、演劇に行くときに見える夕焼けぐらいしかなかった。
家に居るときは、母のどうして学校に行けないのかという追求に耐え、どうして学校に行けないのかという嘆きと、平手の中で居なきゃいけなかった。
その中で、唯一、私の味方だったのが歌だった。
歌っているときは、ずうっと苦しかった呼吸が少し楽になった。
歌はいつも私を裁かないし、悲しみにそっと寄り添っていてくれた。
歌のことばは裏切らない、私を傷つけたりしない。
道端でも、私は歌っていなければ、怖くて歩けなかった。
お芝居でも、私はうまくいってなかったけど、歌えるからお芝居をしていた。
でも、学校も家も私にとっては地獄だった。
母の怒っているときの声のトーンを聞いただけで、体が苦しくなる。
それに、じぶんでも、学校に行けない自分に、将来に絶望していた。
このまま生きていても、苦しい将来しかない。
そうとしか思えなかった。死にたかった。
心が枯れていて、泣くことも、笑顔を作ることもできなかった。
それでも、ずっと家に居るよりはましだったからお芝居に行った。
母は、怒った。
「なんで、学校に行けないのにお芝居にはいけるの?どうして学校に行かない余計なことするの!
学校に行かない日はお芝居もなし」
そう言った。