「イルジメ」怒濤の第17話に捧ぐ | イルジメ〔一枝梅〕 公式応援ブログ

「イルジメ」怒濤の第17話に捧ぐ

アンニ・ヨン・ハセヨン。 


やばい、やばいです! いまだ仕事は終わらないのですが、イ・ジュンギの新作の共演者が決まったというニュースを聞き、いてもたってもられなくなってしまいました。

今回のパートナーは、なんとハン・ジミン!「復活」「京城スキャンダル」「カインとアベル」と見てきて、実際取材もしていますが、なんか可愛い人です。

ちなみに、「京城スキャンダル」のロケ取材をしたとき、ロケが深夜にまで及び、ソウルに戻れなくなったことがありました(場所が田舎だったので)。どうしようと頭を抱えていると、我々の顔をのぞきこんだハン・ジミンさんが一言、「私たちの車に乗っていけば?」……人気女優のプライベート車に同乗なんて恐れ多いと思いつつ、背に腹はかえられず、彼女の車に一緒に乗ってソウルまで戻ったのですが、そのとき抱いたイメージは「江戸っ子」(笑)。

イ・ジュンギとのコラボが楽しみです。9月には撮影が始まるようなので、こちらの応援も始めなくては!(笑)


で、現在のわたくしは…というと、相変わらず締め切り地獄でして。が、この週末で大きな山がひとつ終わる予定! おめでとう、自分!

なので、今日は第17話に関するエコ記事をアップしておきます。
週明けには久々に「イルジメ」を堪能できる! そしたら、新記事をアップしますね。

では、今日のエコ記事です…

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前回に続き、様々な感情が交錯する第17話。その感想の前に、少し余談を。

先日、某雑誌の覆面対談に呼ばれ、語ってきたのだが、与えられたお題目は「魅惑の脇役」。もちろん韓国ドラマの、である。

私ともう1人のライターとの対談だったのだが、互いに真逆の嗜好の持ち主で(でも仲良し)、そもそもチェックしている作品、支持する作品が違うのだが、今回真っ先に話題にのぼったのが『イルジメ』だった。見ている視点は微妙に違うのだが(たとえば、私は完全にヨン寄り。彼女はシフが気になる様子)、お互い「これは面白いよね、男性も楽しめるよね」と大絶賛。

まぁそれはさておき、この対談で私が一番言いたかったのは、「脇役も、主人公の物語にぶれがなくてこそ、主人公の魅力が十分に放たれてこそ」ということだった。どんなに脇役がいい演技を見せても、主演が光っていなくては、そこまで味わえないもの。核がしっかりしているからこそ、脇の演技にも目がいき、ぐいぐいと引き込まれていく。

そのいい例が、この『イルジメ』だ。タンとセドル、タンとシフ、コンガルとポンスンなど、様々な脇の物語もひとつひとつ胸にくるものがあるが、それも、ヨン=イルジメという柱があってこそだと思う。どんなにタンとセドルが頑張ったところで、ヨンに魅力がなければ、物語自体に引き込まれないで終わってしまう。ヨンの物語に夢中になりつつ、はさみこまれる脇の物語も気になっていく。主と脇、両者が互いを生かしあう、理想の形を築き上げていくことは、非常に難しいことだ。上手い脇役が主役を邪魔してもいけない。それに、上手い脇役に主役が食われるような弱い演技をしていてはいけない。だからこそ、主演は大事なのだ。核となって引っ張り、脇と織り合っていく。

脇役の演技が光っている作品は、主演が素晴らしいからである。間違いなく、そうである。



そして、もう一つ、時代劇で主人公を演じるのは若い俳優には高度である、ということ。様々な登場人物が入り組み、サイドストーリーがいくつも並行して流れていく時代劇において、主人公はそのすべてをしっかりと引っ張っていけるだけの演技力を必要とされる。そういう意味で、「イ・ジュンギはすごい」というのが、2人の意見だった。確かにミニシリーズで、本格時代劇ではないが、“見(魅)せなくてはいけない要素”が現代劇よりはるかに多い時代劇において、これだけ作品全体を魅せたのは(しかもラブストーリーというお約束要素が少ないにも関わらず)、やはりすごいことだと思う。『イルジメ』を見るたび、そう思う。

最近、業界内では、すっかりイ・ジュンギ・ファンと認知されてしまったが、私はいい役者が好きなだけだ。いい役者を応援したいだけだ!と、心の叫び(笑)。いや、まぁ、ファンですがね。はい、ファンですよ!
余談なのに、長くなってしまった。

さて、第17話の本題に。

衝撃のセドルの死から始まり、イルジメの正体を 知ったタンの行動、ヨンと兄弟であることを知ったシフの葛藤、コンガルが仇と知ったポンスンの怒り、そして、様々な罪の意識を背負ってしまったヨンの苦しみ、イルジメとして巻き込まれる陰謀、実母とのニアミスノと、息をもつかせぬ展開で、次から次へと衝撃の出来事が押し寄せる。それもただの事件ではない。いろいろなことが明らかになり、それが彼らの心を激しく揺さぶっていく。あまりにいろいろなことが起こりすぎて、どこから書いたらいいか…。


ただ、私がもっとも胸がぎゅっとなったのは(もっとも、じゃないな。他にもあるのだが…)、以前も書いたが、瀕死のヨンが幻に見たものだ。死の淵にあるヨンの脳裏に浮かんだのは、誰でもない、“母”タンなのだ。

「ヨン、しっかり。死んじゃダメよ」

そのタンの声に支えられ、ヨンは意識を立て直し、母のもとへ必死で帰っていく。それは、以前ヨンがムイに氷湖に落とされたときに、父ウォノの声で目覚めたシーンに重なる。もはや、ヨンを支える家族は、母タンであり、父セドルなのだ。

息を引き取ったセドルに覆いかぶさるように泣きじゃくるヨンを、なだめるように背中から抱きしめ、親子が重なって涙を流すシーンは、胸が切られるように、苦しいほど、心を締め付けるものがあった。悲しいのに、それでも、こうして親子3人がひとつになった姿に熱いものを感じ、人と人のこれ以上ない強い結びつきに、ただただ涙した。

ある意味、セドルは幸せな人だとも思った。愛した分だけ、愛される。それを教えてくれる人だった。自分がいつか亡くなったとき、こんな風に悲しんでくれる人がいるだろうかと、そんなことも思った。

雨に濡れながら、セドルの遺体を運ぶシーンで、外に出て濡れているセドルの足もとに、タンがござをかけ直してやるシーンがあるが、こういう小さな演出が素晴らしい。


一方、セドルの葬儀のあとに、ヨンはシワンと共に飲み荒れ、シフはヨン(ギョム)の実母のもとで涙する場面があるが、それぞれの心のメ母モというものが映し出され、その深い結びつきに、胸がじ~んとなってしまう。

これまで言葉には表さなかったそれぞれの心の内が、ひとつひとつ明らかになり、うんうん、そうだったのね、と泣きながら見てしまった。セドルのタンに対する想い、タンのセドルに対する愛、ヨンとタンの母子の絆。

「もうずっと前からあなただけだった」というタンの言葉は、そのまま息子ヨンに対しても通じるものなのだろう。


そして、ヨンだ。

自分のせいで、父セドルを殺してしまったという、深く重く悲しい罪悪感。さらに、実父ウォノの仇の娘ウンチェを愛してしまったことに対する罪悪感。そうでなくても、姉を殺し(実際はヨンのせいではないが、彼女がヨンを捜していたことが死のきっかけとなったからねぇ)、シム・ギウォンら自分を捜していた人たちがことごとく殺され、そのすべての死の責任を1人で抱え込んでしまったヨン。その苦しみは、想像を絶するものだ。


「あの人は、僕の腕だ。僕の脚だ。僕の胸だ。僕のすべてなんだよ!」


父セドルをヨン=イルジメはそう訴えるが、そのすべてを失ってしまったヨンの気持ちは…。もう考えただけで、痛くて痛くて仕方ない。


さらに、追い打ちをかけるように、イルジメに着せられた殺人の罪。「決して人は殺めぬ」イルジメを突き落とす陰謀。マスメディアの誤った(企まれた)情報で、簡単に、英雄から罪人へと評価を変え、手のひらを反す民心の悲しさも、皮肉たっぷりに描かれている。ここで私はどうしても、マスメディアやそれを鵜呑みにする一般の人々の噂に振り回され、傷付けられる“スター”という存在を思い、胸を痛めてしまう。

そして、こんなところまで、鋭く描く『イルジメ』という作品に、圧倒されるばかりなのだ。

とまぁ、他にも書きたいことはあるのだが、今回はここまでで。

皆さんは、どのようにご覧になったでしょうか?  次回も怒濤なんですよねぇ。

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自分であらためて読んでみて、我がことながら「熱いなぁ」と思ってしまいました。

私は先日のイ・ジュンギの来日コンサートで、「やっぱり好き!」というのを再確認したのですが(笑)、こういう商売をしている関係で、冷静に、客観的にすべての俳優、作品と向きあわなければという気持ちもどこかに常にあります。でも、どうしても贔屓目になる(苦笑)。ミーハー根性だけで「好きだ好きだ!」と言わないように、極力、その“好き”の理由を分析して、伝えようと思うのですが…。

ある本に、「理由付けをしても、結局恋には理由がない。ただ好きなだけ」とありました。まるで、韓国ドラマ(笑)。私のジュンギ好き、「イルジメ」好きは、「ただ好きなだけ」なのかもしれません。でも、やっぱり好きには変わりません。なんなんでしょうねぇ。この感情は…。

まぁいいや。だって好きなんだから(しつこい!笑)。


そんなわけで(どんなわけで?)今回は、ここまでで。

アンニ・ヨン!